2 彫 刻

観音菩薩像(かんのんぼさつぞう)

木造彩色

像高209.2cm

飛鳥(あすか)時代

法 隆 寺

寺伝に百済(くだら)観音といわれているが,それはこの像の異様に細長い姿がわが国の普通の仏像とかなり違っていて,そこに何かしら異国的なものを思わすものがあるためである。わが国の彫刻として最も古い。

弥勒(みろく)菩薩像

木  造

全高123.5cm

飛鳥時代

広隆寺(ほうりゅうじ)

推古天皇11年(603)に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜わって,広隆寺の根本本尊としたもの。割合によく形が整っているが,様式は当時における中国の中部系統のものを朝鮮の新羅(しらぎ)あたりを経て伝えられたものであろう。

○弥勒菩薩像

木造 全高133cm

飛鳥時代

中 宮 寺(ちゅうぐうじ)

聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后の発願によるものと伝えられている。前の広隆寺の弥勒菩薩像をさらに全体の形をよく整えたといったようなもので,わが国の古い彫刻の中でも最もすぐれたものの一つである。

釈迦三尊(しゃかさんぞん)像

銅造鍍金

中尊像高86.5cm

飛鳥時代

法隆寺金堂(こんどう)

推古天皇30年(622)に亡(な)くなった聖徳太子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために,その翌年3月には太子の妃や王子たちが当時の名匠止利仏師(とりぶっし)に造らせたものである。わが国における北魏様式の最も典型的なものである。

○観音菩薩像

木造漆箔

像高197cm

飛鳥時代

法隆寺東院夢殿

聖徳太子の斑鳩宮(いるがのみや)の故跡に建てられた法隆寺東院の本尊で,これもまた太子の菩提(ぼだい)を弔うために造られたものである。やはり北魏様式の著しい作例であるが,これにはやや形式的なところが目だっている。

四 天 王 像(してんのうぞう)

木造彩色

各像高135cm

飛鳥時代

法隆寺金堂

白雉元年(650)ごろに山口直大口(やまぐちのあたいおおぐち)と薬師徳保(くすしとくほ)のふたりの彫刻家が主となって造ったものである。様式は中国の中部系統で,それが多少形式化されているが,飛鳥後期の最も代表的なものである。

○薬師(やくし)三尊像

銅  造

中尊像高255cm

脇侍像高312 cm

白鳳(はくほう)時代

薬師寺金堂

天武天皇8年(680)に発願されて,持統天皇11年(697)にできあがったもので,薬師寺の根本本尊である。写実を基として,これを一種の理想型にまとめた初唐の様式をすなおに伝えたもので,またその最もすぐれた作例である。ことにその表現の力強さはすばらしい。

聖(しょう)観 音 像

銅造像高190cm

白鳳時代

薬師寺東院堂

薬師寺の本願天武天皇の妹にあたる間人(はしひと)皇后が背の君の孝徳天皇の菩提を弔うために造ったものと伝えられている。やはり唐様式を伝えた最も早いころのもので,その純粋造型を見るべきである。

阿弥陀(あみだ)三尊像

銅造鍍金

中尊像高33.5cm

白鳳時代

法 隆 寺

寺伝に橘夫人三千代(たちばなふじんみちよ)の念持仏(ねんじぶつ)といわれている,その伝説はあまり確かではない。むしろやや古い隋様式を伝えて,これをわが国で多少形を整えたといったようなものである。しかしこの洗練された感覚は見のがせない。

執金剛神(しつこんごうしん)像

塑造彩色

像高167.5cm

奈良時代

東大寺法華堂(ほつけどう)

東大寺のおこりとなった金鐘寺(きんしょうじ)からの古い仏像で,天平5年(733)ごろに造られたものといわれている。写実がまだじゅうぶんにこなされていないが,塑(そ)造の手法は巧みである。恐ろしい忿怒(ふんぬ)の中にややこっけい味を帯びた明るい表情があるのが特色である。

○須 菩 提(すぼだい)像

乾漆造彩色

像高147cm

奈良時代

興 福 寺

須菩提とは釈迦の十大弟子(でし)のひとりである。これらの十大弟子像は次の八部衆(はちぶしゅう)像と一具をなして,天平の早いころに造られたものである。同じ唐様式ながら,東大寺派のものなどとはまた別の系統をなすもので,その著しく写実的な顔と割合に動きのない姿とに特色がある。

阿 修 羅(あしゅら)像

乾漆造彩色

像高153cm

奈良時代

興 福 寺

阿修羅とは釈迦につき従う八部衆の一つである。このまるで蜘蛛(くも)の足を思わすような細長い6本の手と,かなりすそ短かな足元との造型に,阿修羅の本性が実によく表わされている。これが天平の彫刻である。

不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像

乾漆造漆箔

像高361cm

奈良時代

東大寺法華堂

東大寺の前身として天平18年(746)ごろに建てられた大和(やまと)の国分寺すなわち今の法華堂の最初からの本尊である。その三目八臂(ぴ)という奇怪な形相は奈典古密教の仏であるためであるが,その力強い表現はなかなかすぐれたものといえる。

月光(がっこう)菩薩像

塑造彩色

像高206.5cm

奈良時代

東大寺法華堂

前の不空羂索観音像に随具するものである。本尊のきびしいばかりの力強さに対して,これはきわめて静かに落ち着いた姿で,よく脇侍としての役目を果している。

四 天 王(してんのう)像

塑造彩色

各像高163.5cm

奈良時代

東大寺戒壇院(かいだんいん)

この四天王像もかっては法華堂の不空羂索観音像に随具していたものである。これらの表情にはあるいは口を大きく開いて外道(げどう)を怒喝(どかつ)するものや,あるいは鋭いまなざしでじっと悪心を見破ろうとするものなどがあって,護法神としての表惰を実によく示している。

十二神将像

塑造彩色

各像高約167cm

奈良時代

新薬師寺本堂

天平末年(748)近くに造られたもので,その伝来はあまりよくわからないが,やはり東大寺派の著しいものである。ことにその変化に富んだ活動的な姿はなかなかすぐれている。

楽 天(がくてん)像

銅燈籠扉飾

扉縦118cm

 横44.5cm

奈良時代

東大寺大仏殿

大仏殿の前庭にある大形の銅燈籠のとびらに装飾としてつけられたもので,その製作はおそらく大仏が開眼供養(かいげんくよう)された天平勝宝4年(752)をあまり隔たらないころであろう。その明るく豊かな表現は,確かに大仏造立の喜びを表わしたものである。

盧舎那(るしゃな)仏像

乾漆造漆箔

像高303cm

奈良時代

唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)

天平宝字3年(759)に唐僧鑑真(がんじん)が建てた唐招提寺金堂の本尊である。実にゆったりとした大きな感じをもっているが,それは天平正流の東大寺派のものとかなり違っていて,特に唐招提寺派といわれている。

鑑真和上像(わじょうぞう)

乾漆造彩色

像高80.5cm

奈良時代

唐招提寺開山堂

鑑真は唐の大明寺の僧で,天平勝宝6年(754)に来朝して,わが国にはじめて律宗(りつしゅう)を伝えた名僧である。この像はかれが天平宝宇7年(763)77才でなくなる直前にその弟子たちの手によって造られたもので,かれの風貌(ぼう)や性格をいかんなく表わしている。

薬師如来(にょらい)像

木造像高170cm

貞観時代

(平安初期)

神護寺(じんごじ)金堂

延暦年中(782〜805)に草創された神願寺から引き継がれた本尊である。そのきわめて鋭い眉(び)目やはりきった頬(ほお)張りや太く堂々とした姿態などは,平安初期の特色をよく示したものといえる。

十一面観音像

木造像高100cm

貞観時代

(平安初期)

法華(ほっけ)寺

この像の造立や伝来などはあまりよくわからないが,その割合に太った肢(し)体を鋭い彫法でよく引きしめている造型はなかなか見ごたえがある。またそのやや長めの腕や,右足の親指をちょっと上げたところなどに仏像としての厳格さが認められる。

如意輪(にょいりん)観音像

木造彩色

像高109cm

貞観時代

(平安初期)

観心寺(かんしんじ)金堂

承和末年(847)ごろに営まれた観心寺講堂の仏像の一つであったが,それがいつしか本寺金堂の祕仏本尊になったものである。よく太った肢体に,かなりの力強さをたたえているが,この様式を特に密教様(みつきょうよう)という。

八幡(はちまん)三神像

木造彩色

八幡像高39.7cm

各 女 神

像高36.6cm

貞観時代

(平安初期)

薬 師 寺

この八幡三神像は普通,僧形八幡・神功皇后および仲津姫命といわれ,寛平年中(889〜897)に勧請(かんじょう)(神仏の霊を分けて移すこと)されたものである。神像彫刻として最も古いもので,小像ながらなかなか堂々とした表現をなし,彫法もしっかりしている。

○良弁僧正(ろうべんそうじょう)像

木造彩色

像高92.5cm

藤原時代

東大寺開山堂

良弁は東大寺の開山として奈良時代に活躍した名僧であるが,その開山忌は寛仁3年(1019)になってはじめておこなわれた。この像はその時に造られたものといわれている。その法衣などに多少形式化されたようなところもあるが,きわめて品格の高い肖像である。

十二神将像

木造浮彫彩色

縦約 90cm

藤原時代

興 福 寺

まるで儀軌(ぎき)(真言密教の諸作法などしるした聖典)の図像から抜け出してきたような浮彫で,寺伝でもこれを玄朝様(げんちょうよう)といっている。玄朝とは10世紀末ころの有名な絵仏師(えぶつし)である。こんなに変化に富んだ活動的な姿のものを割合におだやかに造り出しているのが藤原和様(わよう)の特色である。

阿弥陀如来像

木造漆箔

像高 295cm

藤原時代

平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)

天喜元年(1053)に名匠(しょう)定朝(ぢょうちょう)が関白藤原頼通の依頼によって造ったものである。藤原和様の最も典型的なもので,その円満具足した姿にきわめて優雅なおもむきを盛った造型は,浄土信仰の本尊としてまことにふさわしいものであったにちがいない。

降三世明王(こうさんぜみょうおう)像

木造彩色

像高 68.2cm

藤原時代

大 覚(だいかく)寺

安元2,3年(1176,1177)ごろに仏師明園(みょうえん)が造ったものでその当時流行した祈祷(きとう)仏教の仏(ほとけ)である。様式は古い和様を追いながら,そこにまたかなり力強いところがあって,次代鎌倉を予想するような動向を示しているのが注意される。

大日(だいにち)如来像

木造漆箔

像高 100cm

鎌倉時代

円 成(えんじょう)寺

鎌倉時代にその名をうたわれた巨匠運慶(うんけい)がまだ若い20才そこそこの安元2年(1176)に父康慶(こうけい)の命で造ったものである。安元といえばまだ藤原末期に属しているころであるが,この像の若々しくはりきった造型に,やがて鎌倉をになう巨匠のおもかげをじゅうぶんに認めることができる。

○仁 王(におう)像

(金剛力士像)

木造彩色

像高 805cm

鎌倉時代

東大寺南大門(なんだいもん)

東大寺における鎌倉の復興事業の一つとして,仏師運慶が快慶(かいけい)と協力して建仁3年(1203)に造ったものである。わが国における最も大きな木造彫刻であるばかりでなく,また最もすぐれた名作である。ことにその豪放な力強さは実にすばらしい。

無 着(むちゃく)像

木造彩色

像高 188cm

鎌倉時代

興福寺北円堂(ほくえんどう)

無着とは4世紀のころ,インドにおいて唯識(ゆいしき)の教義を唱導した高僧である。この無着像を含む興福寺北円堂の諸像は,仏師運慶が一門の子弟を率いて承元2年(1208)から造ったもので,それらには運慶に創作された鎌倉新様の特色がいかんなく示されている。ことにこの精彩に富んで無着像の写実はすぐれている。

地蔵菩薩像

木造彩色

像高 90.3cm

鎌倉時代

東大寺公慶堂(こうけいどう)

名手快慶(かいけい)が創作した安阿弥様(あんなみよう)の典型的な作例である。その眉目(びもく)秀麗な顔や流麗に整えられた法衣などは,たしかに美しいといえる。ただその表現にやや力強さがないのがもの足りなく思われる。

重源上人(ちょうげんしょうにん)像

木造彩色

像高 82cm

鎌倉時代

東大寺俊乗堂(しゅんじょうどう)

重源は東大寺の鎌倉復興に勧進上人(かんじんしょうにん)として活躍した名僧で,建永元年(1206)に86才でなくなった。東大寺ではその功績をたたえて,かれに特に縁故の深い浄土堂の故地(今の俊乗堂)にその肖像を祭っているのがこれである。鎌倉時代の著しい写実による肖像彫刻の一例である。

毘沙門(びしゃもん)三尊像

木造彩色

毘沙門天像高

168.5cm

吉祥天像高

80cm

善賦師童子像高

71.8cm

鎌倉時代

雪 蹊 寺(せっけいじ)

運慶の長男湛慶の作で,また鎌倉の特色をよく示したものである。すなわちこれらには運慶ほどのたくましさはないが,きわめて洗練された感覚による写実や,宋様式(そうようしき)の適度な摂取などがあって,かなり変化のある三尊像をなしている。

○天燈鬼(てんとうき)像・龍燈鬼(りゅうとうき)像

木造彩色

天燈鬼像高

77.8cm

龍燈鬼像高

77.2cm

鎌倉時代

興 福 寺

建保3年(1215)に運慶の三男康弁(こうべん)が造ったものである。装飾としての燈籠を支える鬼形であるが,やはりその精彩に富んで造型になかなか見どころがある。

初 江 王(しょこうおう)像

木造彩色

像高 100cm

鎌倉時代

円 応(えんのう)寺

初江王は鎌倉時代にはじめてその信仰がおこなわれた閻魔(えんま)大王の一つである。この像は建長3年(1251)に仏師幸有(こうゆう)が造ったもので,宋風の服飾をつけた姿に異色があるが,彫刻としてはやや技巧のかったものといわなければならない。

上杉重房像

木造彩色

像高 68.2cm

鎌倉時代

明 月(めいげつ)院

鎌倉時代には俗人の肖像も造られるようになったが,この束帯形の上杉重房像はその中で最もすぐれたものである。重房は山内上杉管領の祖で,もと鎌倉の山ノ内にあった禅興寺の壇越(だんおつ)(施主のこと)であったので,その肖像が塔中(たっちゅう)(一山内の大きな寺)の明月院に伝えられているわけである。

夢窓国師(むそうこくし)像

木造彩色

像高 78.8cm

室町時代

瑞 泉(ずいせん)寺

夢窓疎石(そせき)とは天龍寺の開山として後醍醍天皇や足利尊氏などの帰依(きえ)をも受けた名僧で,観応2年(1351)に77才でなくなった。この像はかれが鎌倉の地に開いた瑞泉寺に伝えられているものであるが,その造立はかれの示寂をあまり隔らないころであろう。禅僧のいわゆる頂相(ちんそう)彫刻として最もよいものである。

一休和尚(おしょう)像

木造彩色

像高 82.7cm

室町時代

酬 恩 庵(しおんあん)

一休宗純は後小松天皇の皇子で,早くも6才にして仏門に入り,ずいぶんいろいろな奇行で知られている名僧である。文明13年(1481)に88才でなくなったが,この像の頭部にはその遺髪を植えたといわれている。

豊臣棄丸(とよとみすてまる)像

木造彩色

像高 55.7cm

桃山時代

隣 華 院(りんかいん)

この像は豊臣秀吉が天正19年(1591)幼くして世を去った愛子棄丸の面影をしのんで造ったもので,小児の肖像として珍しい作である。かなり人形彫刻にも近いようなものであるが,その表現にはまだ生気がある。

布 袋(ほてい)像

木造彩色

像高 106cm

江戸時代

万 福 寺

黄檗山(おうばくさん)万福寺の諸像はほぼ寛文元年(1661)から同8年(1668)にかけて,そのころ来朝していた明(みん)の仏師范道生(はんどうせい)によって造られて,黄檗様と呼ばれた。布袋像はその最も代表的なものである。

技 芸 天(ぎげいてん)

竹 内 久 一

(1857〜1916)

木造彩色

現  代

東京芸術大学

竹内久一はそのころ衰えていたわが国の彫刻に新しいいぶきを与えた明治の最もすぐれた彫刻作家である。この技芸天は明治26年(1893)の作で,古い仏教的な題材を新しい解釈で造ったものである。

老   猿

高 村 光 雲

(1852〜1934)

木  造

現  代

東京国立博物館

高村光雲も古い木彫の技術を学び伝えながらも,これをよく現代彫刻として生かした明治巨匠の一人である。この老猿は大正9年(1920)の作で,写実に徹したかれの手腕をよくうかがうことができる。

荻 原 守 衞

(1879〜1910)

ブロンズ

現  代

文 部 省

荻原守衞は明治になってはじめて伝えられた西洋彫刻を最も早くに学んだ人で,またそれらの中で最もすぐれた作家である。

この女は明治43年(1910)の作で,その純粋な造型に見どころがある。

 

伎 楽 面(ぎがくめん)

木造彩色

白鳳時代

宮 内 庁

伎楽とは古い名を「くれのまい」といい推古天皇20年(612)に百済人味摩之(みまし)によって伝えられたのが始まりである。これに用いる仮面は非常に大形で,頭からすっぽりかぶれるようになっている。世界に残る仮面の中で最も古く,また彫刻としてもすぐれたものである。

伎 楽 面

木造彩色

奈良時代

東 大 寺

伎楽は主として宮廷の餐宴(きょうえん)や仏寺の法要などにおこなわれたが,その最も盛んであったのは奈良時代である。この東大寺の伎楽面は天平勝宝4年(752)における有名な大仏開限供養に用いられたものである。その異国的で大きな感じがあるのが特色である。

舞(ぶ)楽 面

木造彩色

藤原時代

手向山(たむけやま)神社

舞楽は今の雅楽のことで,平安時代以降,ことに藤原・鎌倉両時代に宮廷や各他の社寺で盛んにおこなわれた。したがってそのころの仮面にすぐれたものが造られ,また数もたくさんある。手向山神杜の舞楽面には長久3年(1042)の銘があり,製作もりっぱである。

舞 楽 面

木造彩色

鎌倉時代

春日(かすが)神社

春日神杜の舞楽面には元暦2年(1185)仏師印勝(いんしょう)作というのがある。仮面の作者は普通,面師とか面打師とかいわれるのであるが,鎌倉時代にはよく仏師が仮面を造っている。それだけに彫刻もしっかりしていて,なかなかよくできている。

能面黒色尉(のうめんこくしきじょう)

木造彩色

室町時代

天 川 社(てんかわしゃ)

能楽はほぼ室町時代から興り,桃山時代に著しい発達を遂げて,そして江戸時代にひろく一般にも流行した。したがってそれに用いる仮面もその発達過程に順応して造られたわけである。しかし現存する能面で室町時代のものはあまり多くない。この天川社の黒色尉には延徳2年(1490)の銘がある。

能 面 小 面(こおもて)

木造彩色

桃山時代

東京国立博物館

能面の著しい特色は普通,幽玄ということばで表わされているが,それは現実的な写実からかなりかけ離れた超自然の美しさといったようなものを目ざしていたことを示すものである。その一つは喜びとも悲しみともつかないような表情で,この桃山時代の小面などにはそれがよく表わされている。

狂  言(きょうげん)面

木造彩色

江戸時代

東京国立博物館

能楽の構成からいって狂言のもつ意義は意外に大きい。それは劇として,一方に普通のまじめな感情が盛られている場合,他方にそれを解きほごすような笑いがあって,そこにその劇的効果をさらに強めるものが見だされるからである。狂言面はその意味からして,なるべくこっけいに造られているのがよいのである。

 

○雲岡(うんこう)の石仏

中国山西省大同府郊外雲岡鎮

雲岡の石窟は,北魏の文成帝が僧曇曜(どんよう)の建議によって和平初年(460)ごろに造りはじめたもので,その造営はほぼ太和18年(494)ごろまで続けられた。したがってここにある石仏は東洋彫刻史の上で大きな地歩を占める北魏様式の典型的なもので,ことにその大きな感じをもった力強い表現はすばらしい。

龍門の石仏

中国河南省洛陽

龍門

龍門の石窟は,北魏がその都を洛陽に移した後,宣武帝が景明4年(503)から営んだものであるが,その造営は北魏の滅後もなお続けられてほぼ唐の太宗の貞観未年(649)ごろまでに及んでいる。したがってここの石仏のおもなものはおおかた北魏の様式をもっているが,そこにはなお隋や初唐の様式をなすものもあって,なかなかおもしろい様式発展を示している。

天龍山の石仏

中国山西省太原県天龍山

天龍山の石窟は,北斎の文宣帝の創設に始まるといわれているが,その造営はほぼ7世紀の間におこなわれたようである。すなわちここの石仏はおおかた唐の様式によって造られて,それらはかなり徹底した写実をある種の理想型にまとめたというような形をしている。それは東洋彫刻としてまことにすぐれたものといえる。

石窟庵の石仏

朝鮮慶州吐含山(とがんざん)

慶州吐含山の石窟は,新羅の景徳王の10年(751)に造られたもので,本尊の釈迦如来像だけは丸彫りであるが,その他の脇侍菩薩像も梵天帝釈天像も四天王像も十大弟子像も八部衆像も仁王像もみな壁面に浮彫されたものである。唐の様式をほとんどそのままにうけ継いだものであるが,そこにまたかなり繊細な新羅特有の表現を示している。

サンチーの彫刻

インド,サンチー

サンチーはインドの中央部にある小丘で,その丘の上にある仏塔は紀元前150年から70年の間に建てられたもので,現存する仏教遺蹟として最古のものといわれている。そこに半ば装飾的に造られた彫刻には,さまざまな人物や鳥獣や草木などがあるが,その造型はなかなか巧みで,実に豊かな感じをよく出している。しかしここにはまだ仏像は造られていない。

ガンダーラの仏像

インド,ガンダーラ

ガンダーラはインドの西北部の一地方で,紀元前後ごろ一時ギリシア文化の影響をうけて,東西文化の交流を見た興味深いところである。ここで造られた仏像は世界で最も古いもので,その最盛期は紀元後ほぼ1世紀の間といわれている。その仏像は顔も服飾もほとんどギリシア風で,あまりインドらしいところがない。

マツラの彫刻

インド,マツラ

マツラはインドの中央部にある国名の古都を中心とした一地方で,ここには古く紀元前からジャイナ教が栄えていた。そしてその遺蹟も今に残っている。したがってここでは,一方にガンダーラからの影響を受け,他方に従来のジャイナ教からの感化によって,インドとしても割合に古い仏像彫刻が造られた。やや粗雑なところもあるが,きわめて力強いものである。

グプタの彫刻

イ ン ド

グプタは紀元320年から670年に至る間,ほとんどインド全土を支配していた王朝の名である。このころのインドは仏教もインド教も最もよく栄えたので,それらの彫刻が数多く造られ,またすぐれたものも多い。仏教におけるアジヤンタ石窟,インド教のエレファンター窟殿はその中でもすぐれたものである。やや強すぎるような肉感的な表現を特色とする。

ボロブヅールの彫刻

ジャバ島

ボロブヅールはジャバ島にあるきわめて大きな仏教遺蹟で,紀元760年から847年ごろにかけて営まれたものと云われているが,そのゆいしょなどはあまりよくわからない。いわゆる南方仏教に関係するもので,これが造られたころにはインド本国ではすでにグプタ王朝が倒れて次のガヅニー王朝になっている時であるが,ここの彫刻はグプタの流れをくんだものである。

アンコール=ワットの彫刻

仏領インド支那

いま仏領インド支那の中に含まれているもとのカンボジア王国にある仏教遺跡の一つで,やはり,南方仏教の仕事である。紀元1122年から1152年の間に営まれたものであるが,このゆいしょもほとんどわからない。それにここの彫刻はボロブヅールほど明らかなグプタ様式を伝えておらず,また一種特珠な様式と表現とをもっている。

 

    (3) 西  洋

○書 記 の 像

石灰岩,彩色,像高53cm

第五王朝(前2563ころ〜2423ころ)

エジプト

パリ,ルーヴル美術館蔵

エジプトの死者の魂の永遠のすみ家がミイラであるが,一時的な宿り場所として彫像も作られた。この種の像はなるべく魂が宿りやすいように死者生前の姿に生き写しでなければならなかった。「書記の像」のようなリアリズムはこうして生れた。

瀕死(ひんし)の牝獅子(めじし)

雪花石膏,浮彫

前7世紀

アッシリア

ロンドン,英国博物館蔵

アッシリア人は動物のすぐれた観察者であった。これはアシュル=バーン=アプリ王の獅子(しし)狩の浮彫の一部で,矢に当った牝獅子が後半身の感覚を失いながらなおほえ続ける姿は,動物彫刻として世界の傑作の一つである。

少 女 像

大理石,像高 1.175m

前6世紀後半

ギリシア

アテネ,アクロポリス美術館蔵

足をそろえて立つ古風なポーズの像であるかが,特に頭部は生き生きとしていて,軽くひきしめた口もとに「古式の微笑」が表われている。若い民族の女性の健康な身体と単純な精神がよく表現されている。

円盤を投げる人

ミ ュ ロ ン

原作の総合復原

像高 1.38m

前5世紀中ころ

ギリシア

ローマ,国立博物館蔵

人体の激しい運動の瞬間を表わそうと試みた最初の彫像である。後からながめると,右足に力を入れ,左足を浮かせて,反動をつけて円盤を投げようとするときの身体の動きと,リズムがいっそうよく感じられる。

パルテノン東破風の三女神

大理石,像高 1.21m

前5世紀後半

ギリシア

ロンドン,英国博物館蔵

「運命の女神たち」といわれているが,確かではない。大神殿の破風彫像としてじゅうぶんの迫力をもつ量と威厳と落着きとがあり,しかも衣服の細かいしわによって優美な感じが与えらている。

ヘルメス像

プラクシテレス

大理石,像高 2.12m

前4世紀

ギリシア

オリンピア美術館蔵

小児のディオニュソスを葡萄(ぶどう)のふさであやしているヘルメスの像である。なだらかな筋肉の扱い,脇腹を見せ,一方の足に身体の重みをかけ,他方の足の力を抜いた姿態はプラクンテレスの作品の特徴である。この彫刻が作者の原作であるという説は近年賛成者が少なくなった。

身体のよごれをかき落す人

リュリッポス

大理石(模刻)

像高 2.05m

前4世紀

ギリシア

ローマ,ヴァテイカノ美術館蔵

前5世紀後半のポリュクレイトスは7頭身の比例を用いたがリュリッポスは8頭身とし,人物をたけ高くほっそりとしなやかにしたポーズが静的でありながら,この像には動きがある点や,また扱われている空間が前後に深い奥行をもっていることも,リュリッポスの作風の特徴である。

○ミロのヴィナス

大理石,像高 2.04m

ヘレニスティック時代

(前2世紀ころ)

ギリシア

パリ,ルーヴル美術館蔵

パリスの審判のアフロディテであろうと想像される。強い腰のひねり,腰布の斜線は時代の下ることを示す。今日ではプラクシテレスの芸術を追随する前2世紀ころの作品と見る説が有力である。しかしすぐれた作品としての評価には変りはない。

○とげをぬく少年

青  銅

へレニスティック時代(?)

ギリシア

ローマ,カピトリーノ美術館蔵

魅力的な主題によって人々に親しまれているが,様式上矛盾が多く,製作もさまですぐれたものではない。アルカイク期と古典期の中間期(前5世紀前半)とする説は今日では顧みられない。

ラオコオン

ハゲサンドロス,ポリユドロス,アテノドロス合作

大理石,像高 2.42m

前50年ころ

ロドス島

ローマ,ヴァティカノ美術館蔵

ヘレニスティック時代の彫刻製作の一中心地であったロドス島の作家たちによって作られた群像である。筋肉の誇張した取扱,苦痛の表情の描写など,この時代の傾向の特徴である。今日から見れば,詩人レッシングの賞賛に価する作品ではない。

アウグストウス像

大理石,像高 2.04m

前 19〜13年

ローマ

ローマ,ヴァテイカノ美術館蔵

演説の前に聴衆をしずめる皇帝の姿を写したもので,ギリシアの作風でローマ的理想を表現しようとした作品である。数多いローマ皇帝の肖像彫刻中の代表作である。

美 し き 神

アミアン本寺西方正面入口中程の彫刻

13世紀前半

フランス

アミアン(所在)

建築によって限定された空間に従属しながらも,神秘的感情の表現と装飾的効果を期したロマネスク時代の彫刻と異なって,人間的感情を取り入れ,その様式は一そう知的となってきたゴシック彫刻中での傑作である。

ガッタメラータ騎馬像

ド ナ テ ル ロ

(1386ころ〜1466)

青  銅

1453

イタリア

パドヴア,聖アントニオ寺広場(所在)

後期ゴシック的リアリズムに古典的理想主義を合せてルネッサンス彫刻を完成したドナテルロ盛期の作品である。肖像作家としての技倆は人物に見られるが,特に馬は自然の形体を単純化して,よくモニュメンタルな表現に達した。

ダ ビ デ

ミケランジェロ

(1475〜1564)

大理石,像高 5.5m

1501〜1504

イタリア

フィレンツェアカデミア(所在)

ミケランジェロ29才の時に成る。石投げを背にまわして巨人ゴリアテにちょう戦しようとにらんでいるダビデの像である。若い弾力に富む手足の中にはゆるやかな運動が内在し,次の動作の激しさを予見させる力が潜んでいる。

○モ ー ゼ 像

ミケランジェロ

大理石,像高 2.55m

1513〜1516ころ

イタリア

ローマ,サン=ピエトロ=イン=ヴインコリ寺(所在)

ユダヤ人の偶像崇拝を怒って立ち上ろうとするモーゼの像である。巨大な量の石塊に深くのみが食い入って,この偉大な民族の指導者の精神が刻み出されている。精神性と物質性が完全な融合を見た彫刻作品といえる。

メディチ家廟所の彫刻

ミケランジェロ

大理石群像

1521〜1534

イタリア

フイレンツェ,聖ロレンツォ寺内(所在)

ヌムール公ジェリアノ,ウルビノ公ロレンツォの像の足もとのそれぞれの棺のふたの上に置かれた「昼と夜」「朝と夕」の比喩像である。人体についてのじゅうぶんの理解と,自由なのみの技をもっているばかりでなく,人生に対する深い洞察をもつ人によってはじめて作り得た作品である。

進   軍

リ ュ ー ド

(1784〜1855)

石 灰 岩

1836

フランス

パリ,エトワール広場(所在)

彫刻においてローマン主義的傾向が最もよく表われた作品である。1792年フランス革命当時外国の侵入軍を討とうとして進軍したフランスの義勇軍を表わす。群の構成は巧みであり,特に上速,下緩の人物の組合せは記念建築物によく適合している。

青 銅 時 代

ロ ダ ン

(1840〜1917)

青銅,像高 1.75m

1877年,サロン出品

フランス

パリ,ロダン美術館蔵

巨匠ロダンの初期の代表作で,当時の彫刻の官学的傾向にあきたらず,勇敢に自然にぶっつかって行って生れた作品である。この作品こそかれ自身の進展の出発点となり,同時に近代彫刻全体のそれともなった。

考える人

ロ ダ ン

青銅,像高 2m

1879〜1900

フランス

パリ,ロダン美術館蔵

有名な「地獄の門」の上方に付けられた男の像を拡大して単独像としたものである。ロダンの多くの作品に見られる散開的な気分に反し,凝集的気分をもったもので,その山のような量塊は見る者を威圧する。

バルザック

ロ ダ ン

石膏,像高 2.80m

1897年

フランス

パリ,ロダン美術館蔵

パリ文芸家協会からの注文で作り,引き取りを拒絶されたいわれを持った記念像で,ナイト=ガウンをまとい,深夜へやの中をさまよいながら,ふと製作の霊感を得た瞬間の文豪の姿である。枝葉の要素はすべてすて,太い骨格だけを内蔵した巨大な量の巌のような像で,真の意味のモニュメンタルな彫刻である。

その他 プールデル・マイヨール

    デスピオらの作品