第2章 こどもの発達と理科学習
Ⅰ.こどもの発達を考えるわけ
こどもに1mmの目もりを読むことを指導しようとする場合に,こどもの目が1mmの間隔のある2本の線を識別することができる程度に発育していなければ,どんなに指導に骨をおってみたところで,骨おり損に終る。指導してみたいと思う事がらも,指導の方法もすべて,それを受け入れる側のこどもの発育の程度を基礎にして,その上に築かれなければ意味のないことになる。理科の指導や学習について考えるにあたって,第一に取り上げなければならない問題として,こどもの発達ということがある。まず,この問題のもつ意味について,もう少し考えてみよう。
1.こどもを理解するために
(1) こどものどんなことを理解するか
こどもは,その内にあるいろいろのものが密接な関連をもった全体として発達していくものであるが,これを研究する場合には一応分析して考えてみることも必要である。ここでは,次のように分けて考えてみよう。
A.身体の発達を理解する
たとえば,筋肉は年齢が進むに従って,どのように発達していくものであるかがわかれば,年齢に応じて,実験や作業の適切なものを選ぶことができる。
また,持久力の発達の程度が理解できれば,継続的な実験観察は,どのくらいの期間が適当であるかを決めるのにも役だつ。 このように,身体的の発達の程度を理解していることによって,無理のない指導をすることができる。
B.社会性の発達を理解する
たとえば,グループは,どのくらいの人数で,どのように扱ったらよいかを考える場合,集団的組織的な行動についての発達の程度を理解していることが必要であろう。
また,性的に違った行動が現われてくる時期や程度がわかれば,男女による興味や関心の違いに応じて,適切な指導ができる。
C.情緒の発達を理解する
たとえば,生物に対しての愛情がどのように発達するかがわかれば,どの年齢の時に,どんなものを,どんな方法で飼育するようにしむけたらよいかがわかる。
また,身体的な直接経験に興味をもつか,あるいは抽象的な思考に対して興味をもつかがわかれば,それに応じた指導ができる。
D.知的発達を理解する
たとえば,客観的に考察できる発達の程度とか,推論する能力や抽象作用の発達の程度など,知的の発達の程度を理解すれば,こどものもっている能力をじゅうぶんに発揮させることができるし,こどもの能力以上のものを要求して,興味を失わせることもなくなる。
このように,こどもを理解することがもとになって,こどもの能力をいっそう伸ばし,理解を深め,好ましい科学的態度を養うことができるようになる。
(2) どうすれば,こどもを理解できるか
まず第一に,これまで研究された資料などにより,こどもの成長発達の一般的な傾向を,おおまかに知ることである。
こどもの心理的傾向を,身体的な発達の段階・社会的発達の段階・情緒的な発達の段階・知的な発達の段階に分けて,これらの各面から見て,年齢とともに,どのように発達していくかのだいたいの傾向をつかむことがたいせつである。
次にだいたいの傾向をつかんだ上で,これに照し合わせて,個人の発達を考え,受持ちのこどもひとりひとりについて観察を進めて,そのこどもの個性を理解することである。
それには,いろいろな評価の方法がとられるが,このひとりひとりの観察から得た事例の集積が,あるこどもの個性の理解に役だつのである。また,それによって,その学級の傾向もつかむことができるから,観察の集積をおろそかにしてはならない。
2.学習の効果をあげるために
学習の効果をあげるためには,こどもの意欲や興味の中心を知り,こどもの理解・能力・態度の範囲と程度を知ることが必要である。
(1) 興味の中心を知る
興味が強く働いた場合には,学習の意欲もそれに伴うものである。こどもの興味は年齢とともに変るものであるから,こどもの興味の発達を理解することによって,学習のときの興味の中心がどこにあるかを知る手がかりが得られる。
しかし,ここに注意しなければならないことは,こどもの興味の中心を知るには,教師がこどもと,日ごろ生活をともにして,その観察から得られたものほど大きなものはないということである。こどもの興味の中心がよくつかめない場合は,教師とこどもが心隔てなく生活していない時に起ることが多い。
(2) 学習の範囲と程度を知る
A.理解について
こどもの発達を考えることによって,こどもが現在もっている理解の程度と,到達しうる限度がだいたいわかる。
こどもがある事物現象に対して,現在どの程度に理解しているかがわかることによって,その理解を出発点として,さらにその理解を深める目標がたち,学習の効果が上がるように指導を展開することができる。
B.能力について
こどもの能力の発達の程度を理解すれば,その能力を無理なく,じゅうぶんに使って,さらに伸ばすことができるし,能力以上を要求しない結果,こどもは満足感を味わい,学習の興味が長く続いて,学習の効果を上げることができる。
C.態度について
こどもが興味をもち,能力をじゅうぶん使って問題を解決していく過程には,いろいろな科学的な態度が芽ばえている。
この芽ばえを育てるには,この科学的態度が現われた時,それを見のがさないで捕え,それを伸ばしていくことが必要である。このためには,こどもの発達を理解していることが必要になってくる。
指導の目標(理解・能力・態度)をたてるにあたって,こどもや社会の要求を考慮することはもとより必要なことであるが,こどもの発達に応じてたてられなければならない。
一般的な目標がこうであるからといって,そのままそれをうのみにしたのでは,その学校や学級の指導目標が固定化されて,うまくいくはずがない。
3.効果のある指導法を選ぶために
およそ指導の方法は,その学級のこどもの経験の程度や,教師の経験の程度に応じて,最も効果のあるものが選ばれなければならないことはいうまでもない。ある学級の指導の方法がたいへんよかったからといって,自分の学級にそっくりそのまま適するとは限らない。
どのような学習活動なり,どのような指導方法なりが,学習の効果を上げるのに適しているかということは,日ごろから自分の受特つこどもの発達を研究しておいてこそ,初めて判断がつくのである。
学習に対するこどもの興味を持続し,能力に応じた指導をするためには次の諸点を考慮する必要がある。
(2) どのような順序で指導していくことが効果的か考える。
(3) 教師が学習を助ける場面と,程度を考える。
(4) どのような時に学習を個別的にしたほうが効果的か,グループにしたほうが効果的かを考える。
Ⅱ.理科のプログラムに影響する小学校のこどもの発達
こどもの発達は,いろいろな面で常に理科のプログラムに影響を与えている。次に身体・社会・情緒・知能の各方面からこどもの発達をながめ,その中で,特に理科のプログラムに影響するものをあげてみる。
1.身体の発達について
A.低 学 年
(2) こどもは,一つの活動を長く続けることができないで,すぐあきてくる。それで,適当に休みの時を置いたり,すわったり,立ったりして,活動に変化を多くすることがたいせつである。
また,見ること,聞くこと,書くこと,話すことなど学習活動に変化をつけると,学習が長続きする。
(3) まだ筋肉の発達がじゅうぶんでなく,細かく筋肉を使う動作はできない。それで,筋肉をおおまかに使うように,絵をかく場合なら,できるだけ大判のものを使うとか,種まきをする場合なら,粒の大きなものを使うような心構えが必要である。
B.高 学 年
目新しいものを非常に喜び,何事もやってみようという意欲に燃える。
(2) 忍耐力が発達してきて,継続的な飼育栽培や測定も,やりとげられるようになる。
(3) 体力や筋肉の運動が発達し,細かい運動もできるようになる。それで,顕微鏡を用いて極微の世界を研究したり,望遠鏡で天体を観測したり,薬品を適量用いたりするなど,しだいに精密な道具や機械・器具を扱えるようになる。
2.社会性の発達について
A.低 学 年
(2) 友だちやおとなのしていることをまねて,行動することが多い。
(3) 友だちの数は少なく,交際は浅い。友だちはできやすいが長く続かない。それで,学習の時,長い時間同じ友だちと協力する仕事は適当でない。グループ活動は少人数(4〜6人)が適当である。
(4) 自己中心の考えが強く,友だちどうしの信頼と尊敬がうすく,友だちの主張を認めにくい。協力性が少ない。
グループで協力してやる場合にも,めいめいでする仕事の範囲を決めて与えるようなくふうが必要であろう。どういう能力のあるものがリーダーに適当であるかを判断する能力はなく,ややもするとその時その場で,元気のよいもの,でしゃばりものがリーダーの役をする傾向がある。
(5) 性的な区別は感じていない。研究や観察をする時,男女を一つのグループに入れ,同じに扱うのがよい。
(6) 自分の考えをまとめないで,他人の言動にひきずり込まれる傾向があるひとりのこどもが発表すると,確かめもしないで同意するので,往々ゆがめられた結論を出すことさえある。
B.高 学 年
グループの一員としての責任観念は,まだじゅうぶんではないが,しだいに高まっていく。
(2) 教師や両親の意見に対して批判的な態度が強くなる。命令や知識についてもそのまま無批判に受け入れなくなる。
(3) 自分で実験や観察をして,事実に基いた理解を得ようとする。ある程度の示唆が与えられると,自分で問題を解決する能力が高くなる。
(4) グループが大きくなり,しかも,その中の秩序が保たれるようになる。優秀な人を認識してリーダーに選ぶことができ,また,そのリーダーに従って活動するようになる。
(5) 男子は男子のみのグループ,女子は女子のみのグループを作る傾向が現われる。
(6) 男子では,腕力の強いものが,教師の目の届かない所でリーダーになる傾向が時には生ずることもある。
(7) 競争心が強くなるので,違った意見の予想の出た場合に,個人またはグループで競争的になることがある。グループの学習では,他のグループより,よい結果を示そうとして,計画を秘密にすることさえある。
3.情緒の発達について
A.低 学 年
(2) こどもの恐怖は,暗いとか,大きい音いやな音とか,絵にかいてあることを見た結果とかから,直接に起る傾向がある。
(3) 両親に対して,絶対的な愛情と信頼をもち,兄弟に対する愛情も現われてくる。友だちに対して愛惰はふじゅうぶんであるが,しだいに高まっていく。
(4) 自分の持ち物や身体について,他から侵されると強く怒る。これは野外での学習の時,見つけた物を取り合ったりすることに現われる。
(5) 愛情を独占したい欲望をもっている。家庭では兄弟に対してのねたみが強いが,学校では,友だちに対するねたみは,あまり強くない。
物に対する愛情は,個人差がはなはだしく,一般に,自分の飼っている動物に対しては,他の動物に比し,非常な愛情をもつ。
(6) 好奇心が盛んで,見る物,聞く物に対して広く興味をもつ。特に,
(b) 色彩の暗いものよりあざやかなものに対して興味が強い。
(7) 性別による興味の差は少ない。
(8) 絵話・漫画・童話・昔話に興味をもち,それが非科学的な物語であってもすなおに受け入れる傾向がある。
(9) 動物や植物の収集に興味をもっている。いろいろな花を集めたり,落ち葉を集めたり,貝がらを集めたり,ありを集めてびんに入れたりすることに,大きな興味を感じる。
B.高 学 年
(2) 絵や事物から直接受ける恐怖のほかに,薬品・ばいきん・爆発物・刃物等に対して,思考・判断・推理・連想等によって導き出された恐怖をいだく。
(3) 愛情は家族に限られず,友だちにまで広がるようになる。
生物に対する愛情もしだいに高まっていく。
(4) 社交上・道徳上のことに関して,正義感・責任感が強くなる。
グループ学習の際協力しなかったり,責任を果さなかったりすると,怒ることがある。
(5) 競争心が現われ,その結果,友だちに対して,ねたみをもつ場合がある。
(6) 同情心・あわれみの心が発達する。また,しゆう恥心が強くなり,まちがうと恥かしいという気持から,発表をきらうこどもが現われる。
失敗をすると言いぬけをしたり,次の仕事に移ったりして,これをかくそうとする傾向がある。
(7) 頭をひねったり,くふうしたりすることに興味をもち,なぞなぞ・知恵の輪などを喜ぶ。家庭用具や身のまわりの品物を改良したり,保存法を考えたりするようになる。
(8) 興味をもつ自然物自然現象の範囲が広くなって,動くものだけでなく,静的なものにも興味をもつ。
一つのものに対する興味も長く続くようになる。
(9) 性別による興味の差が出てくる。男子は機械に対して多くの興味をもち,女子は衣食住に関することに興味をもつ。
(10) 物語に興味をもち,特に変化に富む筋書・冒険的な物語・現実味のある物語・科学の本を読むことを好むようになる。
(11) 男子は未知の世界にとびこむ意欲が強く,むてっぽうに実験などをすることがある。
(12) こん虫・貝がら・鉱物・岩石・植物・衣服の布地・切手・マッチのラベル・食物のラベルなどを集めることに興味をもつ。
4.知的発達について
A.低 学 年
(2) 自分がこうしたとか,友だちがこんなことをしたというような,自分が見たり聞いたりした直接の経験について話をする。
(3) 主客がまだ分れない時期で,観察は直観的であり,判断は直覚的である。
花や木やきんぎょが自分と同じく話したり,聞いたり,考えたりできると信じている。
(4) 実物観察の場合,見方がおおざっぱである。その結果の発表は,外から見えることだけを思いついた順序に並べる程度である。
(5) 想像画を多くかく。実物を見て,ありのままにくわしく写しとることはできない。
(6) 数観念は具体的である。すなわち,実際のものについて数えることが主である。
(7) 考え方は具体的で,抽象することはできにくく,抽象された概念の理解も困難である。
(8) 注意力が長続きせず,努力を集中することができにくいので,ちょっとした困難につきあたっても,中止する傾向がある。
継続観察や精密な実験はできない。
(9) 観察の方法や,実験の手段について,自分で創意くふうしようとしないで,教師のいうままに動く傾向がある。
(10) 観察や実験を通しても,主観的な判断を下している場合が多く,客観的に真実をつかむことが少ない。
(11) 1,2年では,1か年前と1か月前の区別,1か年と1か月の長さ等の時間的の経過を理解することは困難である。
(12) 行為の結果だけを見て善悪を判断し,過程を重視しない。また,結果となって現われた事実だけを見て,その原因やその結果に到達した過程に注意しない傾向がある。
B.高 学 年
(2) 実験や観察したことを忠実に記録したり,写生したりすることができるようになる。
(3) 自分と離れて外の世界を考えられるようになり,生物・無生物の区別がはっきりしてくる。
(4) 抽象的な数概念ができる。数や量の範囲が拡大されて,星や地球についての大きさや,隔りなども考えられるようになる。
(5) 観察・実験・飼育・採集などを好み,これらのはたらきを通して,抽象した概念を理解する能力がしだいに高まる。
さらに進んでは,抽象した概念をそのまま習得しうるようにもなる。
(6) 結果だけを見て判断することなく,原因や経過を考えて判断するようになり,推論ができるようになる。
たとえば,雨が降る,風が吹くというような現象から,どんな影響が生じるかを考えるようになる。
一つの実験や観察を初めから終りまで企画して行うことができるようになる。
(7) 時間的経過に対して理解ができるようになり,長期にわたって変化するものを,継続的な実験観察を通して理解ができるようになる。長期にわたって問題解決もできるようになる。
(8) 客観的な見方がしだいに進んでくる。実験や観察を通して,客観的な真実をつかむようになる。
(9) 劇・絵画・音楽などによる表現を自分で企画するようになり,これを楽しむようになる。
(10) 討議を好むようになる。観察や実験の方法や研究結果について,自分のやったことを基礎にして討議するようになる。
Ⅲ.理科教育におけるこどもの発達の適用
Ⅱでこどもの発達を,身体の発達・社会性の発達・情緒の発達・知的発達の四つに分けて考えてきた。
このようなこどもの発達の傾向を,理科を指導する場合,どのように適用していったらよいであろうか。
理科の指導は問題の解決を中心として行われ,こどもは,その学習の過程を経て発達し,その結果として科学的な理解や能力や態度が身についていく。この理解・能力・態度はばらばらなものではなくて,互に密接なつながりをもったものであるが,いまこどもの発達の適用を考えるにあたっでは,一応理解・能力・態度に分けて考えたほうが理解しやすいので,以下この分析に従って述べることにする。
1.能力の発達と適用
能力というのは,何々することができるというはたらきである。一つの事がらに熟練した結果,他の新しい事がらに対する適応力のついた状態をさしていう。
ところが,このような能力の中には,技術の使い方が身について,それと共通な性質をもっている他の場面に適応できるような能力がある。理科では,能力のうち,主として考えたり見たりするものを,「見る能力と考える能力」とし,後者の技術的な能力を「技術的能力」として分類した。
A.見る能力と考える能力
事実をありのままに見るというのは,先入観をもたないで客観的に正しく,くわしく,すなおに見ることである。こどもは,ただ1回の経験で,すべてをおしはかってしまうような傾向を示すことがあるが,そのような態度を改めるのにも,この能力が高められる必要がある。
低学年のこどもは自己中心の考え方をすることが多い。また,友だちやおとなのすることをまねることが多いので,物をありのままに見ることがむずかしい。
学年が進むに従って,仮空の世界から離れて,現実の物をありのままに見ることがてきるようになってくる。いいかえれば現実の物を正しく見ることができるようになる。
このような傾向は,3,4年の時にはじまり,5,6年になると一般にきわめて盛んになる。
低学年の時代の,自分と対象物との区別がつかなかったり,擬人化して考えたりする傾向から,だんだんと客観的な見方に導くには,仮空なもの,実在するものとの区別をつけていくようにしむけることが望ましい。高学年ではともすると,狭い経験範囲で物事を判定してしまう場合がある。このようなときには,なるべく多くの経験を集めることもたいせつであるが,改めてその事実を見直させる必要がある。
(2) 比較観察する能力
ある物事とある物事とを比べて,そこに現われる異なる点,同じ点を比べてみることである。これには,ただ物と物との比較もあるが,一つの現象と他の現象との間に関係的な意味を見いだすということも含まれている。
低学年のこどもは,物をありのままに見る能力がまだじゅうぶんでないために,一般的には比較観察の能力は低いということがいえる。
しかし,切ったようかんの大きさを見わけたり,花や色紙の色彩のあざやかなものをより出したりするところにこの能力の芽ばえがうかがわれる。
一般にこの能力は,興味・好ききらい・利害などと密接に関係して現われることが多い。
1,2年生では,色の区別は敏感であるが,形の区別はそれに伴わない。共通点をみつけるよりも,めだった点や違ったところをみつけることが先にできる。
3年生になると共通点もみつけることができるようになる。
4年生以上になると,二つより多い物の異同を比較観察することができるようになる。
比較観察することによって,問題をつかむこともあるが,研究調査の場合に多く必要とする能力である。特に,実験や観察などにおいて,どれだけの違いや同じ点があるかというような場合や,実験から結論を導いたときに,その結論が正しいかどうかを吟味するような場合に,この能力が練られる。
(3) 数量的に見る能力
この能力の一部は比較観察の能力の中に見ることができる。草花の成長を数量的に見るという場合は,一つの事がらを時間的に,数量的に見るのであるが,二つの現象の関係を数量的に見る場合も出てくる。また一つの現象を分析して,二つの要素から数量的に考える場合もある。
単に,数量をはかっただけでは,数量的に見るということにはならない。必ずその変化の意味について考えることがあって,はじめて数量的に見るということになる。
低学年のこどもは,物を一つ,二つ,三つと数えることの意味を知っているが,物から離れた数を考えることができにくい。(これは幼少のこどもが数を無意味に唱えることとは別の意味である)
学年の進むにつれて,だんだん物から離れた数を考えることができるようになる。また,数の範囲も拡大する。
高学年では,数量的に処理したほうが現象をよりはっきりと正確につかむことができ,簡明に解釈を生み出すことができるというように導きたいものである。
(4) 問題をつかむ能力
ある事態に対応して,そこに不調和や不合理や意欲に満たないものを感じた場合,その不調和や不合理や不満を調和のとれた状態,または合理化された状態,満足な状態に置こうとするところに問題がつかまれる。従って,不調和や不合理を見いだす能力,または意欲が盛んであることが,問題をつかむ能力の基になっている。
この中には,単なる疑問もあるが,日常の生活の合理化に気づいた場合には,問題をつかんで,その解決への意欲も盛んに働いてくる。
低学年のこどもは,よく考えないでその場その場でつかむ単純な問題が多い。
学年が進むにつれて,問題のつかみ方に筋道が見られるようになる。問題をつかむのには,教師の方向づけがたいせつな場合があるが,その方向づけによって,こどもは,自由な気持ちで問題をつかむようにしなければならない。教師の指導が強過ぎて,最後は教師がまとめるものであるというような印象を与えると,こどもたちは,自発的な活動をやめるようになる。
(5) 結果を予想する能力
一つの問題を解決するときに,いろいろな経験や材料をもとにして,その見通しをつけるのが普通である。その見通しによって,はじめて次の仕事にとりかかれる。実証をするための実験などは,この結果を予想する能力があって,はじめて計画がたち,手順がうまくはこばれるのである。
低学年では,すでに直接経験したことと同じようなことなら,ある程度結果の予想ができるが,直接に経験しないことや縁の遠いものや抽象的なことになると予想ができにくい。
高学年では,すぐ結果がわからなくても,関連のある他の経験から,ある程度結果を予想することができる。
結果を予想するにあたって,筋道をたてて考えるのでなければ,単なる憶測に終ってしまうから,その予想が筋道をたてて考えられたものかどうかを,確かめていくようにしなければならない。
(6) 企画する能力
実験や見学や製作などに直接現われる場合もあるが,広く生活全般にわたって,能率的に進めていこうとする時に必要になってくる。
企画するということは,ある程度筋道のたった考え方や,結果を予想する能力がなければできないことである。
低学年では,どんな遊びをしようか,だれと遊ぼうかなどと考えるところに,この能力の芽ばえが現われる。しかし,初めから終りまでよく考えて,順序だって企画をし,それに従って仕事をしていくことはできない。
高学年になると,みずから企画をし,その企画に従って仕事をすることができるようになる。しかし,ひとりの能力では完全な企画をすることは無理な場合が多く,話合い等によって,多くのこどもの知恵を集めて,はじめてまとまった企画ができることが多い。
この能力は,製作とか,見学とか,実験などの具体的な学習活動に即して,まず大胆に企画させるように導いて,はじめて高められていく。
しかし,その企画のしかたがよかったかどうかは,こどもと教師の協力による評価によって,確かめられ,しだいに高められていくのである。
(7) 原理を応用する能力
問題を解決して,一つの結論を得たとする。この結論は一つの筋道であって,これをだれにもわかるように言い表わすと,だいたい法則のような表現になることが多い。その法則なり原理なりを,こどもが自分で日常生活や,次の問題解決の時に応用するのがこの能力である。
低学年のこどもは,事がらが簡単な場合,またはこどもが前に経験したと同じ場合でないと,原理を応用しにくい。
高学年になると,経験が豊富になるので,事がらが複雑な場合や,もとの経験と違った場合にも応用できるようになる。
原理を応用するというのは,こどもみずからが応用するかどうかということであるから,学習中,またはその他のこどもの生活の中で,もし気づかないで過ぎるような場合には,示唆を与えることも必要になってくるであろう。また,一つの仕事の結果が,どのような原理を応用して行ったかを考えさせることも必要である。
(8) 事実から推論する能力
推論が,単なる憶測ではなく,事実に基いて行われることである。
そのもとには,事実をありのままに見る能力や,筋道の通った考え方をする能力が必要になる。
天体に関する学習になると,説明的な実験を基にして,それから推論するようなことも含めて考えられる。低学年では,実証する段階を省いて,推論で学習が終る場合もあろう。
1,2年では,分析する能力がじゅうぶんでなく,物事の見方も主観的であって,事実よりもむしろ両親や教師のいったことをもとにして,推論する傾向がある。
3,4年では,物事の因果関係を明らかにすることが,だんだんできるようになる。
5,6年になると,分析的に判断する能力が進み,客観的に物事を見るようになるので,複雑な現象の中から必要な事実を見ぬいて推論できるようになる。
(9) 筋道のとおった考え方をする能力
この筋道のとおった考え方をする能力は,事実に基く推論や結果を予想するという能力よりも幅が広いといえる。
低学年では,こどもが経験した事実が少ない。経験した少数の事実から得た結論を,いろいろな場合に適用しようとする。そして,論理的な飛躍に気づかない場合が多い。
高学年になると経験が多くなり,分析的な判断が進んでくる。それで,しだいに筋道のとおった考え方ができるようになる。
この能力は,話合いの時によくわかり,また伸びていく。
(10) 分析的に判断する能力
一つの事態を分析して,条件を確かめて判断することである。
低学年では,全体的直覚的に物事を見ることが多いから,分析的判断をすることが少ない。
高学年になると,全体的に見るだけでは満足しないで,深く究明しようとして,分析的判断をするようになる。たとえば,一つの現象について,時・場所・原因あるいは条件等を分けて考えるようになる。
問題解決にあたって,問題の分析からまずこの能力の必要さが考えられる。問題が適当に分析されることによって,それから後の仕事が楽にはこばれるようになる。また,研究作業や整理の場合にも,解釈のしかたが正しいかどうかを反省し,吟味する時にもこの能力が必要になってくる。
(11) 総合的に判断する能力
いくつかの事実をまとめて推論し,一つの判断を下すことである。
低学年のこどもは,全体的に物事を判断するけれども,分析したものをふたたび総合して判断することはしない。
分析して判断する能力が進むにつれて,いろいろな実験の結果をまとめて一つの結論を出したり,いくつかの原因が同時にはたらいた場合,どうなるかを判断したりすることができるようになる。しかし,5,6年でもこの能力がよく発達しているとはいえない。
(12) 普遍化する能力
いろいろな観察や実験から得られた一応の結論を,さらにいろいろな新しい経験に当てはめてみて,結論の正しいことを確かめ,また,ある時には結論を修正して,いっそう広い範囲の事実に当てはまる結論をみつけるようになる。
この能力は,たくさんの事実に当てはめてみた経験をとおして,どの場合にも当てはまるような原則を考え出すことである。
このような能力は,低学年でも簡単な場合には見られる。
高学年になり,事実から推論する能力や,分析的・総合的に判断する能力,筋道の通った考え方をする能力の進歩に伴って,この能力も進む。
こどもたちがある理解に達した時,その理解がどの範囲,あるいはどの程度に適用されるかどうかを考えたり,当てはめてみたりすることによって,普遍化の能力はさらに高められていく。
B.技術的能力
学習の初めにあたって,または学習の途中の研究やまとめにおいて,教科書や参考書によって道が開かれることがある。ところが,どういう教科書や参考書を選び,どのようにしてそれを手に入れたらよいかが解決されなければ,有効にこれらを活用することはできない。
また,ある実験を計画した時に,どれだけの器具や材料が必要であるかがわかっても,それらを適当に手に入れることができなければ,実験ができない。器具や材料のあり場所へ行って持ってきたり,ない場合には手近な場所で集める必要が起ったりする。
同じように,一つの実験が終って,その解決が正しいかどうかは,確実な資料に基いて吟味する必要が起るであろうが,この時にも,それに適する資料を求めることができなければならない。
このように,資料や材料を集めることがうまくできると,問題の解決は楽になり,より正確になる。そして,学習活動は豊かに展開されるようになる。
資料・材料の内容として考えられるものには,自然物(観察の材料・飼育栽培の材料),製作材料(道具および材料),実験材料(器具および材料)などの材料や,絵・写真・スライド・映画のフィルム・図表・パンフレット・記録・新聞や雑誌の記事・地図・参考書などの資料がある。
低学年で集めることのできる資料・材料の種類は,おもに,画・写真・実物(木の実・木の葉・石など)・おもちゃ・簡単な製作に必要な材料器具の範囲を出ない。それをさがす場所は,学級・校庭・野外・家庭(自分の持ち物)にだいたい限られる。どこにいけば,どのような資料や材料が得られるかというような経験をつむことがたいせつである。それによって,高学年になって自発的な集め方ができるようになる。
資料や材料を集める場合,とかく,ある目的によってある物を集めていることを忘れて,その場所や,その物に関連して別の活動を起しがちであるから注意を要する。
高学年になると,どんな資料が問題解決に役にたつかを考えて,資料を選び出すことができ始める。
集めることのできる資料・材料の種類は低学年から発展して,新聞雑誌の記事・参考書・地図・統計などが集められるようになる。
集めてくる場所も学校・家庭・野外などから,さらに図書館・博物館・工場その他社会施設などにまで広がる。
資料や材料を,めいめいで集める場合もあるが,やや困難と思われる場合には,グループで集めるとか,学級共同で集めるとかの示唆が必要である。
よく見かけることだが,おとな向きの本や統計などをおもしろくもなく,わかりもしないのに骨をおってうつしてくるような,役にたたない努力はやめなくてはならない。このようなことを避けるためには,こどもたちに適当と思われる参考書なり,統計なりをあらかじめ用意しておくほうがよい。必要な事がらを選び出すことができるようになる段階をいくつか考えて,次第に複雑なものから選び出せるようにしなければならない。
(2) 整理整とんする能力
整理整とんするためには,同じ物や違った物を見分けて分類することや,次に使う便利さを考えて,位置や場所をくふうする必要が起ってくる。整とんは,次の仕事の準備である。
低学年では,整理整とんのできた後の美しさ,気持のよさを味わうことはできるが,それ以外の整理整とんの必要(たとえば,便利・清潔等)を理解することはむずかしい。
また,整理整とんの計画をたてても,一時はするが長続きしない。
整理整とんする場合には,色・形・大きさによって,種類分けすることはある程度できる。たとえば,本・道具・積み木等を別々に集めたり,本を大きさの違いによって分けて並べたり,葉を色や形によって分類したりすることができる。しかし,整理整とんは,正確にはできないし,また相当に時間がかかる。従って,その場その場にあたって,整理整とんするようにしむけることがたいせつである。
高学年になると,整理整とんの必要なことを考えることができるようになる。そして,次に使う時の便利さを考えて企画し,整理整とんするようになる。
分類をするような時も,ただ外観だけにとらわれることなく,本質・内容・使用の目的・使用上の便利さ等によって分けることができるようになる。しかし,常に整理整とんを進んでやる習慣は,なかなかできあがらない。日常の生活において,よく整理整とんしてあるかどうかは,態度に関することであるが,整理したり,整とんしたりすることそのことは,一つの技術的能力である。
しかし,この整理整とんする能力は,注意深く正確に行動する態度や,みずから進んで究明する態度が高まることによって,高まる場合もあり,また,うまく整理整とんすることによって,それらの態度も身についてくるということがいえるであろう。
(3) 飼育・栽培する能力
低学年では,草花・野菜の種をまくことはできる。
苗の植込みのごく簡単なものはできるが,苗床から苗をとって植えかえる仕事はむずかしい。
いぬ・ねこ・うさぎ・ねずみ・にわとり等にえさや水をやることはできる。
かたつむり・きんぎょ・めだか・たにし等を飼うことができる程度である。
低学年のこどもにとって,動物や植物の世話を長期にわたり続けることはむずかしい。みずから進んでやるのは,芽の出たころ,花の咲くころ,子が生れたころ,新しく手に入れた当座等,特に興味をひく時期に限る。従って,飼育・栽培している材料を教師が注意して見守り,こどもたちを育てると同じ気持ちで管理しておかないと,材料のねうちを半減してしまうことになる。
このようにして,特徴のはっきりした時期に,こどもの関心をこれらに向けるように導き,やがて,こどもたちの手だけでうまくできるように導くことが望ましい。
高学年では,世話の簡単なものについては,草花・野菜の種まきから,開花あるいは収獲するまですることができる。
苗床から苗をとり,植えかえることもしだいにできるようになってくる。
また,いぬ・ねこ・うさぎ・ねずみ・やぎ・にわとり等に食物を調製して与え,動物小屋のそうじ等をすることができるようになる。
虫・かえる等野生の小動物を継続して飼うこともできるようになる。
高学年になると,ある目的(たとえば実証)のために,特別の条件を設けて飼育栽培をする場合が起きてくる。このような場合は、やや長期にわたって世話をする必要が起るが,ひとりのこどもが,長期にわたってそれらを観察したり,世話をしたりすることは困難である。グループを作って観察したり世話したりするようにすれば,この困難を緩和することができる。それでも長くなると,グループの全員が世話を忘れてしまうようなことがある。グループごとの交代制は,これを助ける一つの方法である。
(4) 機械・道具を使う能力
低学年では,移植ごてやはさみ等,筋肉をおおまかに使う道具の使用ができる。
簡単な操作による道具たとえば,温度計(2年以上)・レンズ・磁石・自動ばかり(2年)・ますなどを使うことはできるが,てぎわが悪い。
ビーカー・シャーレーのような薄いガラス器具を使うと,必ずだれかがこわしたりする。これは,低学年でこのような器具を使うのは無理なことを表わしている。
簡単な道具を使う速さは,初めはのろいが,練習によって速くなる。
機械や道具を使う場合には危険を伴うことがある。これは,あらかじめ気をつけてやらなければならない。初めて使う時に特に注意を要する。使い方については,はっきりと教えて使用したほうがよい場合が多い。
後からの反省では,わかりにくいことが多いから,使っているその場でふつごうを見いだし,指導することが効果的である。
高学年では,筋肉を細かく使ってする機械道具の使用もできるようになる。たとえば,ピンセット・さおばかり・てんびん・目もります・試験管・ビーカー・シャーレー等も使えるようになる。
また,やや複雑な操作による機械や道具,たとえば,顕微鏡・幻燈機・望遠鏡・湿度計・雨量計・小型なモーター・アルコールランプ等の使用もできるようになる。
どういう場合に,どのような機械や道具を使ったらよいかと改めて聞けば,わかっているこどもも,いざ仕事をする段になると,解剖ばさみで針金を切ってしまうような場合を見かける。このようなことをなくするには,初めの企画をしっかりたてさせ,必要な用具を整えさせておくことがたいせつである。
機械や道具の使い方の善悪は,その結果に,はっきりと出てくる。そのような場合は,その場でその技術を練習させることが望ましい。
(5) 工作する能力
低学年では,風車・ささぶね・どんぐりごま等の簡単なもの,おおざっぱなものならば工作することができる。しかし,てぎわよく作ることはできない。
あきやすいから,長時間かかるものはやりとげられない。従って,大きさや材料に注意して,無理なくできるようなものを作らせるように導くことが望ましい。そして,完成の喜びを味えるように指導すべきである。
高学年では琴・笛・機械の模型(風向計・日どけい・モーター・電信機等)・家の模型・写真機・望遠鏡・模型飛行機・船等,やや精密なもの複雑なものも作れるようになる。そして,時間のかかるものも,継続して作ることができるようになり,またてぎわよく作れるようになる。
個人製作のほかに,グループによる製作も,かなりうまく進めることができるようになる。
工作する場合,とかく危険が伴いがちであるから,じゅうぶん気をつけて,予防に努める必要がある。
(6) 資料・材料を使う能力
資料や材料を集めることは,これらを使うためである。
適材を適所から適量選んで,目的にかなったように処理することを考えると,相当程度の高い能力であるということになる。
しかし,この一部は,前の工作する能力や,資料・材料を集める能力や,整理整する能力に含まれるものもある。
低学年では,紙・きびがら・粘土・木の実・花など簡単な道具で扱える材料を使用することができる。
また,材料を色・形・硬さ等に応じて使いわけることはできるが,外から簡単に見分けられないそのものの性質に応じて,自分で使いわけることはむずかしい。
物を外見だけで見分ける程度であるから,薬品を使うことはできない。
資料を使いこなすことは,まだむずかしい。
工作材料などにおいて,この能力を高めていくことが有効である。
高学年では,木・金属・布など簡単に細工しにくい材料も,使用できるようになる。また,セロファンの湿り気に対する性質のように,外から見ただけでは簡単にわからない性質も考えに入れて,材料を使い分けることができるようになる。
取扱にあまり知識と技術を要しない材料なら,たいてい使うことができるが,まだ,危険な薬品・材料等を取り扱うことはできない。小学校では,このような危険な薬品や材料を教師がこどもの前で使ってみせることも,なるべく避けたほうが安全である。
参考資料として,参考書や統計や記録などを,しだいに使うことができるようになる。しかし,これを使うのに困難を感じる場合がある。何を求めようとしているのか,また,その資料の中のどれだけとればよいのか,それからどういうことが考えられるのかなどの指導を忘れてはならない。
こどもたちは,適材を使うことは,ある程度考えられるが,適量ということは,なかなか困難である。従って,学習中,または学習の終ったときなどに,よくこのことを反省して,しだいに物を適量使うように導くことがたいせつである。
(7) 記録・図表を作る能力
低学年,特に1年のこどもは数だけの記録,または符号を使った記録からはじまり,だんだん単語を使った記録ができるようになる。たとえば,あさがお・かぼちゃの花の数,種をまいた日時,芽が出た日時,雨の日・晴の日の符号,動物の食べ物の名,比較した大小の記録などである。
2,3年になると,簡単な文章による記録ができるようになる。特に3年ごろになると,かぼちゃ・おたまじゃくしの絵日記など,絵と文によって,丹念に記録するようになる。
しかし,興味の持続する時間が短いから,長期にわたる記録はできない。
植物成長の絵やグラフ,かいこの成長の絵やグラフ等,図表を作る場合,おもに絵を用いることが多い。
3年になると,簡単な棒グラフを作ることができるようになる。低学年では,記録や図表を作ることに相当の努力を必要とするから,進んて図表を作る興味をもつまで,そのできばえについてほめるなど,奨励の方法をとることが望ましい。
また,興味の持続をはかるには,自分の作品を時々見せたり,友だちの作品を見たりする機会を多くすることが効果的である。
高学年になると,要点をとらえた適切なことばで,精密な記録ができるようになる。この中に,実物の写生図を加えることもできる。また,長期にわたる記録もしだいにできるようになる。
気象観測や,いねの一生などの記録では前の記録と比較して,それと違っていることを記録することもできるようになる。
また,太陽の高さと影の長さ,一株のいねの茎の数と1本の穂についたもみの数などの二種の数の関係を示す図表も作ることができるようになる。
高学年では,記録の正確さや,どのような形式を用いて記録したほうが効果的であるかなどが問題になる。従って,これらを研究する機会(たとえば発表会など)を開いて,適切な表現のくふうをさせることが必要である。このとき行われる記録や質問によって,新しいくふうも生れてくる。
2.態度の発達と適用
日常生活を科学的に処理できるためには,単に科学的な原理や方法を知っているだけではふじゅうぶんで,科学的な態度や習慣が身についていて,はじめて実践できるようになる。ここでは,習慣・興味・態度・鑑賞を一括して態度に含めて,それらの発達の概略と指導上の留意点について述べよう。
しかし,これについての詳細は今後の研究に待たなければならないものが多いと思う。
こどもたちは自然に放っておいても,身のまわりの事がらに興味をもつものである。しかし,新しい方面に興味をもたせること,また,より深く持続的な興味を起させることは,指導の力にまたなければならない。指導が成功したかどうかを何で評価するかという場合,実にこの興味のもち方が広くなったか,深くなったかで見ることができるとさえいえるほど,たいせつな要素になる。
A.興味をもつ環境の広がりについて
低学年では,自分の直接経験する範囲,たとえば家庭・学校・近所その他行ったことのある場所以外には出ない。
高学年では,直接経験する範囲を越えた所,たとえば日本・世界・宇宙等に及ぶようになる。
B.興味をもつ対象
自然環境と社会環境について,低学年でも高学年でも前者に対し後者よりも多く興味をもつ。しかし,高学年では,後者に対する興味の傾向がだんだんと高い率を示してくる。
低学年では,植物よりも動物に興味をもつ。
また,動物植物の生活に興味をもち,外から直接見えない内部的な構造・はたらき等に対しては,高学年になって,はじめて興味をもつようになる。
低学年では,自然物やおもちゃに興味をもち,学年が進むにつれて加工した物に興味が向く。
これらは,ごくおおまかな傾向であるが,より多くのものが興味をもつものを学習の対象として取りあげることもたいせつであるが,新しい方面に興味を感ずるように指導することを忘れてはならない。
(2) みずから進んで究明する態度
低学年では,その事物の名称などを好んで聞き,個々の物をなぜかと断片的に聞きたがるところに,この態度が芽ばえている。この芽ばえは発達して,動くおもちゃの動くしかけを自分で調べたり,動物や草木の生活を楽しんで,自分から観察したりするようになる。
高学年のすぐれたこどもでは,興味のある問題をもつと,聞いたり読んだりして,一応の解決ができても,さらに自分自身で研究したり,ためしてみたりして,納得のいくまで確かめようとする。
こどもたちが自主的に,みずから進んで究明しようとする態度をもつことは,教育全般を通じてたいせつなことであるが,これを伸ばすには,どこまでも,問題を自分たちの力で解決したという自覚をもたせるように心がけることが肝要である。そのためには,教師の助力は目だたないようにする苦心がいる。
いろいろな意見を述べたり,いろいろな解決を試みたりはするが,最後の断定は教師がするものだというような印象を与えるような結果にならないことがたいせつである。ほめることが,この態度を伸ばすのによいと一般にいわれていることを忘れてはならない。
(3) 協力する態度
低学年のこどもは自己本位で,他人と協力することは少ないが,砂遊びのように材料が豊富で,興味が同じ場合には,少ない人数の者と短い時間協力する。
高学年になると,観測・飼育栽培・製作・劇化・実験などに協力して仕事をしようとする傾向が著しくなってくる。
本来,こどもたちはひとりで遊ぶというよりも,グループで遊ぶことに楽しみを感ずるものである。
この本性をうまく指導したら,感情的にも,すべての人々と協力する態度が自然についてくるはずである。興味を同じくするものとか,利益を同じくするものの間だけの協力にとどまらないで,広く人々と協力する態度が身につくようにありたいものである。
(4) 批判的な態度
低学年のこどもは主観的な態度の多いのが普通であるが,批判的な態度の芽ばえの見えるのは,次の点であろう。美醜・長短・明暗・形状など外から見てわかる物の性質,あるいは行為の結果。
高学年のこどもは,実験のしかたの適否や結論の正否,結論に達するまでの考え方など抽象的なことについても批判するようになる。
3,4年生のころになると,理の通らない理屈をふりまわし,批判のための批判に終るような傾向をもつようになることがある。しかし,それが理の通らない理屈であるとわかるには,やはり期間が必要で,やがて,その期間が過ぎると,それが理屈であるかどうかを見分けることができるようになってくる。従って,別の通らない理屈が横行する時期には,ある程度押えつけないで,むしろそれなりにも意見が述べられることにたのもしさを見いだし,それがどれだけの事実や証拠をもとにしているかを問題にするようにしむけて,正しい批判的態度を伸ばしていくようにする注意がたいせつである。
(5) 事実を尊重し,実証する態度
低学年のこどもは親・教師などのいったことを信頼する傾向があるが,これはすべてのことについてではない。少なくとも自分で経験したことについては,事実を尊重する態度が見られる。また友だちが,自分がすぐ信じられないことをいったときに,「それでは,やって見せてくれ」とか「その物を見せてくれ」とかいうことがよくある。これは実証する態度の現われである。
ある1年生の教室で「お月さまは昼間も見える」とひとりのこどもがいい出した。すると,他のこどもが「お月様は夜だけしか出やしないよ」 といってきかない。はては,このことをきっかけとして,気の弱い前の子がべそをかきはじめた。この時,他のこどもが「それでは,昼間見えるか見えないか見てみよう」と提案した。
これなどは,ごく簡単なことであるが,この態度の現われといってよかろう。
また,ある2年生が「消防自動車にも6輪車のがある」というと,ひとりの子が「そんなのはない」といいはってきかない。「しかし,ぼくはちゃんと見たんだ」という。そこで,どこで見たかが問題となり,その場所へ出かけていってみることになった。
この例は,実証する態度が何も理科の学習に限らないで,日常の生活態度として望ましい態度であることを示してくれる。
学年が進むにつれて,事実を尊重し,実証する態度が目だってくる。ことに討論の結果,意見が食い違ったような場合,または自分のしたことや考えたことが,他のものと違っていると,それを確かめようとする態度が強く現われる。
また,資料や他人の話をうのみにしないで,その正確さを問題にするようになり,科学的方法に確信をもつ態度が芽ばえてくる。
(6) 専門家の意見を尊ぶ態度
低学年のこどもは,両親や教師など年長者の話を尊重するが,これは自分の経験しないことについて専門家の意見を尊重する態度の現われと見られる。
学年が進み,自分のもつ問題が複雑になるにつれて専門的知識の必要を感じ,ますます専門家の意見を尊ぶようになる。
「隣のおじさんがこういった」とか,「おとうさんがこういった」とかいうことでは,他のこどもは,もはや信用しなくなる。たとえ,両親や教師のいったことでも,それがどのくらい実証的であるかということを考えるようになってくる。
また,実験をしても,まちがった説明を引き起すことをしばしば経験する。このような経験から,信用のおけるものは,専門に研究している人の意見だということがわがるようになって,専門家の意見や,専門の本(教科書)によって,自分たちの結論が正しいかどうかを吟味するようになる。
しかし,科学者の意見も,まだ仮説の域を脱しないもの,または対立しているものがあること,新しい理論によって,次々に変えられていくことがあることなどが理解されるにつれて,いっそう専門家の意見を尊ぶようになる。
(7) 迷信や宣伝にとらわれない態度
この態度は,批判的な態度とまったく別な態度ではなく,むしろその特別なものと考えられる。迷信は人の判断の弱点に侵入するものであり,宣伝は判断をことに誤まらせるように行われる傾向がある。そのため,これらにとらわれないためには,特に鋭い批判力が必要になる。
低学年のこどもは,物珍らしい宣伝や注意を引くようなおもしろい迷信は,それが事実かどうかも確かめないで,興味をもってすぐ覚えてしまい,それにとらわれる傾向がある。
高学年になると事実を事実としてうけいれられるようになり,批判的な態度もできてくるので,宣伝や迷信にすぐにのせられないで,一応よく考えてみてから事実であるかどうかをみきわめるようになる。
このような態度がしだいに身につくようにするためには,学年が進むにしたがって,物事の説朋として魔術とか魔力とかを用いないこと,自然力を説明するのに,擬人化するような方法を用いないこと,単なる憶測や推測で説明することをとりあげないこと,より多くの証拠を求めるようにすること,資料をうのみにしないで,その正確さを問題にすること,科学者の方法や結論に信頼を置くようにすること,などに注意して導くことがたいせつである。
(8) 新しい考えをとり入れる態度
低学年のこどもは,友だちがやっていることのまねをする傾向がある。
学年が進むにつれて,人に聞いたり,本で読んだりして,いろいろ新しいことを取り入れるようになるが,一度ある事がらに納得がいくと,それを固執して新しい説明をうけ入れない場合も出てくる。
いままでにとれていた知識の調和に,新しい内容をつけ加えたり,またはこれとまったく違うことが起ったりしたときも,確かな解釈によって,古い考えを改めて,新しい考え方をとり入れるようにしむけることがたいせつである。古い考え方を固執すると,そこには偏見的な態度が生れてくる。
自然現象の中には,科学者によって,じゅうぶんに説明されていないことも多い。また今日,科学者によって説明されていることも,将来,訂正され,もっと進んだものになることもあろう。
この新しい考えをとり入れる態度は,日常の生活態度としてもたいせつなことで,この反対な態度として,がんめいということがいわれる。
(9) 道理に従う態度
低学年のこどもは,自分の信じたことを固執し,守り通そうとする態度をもっている。しかし,この自分て信じたことは必ずしも道理とはいえないで,自分の利益に直接関係のあるものや,自分の感情に支配されているものが多い。それは,鋭い判断力がないため,正しい道理がつかめないことにもよるのであろう。
高学年になると,理性が発達してくるので,道理をみつけ,これに従う態度が強く現われてくる。自己の利害に反することでも,理屈が合っていれば,それに従うようになる。
(10) 計画的に行動する態度
低学年のこどもは,その場その場で,単純な計画をたてる。2,3年のこどもは水車や風車をつくるのに,何をどういう順序で用意したらよいかぐらいは計画できる。
高学年になると,問題をもつとともに,見通しをつけて予定をたて,計画的に行動して解決しようとするようになる。たとえば,どうやってせっけんを作るかというような問題をもったとすれば,実験をしてみたり,工場を見学したりすればよいと,見通しをつけて実験や見学の予定をたて,計画をして,行動するようになる。
ある狭い範囲内での計画から進んで,広い範囲にわたって計画をたてるように導くと,それが,やがて,日常の生活態度におよび,常に計画的に行動するようになる。
(11) 注意深く正確に行動する態度
この態度は,物事を失敗しないでやりとげたいと思う場合に強く現われてくる。
低学年のこどもが,コップにいっぱいはいった水を,実に細心の注意をしながら運ぶのを見ることがある。しがし,このような慎重な態度は,低学年のこどもでは,ことに個性によって大きな差がある。また,この態度はあっても,する仕事がこどもにとってむずかしすぎたり,長い時間を要するものであるときには,現われるはずはない。
高学年になるに従って,思考は細密になり,注意深く正確に行動することができるようになる。
この態度は,実験や観察の学習活動の場合に多く見うけられる。注意して熱したり,正確に温度をはかって記録したり,飼育栽培をできるだけ注意深く正確に行ったりするときに見られる。
(12) 根気よく物事をやりとげる態度
この態度は,低学年では,こども自身が直接に強く必要と興味を感じる仕事をする場合に限られている。しかし,それも比較的短かい時間に限られ,一つの事に長時間,注意力を集中したり根気のいる仕事をしたりするときには,この態度がもち続けられない。
高学年になると,理知が発達して,仕事の完成の意味や喜びがわかってくる結果,問題解決の途中に興味の少ない仕事があった場合にも,なお根気よくやりとげようとする。
この態度は特に高学年に多く現われる傾向がある。
(13) 余暇を利用する態度
低学年のこどもには,余暇と仕事の見分けがつかない。こどものしていることの全部がむしろ楽しい遊びである。従って,自分で余暇を利用しようとは考えない。
高学年になると,仕事と余暇の見分けがついてくる。労働や1日の決まった仕事はできるだけ早く片づけて余暇をつくり,これを利用することに喜びを感じるようになる。
これには,計画的に行動する態度が伴って,はじめて,よい余暇利用の態度となる。
(14) 健康で安全に身を保つ習慣
低学年のこどもは,両親や教師のいったことを守って,理屈を考えないで健康安全に身を保つ方法を実行することが多い。しかし,この実行は,ひとりではなかなかできにくいことで,習慣にまでならないで終ることが多い。それで指導者が常にくり返し注意し励まして,習慣を作るようにしなければならない。
高学年になると,なぜこうしなければならないかというわけがわかって,みずから努めて,健康安全に身を保つ習慣ができる。
一般に,低学年では行動から行動へという導き方をとり,高学年になると,思考から行動へという導き方をとるようであるが,この二つの導き方がうまく調和がとれ,低学年でよい習慣がついていれば,高学年になって,さらに新しいよい習慣を身につけることが楽になる。
(15) 自然に親しむ態度・自然の美・調和や恵みを感得する態度
自然の環境はこどもに,美しさを感じたり,調和を見出したりするのに最もよい機会を与えている。
花・虫・魚・鳥・星・空・風等について,美しい色・美しい光・きれいな声・よい香など,数限りなくある自然の物や現象がこどもたちの美しい情緒を育てあげている。
このような環境の中にあって,まだ主客未分化な低学年のこどもたちは,自然の物を友として遊んでいる。
高学年になると,自他の区別がはっきりできて,自然物を自然物としてみるようになる。この時,自然の美しさや調和を直接感じることのほか,自然の物や現象の間の関係を理解するようになり,理知を通じてもまた,いっそう自然に親しむ態度は深くなる。花と虫の関係,太陽の生物に対する恵み,天体の秩序正しい運行等を学習する場合によく現われる態度である。
(16) 生命を尊び生物を愛育する態度
低学年のこどもがうさぎ・にわとり・きんぎょなどにえさをやることを好むのや,自分でまいた種が気になってたまらなかったり,自分で飼育し,栽培しているものに理屈なしに強い愛着を感じたりするのはこの態度の現われである。この態度を養うには,この年ごろから,このような飼育・栽培を始めなければ,なかなか困難である。
高学年になると理知が進んでくるから,おとなの助けを借りなくても,自分の手ですすんで動植物の世話ができるようになる。また,げんごろうときんぎょとを一つの器に入れておいて,げんごろうがきんぎょをいじめると,きんぎょに同情して,別々に分けてやるようなことをする。
(17) 科学を尊ぶ態度
低学年のこどもは,はっきり科学という認識をもってはいないが,自分で納得して得た知識を尊ぶ様子が見られる。(例,きんぎょを小さい器にたくさん入れると死ぬから,数少なく入れるなど)
高学年になると,読書力・理解力が進むために,科学者の発明発見の物語りを喜び,あるいは科学の人生に与えた貢献に感歎する態度が現われる。
(18) 新しいものを作り出す態度
こどもは,低学年のころから独創力のたくましいものであって,木の葉を丸めてキャンディだと考えたり,たでのつぼみが赤いごはんになったりするように,おとなでは思いも及ばないくふうをする。また,新しい遊び方を考えつくこともある。これらは新しいものを作り出す態度の現われである。このようなくふうをすることはこどもの遊びの生活の本来の姿であって,くふうすることに喜びを見いだしているのである。
高学年になると,生活に便利なもの・つごうのよいもの・役にたつもの等何か有益な目的をもって,新しいものをくふうしようとする態度が見られるようになる。
新しいものを作り出す態度は,原理を応用する能力が高まるに従って,進んだものを考えつくようになる。
(19) 科学を日常生活に応用する態度
この態度は,科学的な原理を日常生活に応用するという意味である。科学的な方法を日常生活に応用するということは,いままでに述べた他の態度のいろいろなところに含まれる。
低学年のこどもでは,一度学習したことのある草花の世話のしかたや,重い物を運ぶ時に車を使うことなどを,日常生活に応用することが見うけられる程度である。
高学年になると,科学を日常生活に広く応用するようになる。特に,家庭生活の面で,腐りやすい物を涼しい所におくとか,さびやすい金物の面は,水気をよくふいて油を塗っておくなどの場合に,この態度が現われてくる。
3.理解の発達
こどもの理解の発達を調べるには,どんな事がらについて調べるかが問題になるであろう。
理科の理解の目標として本書にとりあげられているおのおののものについて,各学年のこどもがどのような発達を示すかを知ることができれば,理科教育上非常によい資料になると思う。わたくしたちの手で,この調査ができていないのは残念である。この欠点を補うために,理科に関して基本的な観念を10ほど選び出して,これについて,東京都内および近県の一二の小学校で調べた結果を次に述べることにする。わたくしたちは,これが完全なものであるとは考えていない。むしろ,これを出発点として,全国で広く深い研究が進められることを期待している。
理解の発達について,一応の結論をうるためには,なお広範囲にわたる幾多の調査が必要となるであろう。
この調査の結果は,だいたい次のような方法によって得られたものである。
(2) 1年生に対しては,教師または6年生によって,個人的に質問し,口で答えたものを記録した。2年生以上は問題を与え,筆答させた。
(3) 予備調査を除き,本調査をした人員は各学年1学級(40〜50名)でる。
a.水についての理解
高学年では「器によって形が変り,特別な形をもっていない。少量の時には球になる」と考えている。
(2) 手でさわった水の感じについては,低学年・高学年とも,「冷たい」と感じるに過ぎないのが大部分である。
(3) 暖めた時にはどうなるか。
低学年では「熱くなる,お湯になる」と答え,高学年になると,その上に「水蒸気になる,蒸発してなくなる」と,いわゆる「水の状態の変化」を理解するようになる。
(4) 用途については,低学年では「せんたく・のむ・ごはんをたく・花にやる・火事を消す」と,身近な現象に限られている。高学年になると「発電・農業」と用途が広がり,また「のむ・ごはんをたく・花にやる」が「生きるため」と理解が深まる。
(5) 所在については,低学年では「水道・川・海」であるが,高学年になると,その上に「地下・空中・生物の中」と理解が増し,かつ大いに組織的になる。
b.光と影についての理解
(2) 光を出すものについては,低学年・高学年ともに大部分のこどもは「燃える火・電気・月・太陽・ほたる」以上に出ない。
(3) 光を鏡にあてるとどうなるかの問に対しては,低学年は「光る,まぶしい」と答え,高学年ではその上に「反射する」と答えている。高学年では,このことばの理解が進んだものと考えられる。
(4) 光をレンズにあてるとどうなるかの問に対して,低学年では「紙が燃える」ことを知っているものが一部であるが,高学年になると,大部分はこれを理解しており,さらに「像ができる,焦点に集まる」ことも知っている。
(5) 暗い所で物が見えないわけについては,(1)で述べたのと同じく低学年では「電気がないから太陽がないから」と光源の有無のみを考え,高学年では「光がないから」と光源と離れて光を考えている。
c.太陽についての理解
(2) 形については,低学年・高学年を通じて「まるい」と考えている。5,6年になると「どろどろしている火をふき出している」などの知識が理解に加わる。
(3) 「太陽の光にあたると,暖いのはなぜか」の問に対して,低学年では「燃えているから」と答え,高学年では「熱があるから」と考えている。
特に6学年では「熱がくるから」と考えているものが多くなる。
(4) 太陽の恩恵について,低学年では「洗たく物がかわく」「明るくしてくれる」と考え,高学年では,その上に「ばいきんを殺す」「からだがじょうぶになる」が加わる。
d.月についての理解
(2) 形については,低学年では「丸い」と答え,高学年では,その上に「満ち欠け」の変化も理解している。
(3) 色については,低学年では「黄色」と答え,高学年では「岩の色」「反射は黄色で,実際はわからない」など,遠くから見た場合の色と,実際の月の表面の色とを区別して考えている。
(4) 月にうさぎはいるかの問に対して,1学年では,「いる」と答える者と,「いない」と答える者とが半しているが,2学年から上になると「いる」と答える者が急に減る。
(5) 月の影響については,低学年でほ「明るくする」と考え,高学年では「日食を起す」「潮の満干」の理解が加わる。
e.星についての理解
(2) 形について,低学年では,いわゆる「星型」と答え,5,6年になると,「丸い」とか「太陽と同じ」とかと理解している。
(3) 色について,低学年では「黄色」と答え,高学年では「銀色」「白」が加わる。
(4) 大きさについて,低学年では「わからない」ものが多く,高学年では「大きい」「地球より大きいのも,小さいのもある」と理解している。
f.空についての理解
(2) どんなことが起るかの問に対し,1,2年では「雨が降る」「雪が降る」3,4年では「あらし・雷」が加わり,5,6年では「月食・日食・流星」などの「天体現象」および広く「気象現象」の起ることを理解している。
(3) 広さについては,上の(1)と(2)とから考えると,低学年では「雲・雪・雨」等,気象現象の起る範囲を空と考えている。高学年では,その範囲は「星の世界」まで広がっている。
g.空気についての理解
(2) 所在については,1年でも半数ぐらいは,このあたりにあると考えているが,わからないものも相当ある。4年ぐらいになると,ほとんど総てのこどもが,どこにでもあると答える。地球の表面にあるという答えも3年ぐらいから少しずつ現われ,6年になると,ほとんど全員が地球上ならどこでもと考え,その所在が確実になってくる。
(3) 暖めるとどうなるかの問に対して,5,6年では「ふくれる」ということがわかる。
(4) 縮めることができるかの問に対し,1,2年では「わからない」と答え3,4年では「縮められない」と考え,5,6年では「縮められる,もっと縮めると破裂する」と答えている。
(5) 低学年では,風と空気とを別なものと考えているこどもがかなりある。この傾向は3年ぐらいまで残るが,4年以上では,気体という立場で,他のガス体と同じように空気を考えている。
(6) 呼吸と空気と関係のあることは,1年では,まだ結びつかないものがかなりあるが,3年以上では,よくその関係をつかんでいる。しかし,空気がないと死んでしまうということは,低学年からもよく知っている。
h.火についての理解
(2) 用途については,大部分「煮る,焼く,湯をわかす,暖まる」などと答えている。
(3) 燃えるということは,どういうことかの問に対し,低学年では説明ができない。高学年では「ほのおの出ること。灰になること。熱くなること煙が出て赤くなること」など,現象の分析ができるにすぎない。
i.熱についての理解
(2) 所在について,低学年では「ひたい」あるいは「太陽・火」4,5年では「からだ・太陽」と答え,6年では「地球の中心」「電気」がこれに加わる。
(3) はかり方については,1,2年では「体温計」と「手」3年以上では「温度計」と「体温計」と答えている。
j.電気についての理解
「どんな機械や器具に電気が使われているか」いろいろな機械や器具の絵を見せて解答させると,低学年では,ガスランプ・アルコールランプなどの火を電気と関係があるとするものがあるが,この考え方は3年ぐらいまでに急速に減り4年以上では,ほとんど電気と火とは区別して考えている。
(2) 電燈のつく理由については,1年では「電線がある」「スイッチをつける」「電球がある」などと器具があることを理由とするこどもが多い。
3年ぐらいになると,「電気がはいってくる」「電線でくる」など,何か特殊なものが線を伝わってくるというように考えている。
5,6年になると,電気が細い線を通ると光るというように,本質的な理解に近づいてくる。
(3)「電気とはどんなものか」の問に対して,低学年では「暗い時につけるもの」というように現象的な面から考えているものが多いが,3,4年では光とか,人間のために使うものなどという答が多く,高学年になると「光や熱を出す」「+と−とがある」などという答が多くなる。
k.音についての理解
(2) 何から出るかについては,1,2年では「鐘・太鼓・器械」と答え,3年以上では,その上に「楽器」が加わる。
(3) 聞こえるわけについては,4年までは,「耳があるから」と答え,5,6年では「空気の振動が伝わって耳にはいる」と考えている。
1.動物の類別について
「動物にはいろいろな種類がある」という理解の目標がある。このような種類というものを,こどもたちはどのように考えているかということを,身近な動物の絵を見せて仲間分けをさせてみると,低学年では,獣・鳥・虫などという概念で種類分けをするこどもは比較的少ない。
これに反して,形態の一部の特徴や著しい習性の一つをとりあげて仲間と考えるのは低学年に非常に多く,高学年に進んでも,この考え方は少なくない。たとえば,海にいるもの・水の中にいるもの・飛ぶ・泳ぐ・木に登るなどの表現を用いている。
注意すべきことは,1年生には仲間という概念がはっきりしないので,「はととすずめ」「にわとりとあひる」というように一対のものをあげる傾向が強い。これは飛ぶものと歩くものの一対の仲間のつもりかもしれない。
この場合「はと」と「にわとり」とは別の仲間と考えているものが多い。しかし,「うさぎとかめ」のような話などに出てくる動物を結びつけて仲間と考えているものもあることから考えると,絵本などで一対になっているものを見た体験が影響しているかも知れない。
高学年になると,かなり形態の全体をとらえるようになるが,はちゅう類のような仲間の概念はあまりはっきりつかんでいないようである。
虫の概念は,低学年では,獣・鳥・魚・貝などの外は一括してみな虫と考えているが,高学年でもこの傾向がまだ残っている。