第1章 理 科 の 目 標

 

Ⅰ.科学とは何か

 小学校の理科教育を行うにあたっては理科の根本になる科学について,しっかりした考えをもっていなくてはならない。

 わたくしたちは科学というと,物理学や化学や天文学・生物学・生理学などの学問の体系や,また,それらの学問の応用されたいろいろな物事を思い起し,非常にむずかしいもの,近づきにくいものと考えやすい。しかし,このような学問上の理論や,体系や科学の成果として生れた文明の利器が科学なのであろうか。

 

 1.自然現象の事実

 

 この父親は,動物学の本に書かれたかえるの発生を,そのままうのみにしてしまって,こどもがすなおに観察したかえるについての事実を無視してしまったのである。

 このような取扱を受けたこのこどもは,まちがいのない事実,言い換えれば自然現象における真実というものを,どういうふうに考えるであろうか。

 父親が狭い科学的な知識をふりかざして,こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りであると決定したのである。この父親は「いついかなる場合にも,自然現象には誤ということはあり得ない。」ことを忘れているものである。

 この自然現象を人が解釈する場合に,人の解釈が誤っていることは起りうることである。科学のことを考えるにあたって,まず第一に重要なことは,この自然現象の真実とは何かを,はっきりわきまえることである。

 

 2.科学の客観性と普遍性

 わたくしたちが自然現象として一つの事実にぶつかった場合に,この事実をどう受けとるかを考えてみることにしよう。

 

 

 わたくしたちも,このこどものように,身のまわりに起ったいろいろなできごとに対して,「これはなぜだろう」と思うことがよくある。そうすると,なんとかして,この問題を解決したいと思い,これまでのいろいろな経験をもとにして考えてみる。

 ところが,それではわからない場合が多い。そうすると,ある予想をたてて,いろいろと実際にためしてみる。ためした結果が問題のよい説明にならない場合には,また予想をたてなおして,またためしてみる。そうして,この疑問にしていた事がらがよく説明されるようになると,はじめて納得がいくのである。

 わたくしたちはこのようにして,自然現象について,自分に納得のいく解釈を下して,はじめて満足できるのである。この解釈が自然科学的な知織である。自分に納得がいったのであるから,この人の頭の中で矛盾のない,調和のとれた一つの自然科学的な知識の体系ができているはずである。

 しかし,この知識の体系は科学としては一つのそぼくなものといわなければならないであろう。さらに,いっそう進んだ,あるいは完全な科学となるためには,納得のいった主体である自分を検討しなければならない。この主体である自分が,単なる一個人限りのものであると,実は科学とはいえない。ここで納得のいったものも,ひとりよがりにすぎないということになる。ひとりよがりでなく,多くの人が判断しても同じ結論が得られるものでなくてはならない。ということは,多くの人の経験した事実にも矛盾しない解釈が下されているということになる。

 これは,科学が主観的なものでなくて,客観性のあるものだといわれることである。また,条件が同じであれば,常に同じ結果が,どこでも,いつでも得られなくてはならない。これか科学の普遍性といわれるものである。納得のいった解釈が,この客観性や普遍性をもっているならば,このような解釈で築きあげられている知織の体系は,完全な科学ということができる。

 

 3.こどもの科学

 科学をこのように,だれにでも納得される知識の体系と考えると,わたくしたちにとって重要な考えが一つ生れてくる。それは,こどもたちは,それぞれの発達の段階において,ある科学を持っていると考えられることである。

 

 

 このように,こどもの知識の体系は,たんだんと発達していくことは,だれにでもわかることである。

 7才のこどもが満足するかえるの発生についての答では,15才のこどもたちは満足しない場合があるに違いない。7才のときの知識の体系よりも,15才になった場合の知識の体系のほうが,より発達したものになっているに違いない。

 科学をこのように,そのこどもの持っている知識の体系と考えることは,おとなや科学者の持っている科学と本質においては変りはない。科学者でも,このこどもたちと同じように,自分の経験や知識では解決されない事がらに問題を持ち,予想をたてて実験を試み,事実と照し合わせて,一つの理解に達するのである。そして,科学者の最も進んだ業績でも,新しい経験を積めば,また訂正されるのである。

 わたくしたちが科学の歴史をひもとけば,このような事実を見いだすことは数えるにいとまがない。科学は常に進歩し,人類の持つ知識の体系は常に変ってきたのである。おそらく,「個体発生は系統発生をくり返す」ということは,このこどもから,おとなにまで,科学者にまで発達する知識の体系の場合にもあてはまるのであろう。

 こどもたちの知識は年齢が進むにつれて,広く,深くなるのであって,こどもの科学といわれるものは常に進歩すると考えてよいであろう。

 

Ⅱ.科学の人生における重要性

 1.こどものいだく心の不安定

 

 このこどもたちは,自分たちの飼っているかえるの発育の状態が自然のものに比べてたいへん劣っていることに気がつくと,「なぜ,こんなにやせているのだろう。」と疑問を起し,ふしぎを感じた。この場合,いままでの何等ふしぎを感じていなかった心の状態は,池の表面のように平静だったのであるが,そこに問題を感ずることによって急に波紋が生じたのである。

 池の波紋は時がくればだんだんおさまるが,人の心に起った疑の波は,ますます大きくなるばかりである。このような状態では気がかりで落ちついておられない。そして,なんとかして問題を解決したいと思うようになる。

 ところが,「池に放してやるのがよい」という結論が生れ,それが実際に行われると,この不安は取り除かれて,心はふたたび安定した姿をとりもどす。そこに,「ぼくもうれしい」というような満ちたりた心持になるのである。

 こどもはよく物事に「なぜ,なぜ」と質問をし,それに答えてやらないと,いつまでもせがんできかないが,納得のいく答を与えてやると,「ああそうか」と,すっかり態度をかえてしまうことは,わたくしたちのしばしば経験するところである。

 

 2.環境への適応

 このように,わたくしたちは,身のまわりの現象や物事について,いろいろの疑問を持つときには,わたくしたちの心のなかに,ある不安が起って何とかして解決したいと思う。これは,自分の住む環境にわけのわからない現象が起っているときの状態である。

 ところで,問題が解決された場合には,これまで持っていなかった新しい理が見いだされるのであって,この理が発見されると,すっかり満足した心持になるばかりでなく,この理をもとにして,新しく出会ってくるいろいろな問題を解釈したり,解決したりするようになる。つまり,新しく見いだされた自然の理(ことわり,筋道)をよりどころとして環境を見なおし,生活に筋道をたてるようになる。これが合理的な生活である。

 それだけではない。わたくしたちの環境への適応は,いろいろな自然の理を組み合わせて,新しいものを作りだすはたらきによっていっそう強められ,その結果は,生活を合理的に楽しく豊かなものにすることができるようになる。

 環境への適応は,ひとりひとりのはたらきとしても行えるが,力を合わせることによって,著しく高められる。昔から,多くの人たちの研究の結果として生れた現代の科学が,わたくしたちの生活に貢献しているのは,このようなわけからである。

 科学は,このように,人間が環境に適応しようとして生み出したものであるから,わたくしたちは科学を進歩させることによって,人間の生活をますます平和な豊かなものにするように努力すべきであって,科学を人間の生活を破壊するような方向に使うことがあるとすれば,それはまったくの誤である。それは科学本来の使命ではなく,科学の使い方を誤ったものといわなくてはならない。

 

Ⅲ.理科教育の重要性

 1.小学校教育の中の理科

 小学校教育の中で,理科がどのような使命を果さなければならないかを考えてみよう。

 理科の学習の本質は,日常生活における自然についての経験を組織的に発展させることである。すなわち,身のまわりに起るいろいろな現象や物事に疑問を持ち,これを解決しようとして,予想をたて,実際にためしてみて納得のいく知識を得,これによって生活に筋道をたて,これを応用して,さらに生活を豊かにすることにある。

 このような経験の発展をはかるためには,こどものそれぞれの発達の段階において,身近な現象について,正しく見,くわしく考え,適確にその現象に対処する能力を組織的に養うようにはかられなくてはならない。

 ところで,このような科学的な考察や処理が要求されるのは,自然環境についてだけではない。わたくしたちの日常生活のあらゆる面に,科学的に考察処理しなくては,よい生活をすることはできない。このような意味で小学校教育の目標を見れば,すべての目標に達するために科学的な考察と処理のたいせつなことがわかるであろう。

 学習指導要領一般編に示されたとおり,ここでも教育目標を,(1)個人生活,(2)家庭生活および社会生活,(3)経済生活および職業生活の三つに分けて考えてみると,次のようになる。

(1) 個人生活

(2) 家庭生活および社会生活

(3) 経済生活および職業生活

 経済生活および職業生活については,小学校教育では,それらの基礎になる初歩の段階にあるから,一般編に扱ってあるように分けて考える必要はないであろう。それで,著しく関係のあるものを抜き出してまとめてみることにする。

 〔各項目の後に添えた数字は,次に掲げる理科の目標との関係を示す。〕

 このような小学校教育の目標に照して,科学の基礎的な教育を図るのが小学校教育における理科の立場である。

 

 2.理科の目標

 前節において述べた理科の立場や科学の本質から,さらにいっそう整理して理科の目標を詳しく述べれば,次のようなものが強調される。

 以下,それぞれについて説明を加えよう。

 

 

Ⅳ.理科教育における理解と能力と態度

 前節に述べた七つの目標の中には,いろいろな形のものがある。

 たとえば,(1)は自然の環境についての興味を拡げようとするのであるから,むしろ,こどもたちの情意に訴えようとしている。こういうふうに考えれば,こどもの態度についての目標であり,(2)は科学的・合理的なしかたをねらっているのであるから,むしろこどもの能力をも含めて考えられている。また(3)においては,態度や能力ばかりでなく,生命や人間に対する科学的な知識や理解をも要求されていると考えられるであろう。

 このように考えてみると,これらの目標はいろいろな理解や能力や態度が混然として示されている。そこで,これらの目標を理解・能力・態度の三つに分析してみることが便利である。

 

 1.理 解 の 目 標

 理解というのは,自然現象や物事に含まれている筋道をつかむことであり,理解の目標として考えれば,自然科学的な真理の形で表わされるものである。このような理解はこどもの発達につれて深められるものであるが,これが発展すれば,わたくしたちの住んでいる地球や宇宙や生物や,また人間の地球上において発展展開してきた根本の理法にまで進むものでなくてはならない。そのような人間の自然についての根本的な理解の概念に到達するものとして,こどもたちに学ばせなくてはならない目標を考えてみる必要がある。

 次に掲げるもの(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,…,Ⅵ)は,このような立場にたって,こどもが何かを理解するために学習するときの方向を決めるものとして,まず第一次の分析をしたのである。

 このような目標は,どのような学年のこどもにも目標としてとることができる。いや,そればかりでなく,一生の間,目標として研究しつづけることも可能であろう。これは,学習の到達点ではなく,学習や研究の方向を示すものなのである。

 そこで,さらにこどもたちの直接の学習の到達点となるためには,さらに分析して考察する必要が生れるであろう。このような立場から,さらに第二次の分祈をして,理解の目標をいっそう具体化したものが1,2,3,…であるが,実際の指導にあたっては,さらに分析の必要のあることはいうまでもない。

 (付録Ⅰ.理解の目標 参照)

 

Ⅰ.宇宙は広大であって,そこには一定の秩序が保たれている。

Ⅱ.自然界には,絶えず変化が起きている。

Ⅲ.生物や無生物は多種多様である。

Ⅳ.生物は環境に適応して生きている。

Ⅴ.保健衛生上の注意は,人々の生命を安全にする。

Ⅵ.人は環境に適応する努力を続けた結果,その生活は進歩した。

 

 2.科学的な能力や態度

 こどもが理科の問題を解決する場合や合理的な生活を営むためには,科学的な能力や態度が必要である。このほかに,習慣や鑑賞や興味などを分けて指導の目標とする場合もあるが,取扱上複雑になり,また,分けないでも格別の不便もないと思われるので,これらは態度の中に含めることにした。

 教科書を読んだり,いろいろな参考書を読んだりする場合に,読みながら要点をつかむことの重要なわけがわかって,それに努めていると,だんだんにそれができるようになる。そして,一度このような能力が身についてくると,新聞を読む場合にも,人の話を聞く場合にも,その要点をつかむことができるようになる。このようなときに能力ができたという。

 一般に能力とは,一つの事態に熟練した結果,他の新しい事態に対する適応力のついた状態をさしていう。

 健康なこどもになるには,健康が社会生活を営む上にどんなにたいせつであるかとか,健康な身体というのは生理的にどんな状態にあるかとか,どんな場合に病気になり,また,その時の生理的なはたらきはどうなるかとかいうようなことがよくわかっていなければならない。

 このようなわけがわかってくると,こどもたちは,進んで健康な生活を営もうとする気持になる。このように,ある事態に対して現われる思考的・情緒的・行動的反応の傾向性をさして態度とよんでいる。

 また,朝は早く起きて歯をみがき,戸外に出てきれいな空気を吸い,勉強のときも食事のときも,よい姿勢でしようという努力を続けているうちに,それらがなんの苦もなくできるようになる。このようになったとき,習慣がついたという。態度のうちの行動的な傾向を特に習慣といっている。

 さて,このような能力や態度は,小学校のこどもとして,どのようなものが必要であるかを考えてみる必要がある。ここに,能力や態度の分析が必要となる。このような分析を厳密に行うことは非常に困難なことである。そこで学習指導要領の委員会では,取扱の便宜の上から著しく目だつものを抜き出してみることにした。

 ここに抜きだした能力や態度は,まったく厳密な区別のつくものではない。たとえば,事実をありのままに見る能力と比較観察する能力とは,まったく無関係に独立したものではない。しかし,また,全く同じものでもないであろう。ただ,事実をありのままに見ることもできなければならないし,比較観察もできなければ,科学的な問題の解決は望めないであろうと思われる。

 次に掲げる能力・態度は,このような立場から抜き出したものである。今後,わたくしたちはなお研究を続け,より科学的に能力・態度を分析するよう努力したいと思う。

 

A.能 力

B.態 度

 

 能力・態度・理解の発達 これらのこどもの発達についての知識を,指導の際どのように適用したらよいかということについては,第2章のⅢに述べることにする。

 以上に述べた能力や態度の分析されたものは,指導の目標とすることはできるであろうが,実際の指導にあたっては,少し大まかすぎて,特に効果判定などには,不便を感じることが多いであろう。この点は,理解の目標も同様である。そこで,さらに具体的な指導の場合には,いっそう詳しく分析してみる必要がある。これらの一例として,付録に,理解・能力・態度について,詳しく分析した例を掲げておいたから参照せられたい。これらの能力や態度の表は,不備な点が多いが,どんな場合に,また,どのような事がらについて,焦点をおいて向上させたらよいかを考える場合の手がかりとなれば幸いである。