第1章 小学校社会科の意義

 小学校における教育の目標と社会科

 学校教育法では,心身の発達に応じて,初等普通教育を施すという,小学校教育の目的をさらにふえんして,八つの目標を掲げている。その中,

の3項目は,特に社会科と関係の深いものであり,主として,社会科の学習を通してこれらの目標達成に努めなければならないことは,明らかである。あるいは,逆に言えば,これらの目標を達成することに主眼をおいて社会科という教科が設けられたものと考えてよい。

 しかし,ここで注意すべきことは,上記以外の他の目標は,社会科の指導において全然考慮しないでよいものと考えたり,上記の三つの目標はひとり社会科の指導だけで達成し得るものと考えてはならないことである。

 教育における目標は,いついかなる場合でもそうであるが,この学校教育法における八つの目標も,本来互に関連して切り離せない性格を持ったものである。また,こうした目標の下に組織されている教育課程は全体として一つの構造を持ち,諸教科の密接な関連ある指導を通して初めて児童の統一ある人格の形成が期待できるのであるる。

 したががって,社会科が小学校の教育で果すべき基本的役割を考えるにあたっては,上記の三つの目標について,その趣旨や意図するところをじゅうぶんに理解すると同時に,社会科ではこれ以外の他の目標達成にはどのように寄与できるか,また寄与すべきか,あるいはこの三つの目標達成のためには社会科は他の教科とどんなかたちで協力し,関連を持っていかなければならないかなどについてもよく研究してみることが必要である。

 以上の諸点から,小学校における教科としての社会科の目的を次のように考えることができる。

 社会科は児童に社会生活を正しく理解させ,同時に社会の進展に貢献する態度や能力を身につけさせることを目的とする。すなわち、児童に社会生活を正しく深く理解させ,その中における自己の立場を自覚させることによって,かれらが自分たちの社会に正しく適応し,その社会を進歩向上させていくとができるようになることをめざしているものである。

 

 教科としての社会科の特性

 わが国の小,中,高等学校で,社会科という教科が設置され,その教育が実施されるようになってから,その期間はまだ10年に満たない。そのことを考えても,各教師が社会科の意義を真にはあくして日々の指導に当ることが,特に必要なのであるが,それには前述のような学校教育法の諸目標との関係を考えるだけでは,なおふじゅうぶんである。

 というのは,前述の学校教育法の三つの目標でも,これらを達成するために,修身科,国史科,地理科のような教科をいくつかたてて,それぞれの指導を行っていく方法も考えられるのであるが,なぜ現在の小学校では社会科のような広い学習分野にわたる総合的な性格を持った教科を置くことにしているのか,その理由を明らかにしておくことが必要だからである。

 その点は,今日の小学校の教育課程が全体として持っている特色にも関係したことがらであり,過去の道徳教育や地理,歴史などの分野の教育に対するどのような反省から社会科が置かれるようになったかについても考えてみる必要のある問題である。

 学習指導要領の一般編に述べてある通り,今日の小学校の教育課程は教育目標の達成に有効な学習経験を児童の発達段階をよく考えて系統的,発展的に組織したものである。すなわち,必ずしも科学の体系や分類に即応して教科をたてるのでもなく,一定量の知識を一方的に教師から児童に注入するために便利な教育のしくみを教育課程と考えているのでもなく,むしろ必要な知識,技能,態度などを児童がみずからの主体的な活動を通して身につけ,教育的に望ましい成長発達をとげていくことに主眼をおいて,学習経験を選択し組織したのが教育課程であり,この点は現在のどの教科にも共通した特色といえよう。

 したがって,社会科が設置されたについても,教育課程についてのこのような考え方が基本になっていることはいうまでもない。

 しかし,社会科の場合には,さらに従来の修身,国史,地理などの教科に分けて教育していた時代のことと対比してみることが,この教科の特質を理解する上に役だつであろう。

 修身科で取り扱った各種の徳目,たとえば礼儀,尊敬,感謝などには,今日の社会生活においても,これを尊重していかなければならないものが数多くある。しかし,修身科では,これらの徳目を中心として組織された学習内容が,主として教科書の講読,格言の暗誦,教師の訓話など,いわば教師の一方的な注入によって教えられる傾向が強かったので,児童の人問性を内面から開発し,実生活にあたって自主的に判断し行動し得るような能力を養うという点で欠ける面が少なくなかった。いくつかの徳目の観念的な理解に終ったり,時としてはかえって児童に表裏のある生活態度を植えつける場合も生じた。

 また,修身科では,徳目を具体的に理解させるために主として例話が用いられた。この例話は,時と所を異にした人物の行為の例であっても,それが児童の道徳的心情をゆり動かし,かなり強い感銘を与えるという教育的効果は大いに認めなければならない。しかし,そのような例話を通して児童に感銘を与えておきさえすれば,かれらが将来いろいろ異なった現実の事態に対処していく場合,いつでも正しい道徳的判断をし,望ましい社会生活ができるものと考えるのは早計である。

 社会生活において,親切ということがいかにたいせつなことかという一般的な理解や感銘を与えるだけでなく,具体的な時と所に応じてどう行為することが親切なことになるのかということを自主的に考え,実行できるような人間にすることこそ,道徳教育の究極のねらいでなければならない。

 そしてこのような意味における考える力,実行力の基礎には,当然社会生活についての広く深い理解,たとえば,現在の社会の中では人々は互にどのように関係し合い,どのような機構や制度を通じて結ばれ合っているか,またそれらの関係はどのような努力を通して歴史的に変ってきたものであるかなどについての具体的認識が必要なのである。すなわち,道徳的な判断力や実践力というものは,歴史,地理,その他いろいろな観点からとらえた社会についての理解に裏づけられてこそ,初めて真に生き生きとした力強いものになるといえるのである。

 また,こうした道徳的判断力を効果的に養うには,ただ例話などを活用するだけでなく,学習全体を児童が自発的,積極的な関心を持って進め得るようにする必要がある。すなわち,かれらが生活の中で出会う個々の具体的な問題に即し,望ましい道徳的判断や行為のしかたを考えることのできるような学習の過程を重視しなければならない。

 以上のように,道徳教育という一つの観点から考えても,知識と行動(知的なものと実践的なもの),さらに心情などが,ばらばらになるようなことなく,これらが真に児童の統一ある人格として形成されていくには,あまり狭い分野に固定した教科目の中で児童にとって受動的な学習が行われるよりは,かれらみずからが広く社会に対する知見を深めつつ,自己の生活態度についての反省や望ましい心情,習慣の形成ができていくような学習のほうが有効である。そして,このような要請が,社会科という教科を生む一つの契機になったものと考えてよかろう。

 また,過去の地理科や国史科をふりかえってみると,もちろんそれは単に知識だけを与えることを目標としていたわけではない。しかし,一応体系的に整えられた内容を,主として教科書のページを追って指導するという傾向が強かったため,結果としては,おもに知識だけが与えられ,しかも児童によって記億された知識の量の多少で,地理教育,歴史教育の成果がはかられるという弊があった。知識を豊富に持つことは決して価値のないことではない。しかし,さらにたいせつなことは,かれらが一個の人間として,実生活にあたってどのような態度でこれらの知職を使い,生かしていくかという点にある。したがって,学校教育としても単なる知識の習得だけでなく,あわせてこのような態度も養っていく必要があり,それには児童が切実な必要感をもって知識を獲得していくような学習のしくみを重視すると同時に,学習内容も,地名や歴史的事実を機械的に並べて作り上げるのでなく,物事を地理的条件,歴史的条件などから考える能力や態度の育成に役だつ具体的な問題や生活経験を中心として構成し,それらの学習の過程で必要な知識が習得されるようにしておくほうが有効である。

 たとえば,地理に関しては,人々の生活とその土地の地理的条件とがどのような関係にあるか,人々はその土地の地理的条件のもとに生活上の問題をどのように解決しているか,地域を異にする人々はその生活の上でどのように依存し合っているかなどについて考える力を練ることが重要であるし,歴史に関しては,人々の生活は時代とともにどのように変ってきたか,なぜそのように変ってきたか,昔の人々は生活上の問題をどのように解決してきたか,昔の人の残した文化遺産の中で今後も尊重し生かしていくべきものは何かなどについて考える力を養うことが重要である。児童に習得さすべき基礎的知識を考える場合にも,このように地理的,歴史的に人間生活をみたり考えたりする場合に必要になってくる基本的な知識を,第一義的なものとして重んずべきであろう。

 このような考え方にたって,地理や歴史の分野についての知識,あるいは地理的,歴史的考察力などを,児童の当面する具体的な問題や生活経験を重視した学習の中で有効に養っていこうとすれば,これまた狭い教科目にこだわることはかえって不自然となる。なぜならば具体的な問題を考えていくには,知識の面でも,考察力の面でも,地理的なものと歴史的なものが,ともども必要になり,これら両者を総合的に生かして使わねばならないことが多いし,特に小学校の段階では,そのような学習の機会を多く児童にもたせることが望ましいと考えられる。

 したがって,以上述べたような社会科の教科としての特性を,教師は絶えず念頭に置いて児童の望ましい人間形成に努めるべきである。

 

 小学校の教育課程と社会科

 社会科の意義を考えるには,小学校全体の教育課程の中でこの教科がどういう位置を占めているかについても理解しておく必要がある。

 ただ,この点については,形式的な面と内容的な面の双方から,それぞれ考えていくことができよう。

 形式的な面とは,教育課程の運営にあたって社会科に配当さるべき時間数その他の問題である。

 学習指導要領一般編における「小学校の教科と時間配当」では,社会科は理科とあわせて,1,2学年では教科全体の年間総時数の20ないし30パーセント,3学年以上では25ないし35パーセントと例示してある。

そして,この場合の年間総時数は,教科と教科外活動を含めて1,2学年870時間,3,4学年970時間,5,6学年1,050時間とされている。

 なお,社会科の場合各学校の実情や教科の性格にかんがみ,次の点に留意すべきであろう。

 それは,社会科の学習領域がかなり広く,かつ児童の社会的経験の拡大伸長をそのねらいの一部としているので,各種の学校行事あるいは社会的行事への児童の参加などは,これを社会科と関係づけようとすれば,ほとんどすべてのものを関係づけることができる。

 そこで,一部には,こうした行事に児童が参加して行う活動そのものを社会科の時間を削って行ったり,あるいは社会科の時間数不足を埋め合わせるためにこれらの行事や活動にあてた時間を計算に入れてつじつまを合わせるというような傾向がみられるのである。これは明らかに行きすぎであって,たとえば遠足なり,地域社会への奉仕活動を行うにあたって,これを社会科の学習とできるだけ関連づけて計画し,指導するという配慮はきわめて当然のことであるが,教科としての社会科の時間にあてて考えるべきものは,あくまで社会科学習本来の必要で行った調査,見学などの活動に限定すべきである。

 小学校の教育課程を構成する場合,いろいろな考え方の違いがあり,したがってかなり性格を異にした教育課程を作り,実施できることも事実である。

 しかし,どのような考え方にたつにしても,社会科の取り扱う内容の理解やそのめざすねらいは,他の教科の指導がじゅうぶん成果をあげることよって初めて達成し得ることなのであり,またいかに他の分野の指導が万全であっても,社会科の指導が貧困であっては,学校教育として完全なものとはいえないであろう。それゆえ,そこに,ある教科が他の教科にまして価値が高いとか低いとかいう関係を考えるのではなく,それぞれの教科が相より相たすけることによって,初めて児童の調和ある人間的成長をはかることができると考うべきである。

 ただ,社会科のように社会生活を正しく理解させ,その中における自己の立場を自覚させるというねらいをもつ教科では,ややもするとその内容が他の教科とむだな重複を生じがちであり,他教科との関係という問題がつねに指導上の実際的悩みとなってきた事実は否定し得ない。またある場合には,他教科との重複ということではなしに,たとえば社会科の学習が語句や用語の解釈に追われて,社会科本来のねらいを達成する時間的余裕がなくなってしまったという事例などもある。

 以上のような点を合理的に解決することは,ひとり社会科の指導のためばかりでなく,小学校全体の教育にとってもきわめて重要なことがらである。もちろん,前に述べたような現在の教育課程の特質から考えて,過去のそれのように,各教科の境に明確な区画をつけることはできないにしても,学習内容の関連性のゆえにいたずらに社会科の間口を広げることなく,たとえ同一の学習内容を取り扱う場合でも各教科によってその取り扱う観点を明確にしておかなければならない。

 したがって,ひとくちに社会科と他教科との関連といっても,一方が理科とか家庭科という教科である場合,あるいは国語科や算数料などの教科である場合,さらには音楽科や図画工作科などの教科である場合などによって,その考え方や具体的処置については,さまざまな相違が生ずるのが当然である。要は,社会科は他の教科とできるだけ関連をつけて指導するとともに,他の教科と異なる特色をじゅうぶん生かしていく必要がある。この学習指導要領でも,この点で従来の欠陥を反省し,その改善に留意したが,具体的には各学校での指導計画作成にまつところが大きい。

 

 中学の社会科との関係

 中学校における社会科の学習は,当然小学校におけるそれを基礎とし,その上に発展していくものである。したがって,小学校の教師といえども,中学校の社会科がどのような構想で進められていくのかをよく理解しておくことが必要である。特に,しばしば問題にされる小学校の社会科では学習をどの程度まで深めたらよいかというような点でも,この中学校との関係を理解しておくことが,一つの有力な手がかりとなることであろう。

 次章の小学校社会科の目標で明らかなように,社会科の学習はそのすべてが自他の人格の尊重,自主的自律的な生活態度の形成をめざして行われなければならないが,そこには社会科としておのずから個人と個人,集団と個人,集団と集団との関係など総じて人間関係の諸問題を扱う分野と,生産その他の社会の諸機能やその関連について扱う分野と、人間生活と自然環境の関連について扱う分野と,社会的な制度,施設,慣習などの現状とその歴史的変遷発達などについて扱う分野とが考えられる。

 そこで,この四つの分野に即して,中学校社会科との関係を簡単に述べておこう。

 中学校でも具体的事象や人物を生かして学習を進めるが,特に生徒の科学的な歴史的考察力を高めながら,日本の歴史の発展過程を総合的に理解させ,時代の概念を明確につかませ,国家の伝統や文化についての評価や反省がいちだんと深められるような学習が行われる。また,これと同時に,世界史的な内容もかなり取りあげ,日本史との関連において世界史の流れをとらえ,結果としてその時代系列のあらましもつかめるように配慮されている。

 

 以上の諸点は,いずれも小学校の社会科と中学校のそれとの関連を,きわめて一般的に,また特に小学校の立場から述べたにすぎない。さらに具体的には,できるだけ多くの機会を利用して,小,中学校それぞれの教師が,相互の指導経験を交換し合い,小,中学校社会科の望ましい関連について研究を進める必要があろう。