第一章 音楽教育の目標

一 音楽美の理解・感得を行い,これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う。

二 音楽に関する知識及び技術を習得させる。

三 音楽における創造力を養う(旋律や曲を作ること)。

四 音楽における表現を養う(歌うことと楽器をひくこと)。

五 楽譜を読む力及び書く力を養う。

六 音楽における鑑賞力を養う。

 音楽教育は情操教育である,という原則は今も昔も少しも変わっていない。しかし,その意味の取り方は従来必ずしも正しい方向にあったとはいえない。音楽教育が情操教育であるという意味は,目標の一に掲げたように,音楽美の理解・感得によって高い美的情操と豊かな人間性を養うことである。従来の考え方のうちには音楽教育を情操教育の手段として取り扱う傾きがはなはだ強かった。即ち,情操を教育するために音楽教育を行うという考え方である。しかし,音楽は本来芸術であるから,目的であって手段となり得るものではない。芸術を手段とする考え方は,芸術の本質を解しないものである。そこで音楽教育が情操教育であるという意味は,音楽教育即情操教育ということで,音楽美の理解・感得が直ちに美的情操の養成となる。であるから,われわれは正しいそて高い音楽教育を行うことができれば,それが直ちに正しく高い美的情操の養成となる。従来のように音楽教育を手段として取り扱う時には,音楽教育はむしろ低下し粗雑になりがちで,一例をあげれば読譜力すらも完全には作ることができないのである。

 以上のような観点から,今後の音楽教育はあくまでも純正な音楽教育であるべきで,児童がよい音楽を十分表現し,且つ理解するようになることを目標とし,これがそのまま正しい情操教育であるということを,しっかり考えておかなければならない。

 このように言ったからとて何も音楽をむずかしく考えたり,むずかしく教えたりするという意味は少しもない。人間が美しいものを好み,美によって限りない喜びを感ずるのは人間性の最も奥深いものから出て来るのであるから,音楽美の理解・感得は人間性の本質に向かって進んで行くことである。それ故,純正な音楽教育を施すことは人間の性向に反することではなくて,それに従うことである。そしてこれを成功させるためには,児童の生理的,心理的能力の発達の段階をよく見極め,これに適合する方法で教育目標を達成することを考えなければならない。言いかえれば子供の興味や意欲をもととし、これを伸ばしつつ目標に近づいて行くのである。この点従来の教育は大人の頭や考えをあまりにも子供に押しつけたきらいがあった。そのために,音楽教育がはなはだ説教的性格を帯び,したがって子供はこれに興味を感じなくなって卑俗な歌に走ったり,または音楽教育の内容が幼稚なものであるために児童の興味を引かなくなったりしたのである。これらの欠点はすべて訂正され,そして音楽の美しさを楽しみつつ正しい教育が行われなければならない。それは教師が十分な理解を持ちさえすれば決してむずかしいことではない。

 さて,音楽美の理解や感得を十分行わせるためにはどうしたらよいか。それには適当な教材によって音楽の美しさ,音楽のおもしろさを十分に味わわせるとともに,音楽についての知識及び技術をしっかり習得させることである。年齢とともに,だんだんより高い音楽美を理解して行くことができるようにするためには,どうしても音楽についての知識や技術がしっかりできていなければならない。もちろん義務教育を受ける児童や生徒の大部分は専門の音楽家になるのではなく,一般の社会人になるのであるから,音楽についての知識や技術を習得させるといっても,そこにはおのずから限界があるのは明らかである。しかし,これが次第に高まって行くことは国民の音楽的水準が高まることであるから,われわれの希望としては,知識や技術が次第に向上して高いレべルに達することが望ましいのである。しかし,そのような向上は一挙にしてできるものではなく,長い間真剣に努力してはじめて得られるものである。まずその第一歩として,われわれは正しい知識や技術をしっかりと植えつけて行くという方向に進まなければならない。そのためには教師がまず十分な知識や技術を持つことが必要で,教師自身が十分努力をしなければならない。

 音楽の知識や技術を習得して音楽美の理解・感得を十分にするためには,自分自身が「音楽する」ことが何よりも大切である。ただ単に受身な態度で聞いているだけでは,決してほんとうに音楽を理解することはできない。みずから音楽することこそ音楽を知る最も正しい且つ早い道である。そのためには従来の音楽教育のようにただ歌唱だけをやっていたのでは不十分で,ぜひ器楽や更に進んでは作曲もやらなければならない。器楽を全面的に実施するには,楽器や楽譜の問題から解決してかからなければならないので,現在の状態では大きな困難を伴なうのは明らかである。このためには児童の製作にかかる簡易楽器の利用や,教師の工夫にかかる代用楽器の活用等も考えてみる必要がある。このようなさまざまな困難はあるけれども,ぜひこれを打開して器楽教育も全面的に実施できるように努力したいと思う。また作曲教育は新しい試みであるが,しかし作文や自由画を製作している児童が作曲できないということはない。全部の児童ができなくても大部分の児童に創作の体験を味わわせたい。何もりっぱな曲を作るということを目標としないでも,作曲の体験を持つことによって音楽美の理解を深めればよい。これは器楽のように特別な道具を必要としないから,考え方によれば器楽教育よりも実施しやすい点もある。器楽にしても,作曲にしても,強制することはできないけれども,ぜひ実施できるよう努力すべきである。

 鑑賞は,音楽を味わったり理解したり判別する力を養ったりすることであるが,これと同時に音楽を楽しむことも含まれる。鑑賞はただ受身な態度で聞いているだけでなく,それを通して自分が「音楽する」意欲を高めることが大切である。従来の鑑賞教育では,音楽に対し文学的説明を加えることが一般的に行われているが,この方法はよほど注意しないと音楽に対する正しい理解を誤らす場合がある。音楽は本来ことばで説明できるものではなく,音から直接に感じ取るものであるから,あまりいろいろな文学的説明を加えると純粋な音楽的感動を阻害することも起る。そのような点は特に注意する必要がある。また,音楽の鑑賞というとむずかしい顔をしてまじめくさって聴いていなければならないように思われがちであるが,前にも述べように鑑賞は音楽を楽しむことであるから,自由に心から音楽を楽しんで聴くことが大切である。

 音楽美の理解・感得によって美的情操を養成すれば,その人は美と秩序とを愛するようになり,それはとりもなおさず社会活動における一つの徳を養うことになる。これは音楽の社会的効用の一つである。またリズムの体得は人間の活動を能率的にするであろう。その他合唱や合奏における美と秩序とにもとづく訓練は,人間の社会生活や団体生活における秩序の維持の上に大いに役に立つ。合唱や合奏が音楽的に完成するためには,各人の真に自発的な協力がなければならない。だれひとりとしてわがままな行為は許されないのである。わがまま勝手な行為は直ちに音楽の美を破壊する。このような合唱や合奏における訓練は,音楽の持つ社会的効用として高く評価されなければならない。