小学校学習指導要領 国語科編(試案)
は し が き
一 学校における教育課程がどのように移り変ることがあっても、国語の学習と指導をゆるがせにしてよいような時代は永遠にこない。これは、国語は、樹木における樹液であり、人間における血液であるからである。国語の学習指導要領は、この国語の学習指導の目標や到達されなければならない能力を示すとともに、望ましい教育の結果をうるために行われる活動や、手順や、資料を示すものである。したがって、教師は、この試案に示されたこれらの提案の中から、自分が実地指導をするにあたって、もっとも適切であり、また助けとなるものを選んで、年間の計画をたてたり、一日の指導計画を立案していくべきである。この試案が生かされるか生かされないかは、一に教師の側にあるといえる。同時にまた、教師のまじめな実践と、調査と、研究とによってのみ、将来の国語の学習指導要領に、ほんとうの意味での成長と、進歩と、発展とが期待される。
二 この「小学校学習指導要領国語科編試案」は、昭和二十二年度に発行した「小学校学習指導要領国語科編試案」を改訂したものである。したがって、二十二年度の試案とこんどの試案とを比較してみるとき、その基本的な考え方には変りはないが、その内容においては、多くの相違が認められる。このことは、二十二年度の試案のうち、こんどの試案にそのまま使われた章や節が一つもないことを見ても理解できる。いま両者の内容を比較してみると、だいたい、次のような相違がある。
2 二十二年度の試案は全部で三章からなりたち、その第一章の内容がほぼ、こんどの試案の第一章の内容にあたり、また、第二・第三章の内容が、こんどの試案の第三章の内容にほぼ相当する。
3 したがって、こんどの試案の①「まえがき」②第二章の「国語科の内容」③第四章の「国語学習指導の具体的展開例」④第五章の「習字の学習指導」⑤第六章の「ローマ字の学習指導」⑥第七章の「国語科における評価」⑦第八章の「国語科における資料」⑧参考の「国語表記の基準」などは、二十二年度の試案には、かつてなかった項目である。
4 二十二年度の試案の第二・第三章とこんどの試案の第三章とは、いずれも指導の計画であるという点において同じであるが、二十二年度の試案は、一・二・三学年をまとめて低学年、四・五・六学年をまとめて高学年とし、大きく二つの段階にわけて指導の計画を示したのに比べて、こんどの試案では、教師が読んでわかりやすく、また現場ですぐ役だつように、幼稚園から六学年までを七つの段階に分けて、もっとも具体的に説明した。
5 また、こんどの試案には、第三章に第二節の「国語能力表とは何か」第三節の「国語能力表」の二つの節を設けて、いわゆる国語能力表を取りあげた。
三 こんどの試案は、実際家・国語教育研究家・教育学者・心理学者・指導主事・校長・教頭などのいろいろな立場のかたがたを集めた、いわゆる国語学習指導要領編修委員会を組織して、その協力によってできたものである。
委員会は、昭和二十三年十二月に発足してから、原案の完成をみるまでに、まる三か年を要し、会を開くこと毎週少なくとも一回、会を重ねること百十五回の多きに及んだ。この試案は、いわば委員のかたがたのそうした労苦のたまものである。委員のかたがたに厚く感謝の意をささげたい。
また、この試案の第六章「ローマ字の学習指導」は、本省調査普及局国語課の「ローマ字に関する学習指導要領編修協議会」の協力によってできたものである。その好意ある協力に対して、深謝の意を表したい。
なおまた、この試案の第三章、第四節の「国語能力表」の作成にあたっては、全国の百十数名にのぼる熱心な実際家や研究家の協力を得た。国語能力表にいちじるしく妥当性と合理性をもたらすことができたのは、一にこれらのかたがたの力添えによるところが多い。併せて謝意を表したい。
四 この試案の編修委員は、次のかたがたである。 (五十音順)
石 森 延 男 昭和女子大学教授
泉 節 二 東京学芸大学付属竹早小学校教諭
梅 根 悟 東京教育大学教授
大 野 己之吉 東京都教育庁指導部指導員
大 橋 富貴子 お茶の水女子大学付属小学校教諭
大 沢 雅 休 東京都渋谷区幡代小学校教諭
金 田 吉 尾 文部省大臣官房総務課文部事務官
久米井 束 東京都港区氷川小学校校長
栗 原 よしえ 東京都江東区元加賀小学校教諭
高 野 柔 蔵 東京都教育庁指導部指導員
小 山 定 良 文部省初等中等教育局初等教育課文部事務官
志 波 末 吉 東京都台東区育英小学校校長
篠 原 利 逸 文部省初等中等教育局初等教育課文部事務官
続 木 敏 郎 東京学芸大学講師
滑 川 道 夫 成蹊学園付属小学校主事
中 村 万 三 成蹊学園付属中学校教諭
西 原 慶 一 日本女子大学付属豊明小学校主事
波多野 完 治 お茶の水女子大学教授
花 田 哲 幸 東京教育大学付属小学校教諭
平 井 昌 夫 国立国語研究所所員
松 井 早 苗 東京都台東区育英小学校教諭
吉 田 瑞 穂 東束都杉並区杉並第七小学校校長
小学校学習指導要領国語科編 目 次
は し が き
ま え が き
第二節 国語の教育課程はどんな方向に進んでいるか
ま え が き
一 この本は、各学校で教育課程をつくろうとする場合、国語科として、どういうこととどういうことを考えていなければならないかを書いたものである。
新しい教育では、各学校がその地域社会の要求を詳しく見きわめて、児童の発達に応じる教育課程を設定しなければならない。この本は、そうした場合に、国語科としてどういうことを考えていなければならないかについて、一つの基準を示そうとしたものである。したがって、
2 国語科の内容
3 国語科実施の方法
4 国語料における評価
二 この本は、国語の教科用図書を作成する場合の、一つの基準となるものである。
現在では、教科用図書の検定制度が実施されて、教科用図書が自由につくられるようになっている。著者は、検定の教科書をつくる場合には、近代的な、すでに一般に認められた理論に基いてつくらねばならないが、その理論の多くは、本書に示されているものである。なお検定基準によれば、国語科の教科書は、すべてこの学習指導要領によることになっている。元来、教科用図書は、各学校の教育課程の中にあって、教材として使われるものである。他教科の場合よりも、国語科においては、教科書が特に重要な地位を占めるが、国語科教科書の編修には、教育課程を考えておるべきであり、それ自身が教材を中心とした一つの教育課程であるといわなければならない。
したがって、学校の教育課程が本書に基くと同様、教科書の内容も、この本に基かなければならない。そうして、学校の教育課程の中で活用されるように、編修されなければならない。
三 この本は、教師の日々の実践の手びきとなることを目ざしている。
国語科の学習指導は、他の諸教科と同様、あるいはそれ以上に、地域の必要に即し、児童の興味や、必要や、能力の実態に即して計画され実施さるべきである。この本は、教育上の計画の場合だけでなく、日々の実践においても参考となり導きとなることを目がけている。したがって、教師は、この本を日々その座右において、実地指導の上に参照すべきである。
四 この本は、参考であり、手びきであるから、学校および教師がこの本に掲げたことをそのまま採用することを予想していない。
この本は、なるべく実際的であるように努めたが、あくまでも参考であり、手びきであって、盲目的に従わなければならないものではない。この本に掲げたことは一つの基準であって、これを参考として、この基本的方向に従って考えてほしいという意味である。
ことに、この本の中の「学習指導の展開例」などは、どこまでも一つの参考例であって、教師は、これを参考として、さらに基本的な学習指導を展開すべきである。
一 国語の教育課程は、だんたんと広い社会的要求に応じることができるものになろうとしている。
これまでの国語教育では、国語文化を習得させ、それを通じて、国語生活を向上させようとねらっていた。これに対して、新しい教育課程の考え方では、社会においてわれわれはどんな言語生活を営むかを考え、その必要に応じることができるような能力をつけようとしている。われわれの大部分が社会生活をしていく上に、読むのはまず新聞であり、聞くのはラジオである。映画も現代生活において重要な地位を占めている。ところが過去においては、こうした新聞や、ラジオや、映画の学習を指導することは、国語の教育課程の中には、はいっていなかった。最近ではそれが、国語の教育課程の一部分を占めるようになってきた。また、話しことばとしての話し方が小学校の一年から中学校・高等学校を通じて、教育課程の中で一つの地位を占めようとしているのも、新しい傾向である。
このように、新しい国語教育は、広く児童の日常の言語生活を見わたし、あらゆる生活の場面を国語教育の目標の達成のために利用しようとしている。したがって、国語の教育課程は、非常に豊富な融通に富んだものになううとしている。
二 国語の教育課程は、国語についての知識を授けるよりも、まず、豊かな言語経験を与えることを目標としている。
従来のいわゆる教科目を主とする教育課程では、国語についての知識を与えることが大きな目標であり、指導の一つの方向でさえあった。しかし、知識は必ずしも行動や使用とは一致しない。国語科において最も重要なことは、児童に正しい言語習慣を確立させることである。話し方は話す活動を通じて学習され、読み方は読む活動によって学習されるのであるから、われわれは、日常の社会生活の中で国語を実際に使用する機会を提供するということを、教育課程の目標としなければならない。
いわゆる経験を主とする教育課程では、教育課程は学校の指導のもとにある、いろいろな価値のある経験を取り入れていくことが重要であると考えられている。しかも、ことばの本質は使われるということにあるのであるから、実際の経験を与えることが特に重要である。これからの国語の教育課程は、知識を与えるばかりではなく、児童の興味と必要を中心にして、価値のある、必要な言語経験を展開していくようなものでなければならない。もちろん、知識も必要ではあるが、それは聞く、話す、読む、書くということばの効果的使用の能力を改善するために学ばれるのでなければならない。
三 国語の教育課程は、読み方・書き方、というような科目に分れず、学習活動は、中心的な話題をめぐって総合的に展開されるように組織されることが望ましい。
かつては、書き方は書き方として学習し、作文は作文として学習したのであるが、現代は、それらの活動を、価値ある総合された学習の中に織り込んでいこうとしている。聞くこと、話すこと、読むこと、書くことが、児童の必要と、興味と、能力とに応じて広い範囲の、価値ある話題によって組織される。このようにして、児童に、聞く、話す、読む、書く技能が得られるような経験を与える。文学を主とした題材であっても、なんらかの形で、聞く、話す、書く技術の訓練を含むようにくふうし、また、毛筆による習字を学習指導する場合でも、できれば、聞く、話す、読む技術の訓練を含むようなくふうをする。こうして四つの言語活動が総合的に展開されるような学習活動が望ましいのである。
四 国語の教育課程は、他の諸教科から孤立することなく、全体の学校計画の中で、固有の地位をしめなければならない。
いうまでもなく国語科は教科の一つで、学校の教育目標を達成するために存在するのである。それに児童は一個の人格として、全人教育を受けなければならない。したがって、国語の教育課程は全体の教育課程の一環として計画され、実施さるべきであって、他の教科と関連して考えられることは、むしろ、歓迎すべきことである。だから、社会科の学習の中には、言語活動がたくさん含まれており、また、他教科においてもそれは同様であるから、国語学習指導は、すべての教科の協力なしに達成されるものではない。教師は、すべての他の教師の助力を得、他教科とよく関連を保って指導にあたるべきである。そうして、どのような教育課程を採用したにしても、児童の言語能力の発達にじゅうぶんに責任をもたなければならない。
五 国語の教育課程は、めいめいの児童の個人的必要に応じうるように用意されなければならない。
国語学習に関する諸能力は、児童の個人個人で非常に違っている。たとえば、五年生の児童の中には、三年生ぐらいの漢字力しかないものもあり、その反対に、中学校の二年生と同じぐらいの読書力をもっているものもある。また、興味や必要についても、個人個人で大いに違っている。これからの国語の教育課程は、こうした個人差から起る必要に応じる用意をもっていなければならない。個人個人の実態を調べて、それに適した目標をたて、そうして、その能力に適した速さと方法とで学習するようにしなければならない。また、特殊な児童のために、特別の教育課程を考えてやらなければならない。
六 国語の教育課程は、評価の体系を備えているべきである。
右に述べたように、国語の教育課程は、現代生活の必要に応じたものでなければならない。児童のひとりびとりの必要と、興味と、能力とに合ったものでなければならない。また、学習指導は、教科というわくにとらわれないで、豊かな言語経験への機会を与えるのに最もつごうがよいようにしなければならない。こう考えてみると、国語の教育課程において、評価ということがいっそう重要になってきたことがわかる。ある題材を選ぶ場合には、それがほんとうに児童の必要と興味に合い、同時に地域社会の実状と合っているかどうかを見なければならない。また、その学習の成果を学習の終りばかりでなく、その学習の進行中にも絶えず評価すべきである。これによって、学校および教師は、将来もっとすぐれた指導計画をたてることができるのである。このように評価ということは、教育課程にとって欠くことのできない、最も重要な一部分となっている。