学習指導要領 音楽編

(試 案)

昭和二十二年度

文 部 省

 

みんないいこ

 
  一 お は な を  か ざ る  み  ん な  い い こ

  二 き れ い な  こ と ば  み  ん な  い い こ

  三 な か よ し  こ よ し  み  ん な  い い こ

目  次

まえがき

第一章 音楽教育の目標

第二章 音楽の学習と児童の発達

第三章 教程一覧表

第四章 第一 音楽の学習指導法

第五章 音楽指導における予備調査 第六章 第一学年の音楽指導

第七章 第二学年の音楽指導

第八章 第三学年の音楽指導

第九章 第四学年の音楽指導

第十章 第五学年の音楽指導

第十一章 第六学年の音楽指導

第十二章 第七学年より第九学年までの音楽指導

諸 注 意

歌唱教材一覧表

全歌唱教材とその指導上の要点

鑑賞レコード教材一覧表

参 考 書

ま え が き

一 芸術としての音楽の本質

 音楽は,音を素材とする時間的芸術である。

 音楽では,素材となる音に,まず,生命が与えられる。即ち,音のリズミカルな運動が起されて,ここに,音楽的な生命の躍動が始まるのである。

 リズミカルな運動は,発展して旋律的な要素の導入となり,旋律的な動きは,必然的に和声の肉附けを生む。

 このような発展過程をたどる音の運動は,他面において,音勢(ダイナミックス)によって,陰影と活動的な力とが与えられ,速度によって,音楽表現の根本的な傾向が規定せられ,拍子によって,それらが整備されるのである。

 音楽においては,このような要素が,更に形式という「わく内」で動かされる。

 音楽が,このように一定の形式をとるのは,音そのものが,言葉のような具体的な内容を持たぬ上に,発生と同時に消え去るという,根本的な特性に基因する。かりに,作曲者が,感興の趣くままに,音を無秩序に並べる時は,音が具体的な意味を持たぬだけに,それを音楽として,統一的にとらえる手掛かりをわれわれに与えないのである。即ち,第三者にとっては,それは,単なる音の無意味な羅列に過ぎず,音楽として理解し,感得することができないのである。それ故,古来,音楽の表現には,多様性の中に,秩序と統一とを見出だすところの一定の形式を用いたのである。ことに,古今の名曲として,広く親しまれているものは,たとえそれがどんな簡単な小曲であるにしても,極めて秩序正しい形式を持っている。

 次例は「菊」として,わが国でも明治以来愛唱せられているトーマス=ムーア(Thomas Moore)の「夏の名残りのバラ」(The Last Rose of Summer)であるが,一見してわかるように,典型的ともいうべき,厳正な形式をとっているのである。このような実例は,随所に見出だすことができる。これをもって見ても,音楽においては,古来,形式がいかに重んぜられていたかが容易にわかるであろう。

 このようにして生まれた音楽は,人間と同じように生きている。そして音楽独自のことばで,その楽想を語るのである。

 独自のことばとは何かというに,それは,音そのものであり,音の運動である。しかも,それらは,世界ただ一つの普遍語である。

二 音楽の特異性と音楽教育

 前項で述べたように,

  音楽は音を素材とする時間的芸術である。

したがって,そこには,音の持つ特性が十分に発揮せられる。その一つの現われとして,

  音楽の流動性

があげられる。即ち,音楽は,時間的に動く性質を持つのである。

 ここに,時間的芸術としての音楽の一つの特異性が見出だされる。

 時間的芸術であるということは,

  音楽の瞬間性

を意味する。即ち,音楽は演奏されると同時に消え去り,文学や美術のように,同じものをくりかえし,長時間にわたって味わうことは許されない。その上,音はことばのように具体的内容を持たず,現われるものは音そのものであり,次から次へと続く音の動きのみである。

 したがって,音楽では,これらの特性を活用するような表現法が工夫せられ,その表現を巧みに生かす特殊な技術が用いられ,その鑑賞もまた他の芸術とはおのずから異なる形態をとるのである。

 音楽は,演奏という形を通して表現せられ,且つ鑑賞せられる。

 音楽は楽譜を用いて記録せられる。しかし,それは極めて不完全且つ不十分な記録であって,決して生きた音楽そのものではない。生きた音楽として,われわれの聴覚に訴えるためには,演奏されなければならぬ。それ故,音楽においては,作曲者と鑑賞者との間に,演奏者という特異な存在が必要とされるのである。

 音楽は,演奏者の演奏によって,われわれの前にその実体を現わすのであるが演奏は,音楽の技術的表現とでもいおうか,要するに演奏者の技術を通すことである。いかにすれば,妥当な芸術的な音楽になるかという解釈の問題も,技術を度外視しては,考えられないのである。声楽における発声といい,ピアノにおけるタッチはもちろんのこと,フレージングやペダリングなども,ここに言う技術にほかならぬのである。このように,技術は,音楽における極めて重要な要素をなすものであるから,音楽の理解・感得をなすに当たっても,技術的な裏附けがあって,はじめて,十分にその成果を期待し得るのである。

 以上述べたような音楽の特異性は,必然的に音楽教育独自の目的を規定し,その目的を達成するための独得指導法を生むのである。

 即ち,音楽教育においては,音楽の表現技術や,音楽に関する理論的知識並びに鑑賞法の習得や,音楽の創造力の養成などが目ざされ,それらに対する,正しく系統的な独自の学習指導法が立てられるのである。