単元による学習は,教師の指導が適切である場合には,多くの長所を発揮するから,大きな教育効果を期待することができる。けれども指導が適切でない場合には,種々な欠点が現われがちである。もっともこのことは,ひとり単元計画による指導の場合に限らず,どんな指導計画の場合についてもいえることである。しかし特に単元による指導では,ややもすれば固定した型に堕したり,生徒は断片的知識の獲得にとどまったり,種々な基本的能力や技能の指導が見のがされたり,およそ単元による指導の目ざすところと反対の結果さえも起ることがある。そこで次に,単元を指導する場合に教師として特に注意を要する点を附加しよう。
講義法の改善
単元による指導過程の中で,講義法も有効に利用される機会がしばしばあるはずである。元来,講義法はわが国だけに限らず,外国の多くの学校でも古くから用いられてきた。けれども長い時間にわたって,教師の形式ばった講義を黙って聞いていたり,教師のいうことを機械的にノートにとることは,生徒にとってたえられるものではない。また,このような方法によっては,生徒に自主的態度・批判的能力その他の発達を望むことができない。しかし一方,われわれは実生活において,形式ばっていても,よく準備された講義や講演を聞いて,得るところがある場合も確かに経験する。したがって中学校や高等学校の生徒に対しても,時にはこのようなものが有効なこともあるであろう。しかしそれは学校教育ではきわめてまれであることに注意しなければならない。
だからといって,教師は講義を行ってはならないと考えることは大きな誤りであり,これに関連して,教師のかわりに生徒に講義させることをもって,生徒の自主的活動と考えることもたいへんな誤解である。
指導の中で,教師が講義をする必要が起ることは当然である。けれどもそれは形式ばった長い講義であってはならない。むしろ,それは教師の話ともいうべきもので,途中で質問や討議などをはさんで,生徒がこれに参加する機会を与えたり,黒板・視聴覚教具などを利用した興味あるものであることが望ましい。それにこのような話をする場合にも,準備をじゅうぶんにする一方,有効な時期を選ばなければならない。一般にこれが特に有効であると考えられている時期としては(1)新しい単元へはいるに際して,(2)複雑な問題に筋道を立ててやる必要がある場合,(3)学習内容を広げるために教師が読んだことや経験したことを話してやる必要がある場合,(4)教科書に書いてないことを補充してやる場合,(5)広がった単元の内容を概括してやる時,などがあげられているが,この他にも具体的な授業にあたって,いろいろ有効な場合が出てくることであろう。ただ,あまりこの方法を主体とする時には教育効果を減ずるとともに,単元の目標の中には,この方法によっては達成できないものが幾つもあること,換言すれば,教師の話も,教授法の一つにすぎないことに注意しなければならない。
読 書 活 動
種々な社会生活について,生徒が実際に教育上有意義な経験ができる範囲はきわめて限られている。それでたとえば他地方や外国の生活・過去の生活その他に関する知識や理解は,おもに読書活動にたよらなければならない。したがって,社会科の学習にとって,読書活動は実に重要な地位を占める。社会科における読書活動は,すべての教科の中でおそらく国語に次いで重要視されなければならないであろう。
読書に関する指導は,国語だけが受け持つべきものとは考えてはならない。特に戦時中のふじゅうぶんな教育による生徒の読書力の低下の影響は,現在でもまだ社会科の学習に少なからぬ障害となっている。だから学習の効果を上げるためには,あらゆる機会をとらえて,生徒の読書力の向上に努めなければならない。ところで終戦直後,生徒の読み物に欠乏していた時期に比べれば,現在では生徒用の読み物もずいぶん増加した。しかし生徒が学習の目標を達成するために,これらのものを有効に利用できるようにならなければ何にもならない。
そこで社会科の学習のための読書の指導を有効に行うためには,まず第一に教師は信頼できる多くの読物を知らなければならない。ただ名まえを知っているだけではまだふじゅうぶんで,教科書をはじめそれらの書物にどんなことが書いてあるかをよく知り,必要に応じて生徒が読むべき個所を指示してやれなければならない。また生徒が進んで書物を読むように興味を起させてやることも重要である。これがためには学校図書館の充実も,各学校にとって急務であろうが,たとえ書物がしだいに豊富になっても,生徒にただ問題だけを課し,かってに書物をさがさせるようなことは,教師として不親切といわなければならない。
生徒が学習のために読書する場合には,以前にはその内容を記憶することに多くの力が注がれていた傾向があった。しかし,社会科の学習のための読書には,その他にも種々な目的のものが区別できる。そしてその目的によって読書のしかたも違わなければならない。そこで教師は,たとえば次に掲げるそれぞれの目的に従って,生徒が有効な読書活動ができるように指導する必要がある。
(2)その内容の中心思想をつかむため。
(3)著者の見解を裏付けしている事実を発見するため。
(4)ある疑問に対して解答を発見するため。
(5)学習している問題に関連のある事実や資料を見いだすため。
(6)事実の系列をつけるため。
(7)材料や見解が正当であるかどうかを批判するため。
(8)含まれている材料から正しい結論をうるため。
(9)さらに問題を発見するため。
(10)内容を記憶するため。
(11)楽しみのため。
以上は読書活動指導に際しての一般的注意事項であるが,戦後の教育において,教師が最も悩んでいることの一つは,教科書の使用法であろう。
戦前の教科書の内容は,ただ骨子が書いてあっただけで,これを肉付けしてやることが教師の重要な仕事であった。現在の教科書は,戦前のものとは性質が違って,教師の説明用ではなく,生徒が自分で読んでもよくわかるように,できるだけ平易に書かれており,しかも生徒の学習の助けになるように豊富な内容が盛ってある。したがって生徒はその内容を全部記憶しなければならない性質のものではないことは明らかである。
元来,教科書には,編者の見識によって最も適切と思われた教材が選ばれ,これがまた編者の創意によって,たとえ学校によって指導計画がいろいろに違っていても,最も利用されやすいように組織されていなければならない。したがって教科書の内容およびその組織と,指導計画とが一致することを望む必要はないし,一致していないのが当然である。
現在の学習は指導計画に基いて行われるものであり,教科書はその学習に際して利用されるものであることを忘れてはならない。しかも学習に際して利用されるべきものとしては,その他にも種々な資料があるが,生徒各自が持っている教科書は,最もよく利用されなければならないはずである。それに前にも述べたように,読書の種々な目的によって書物の利用法が違うことは,教科書についても当てはまることである。だから読書のしかたを指導する上にも,教科書はよく利用されなければならない。
教科書の利用法は,生徒の発達によっても違ってきてよいはずである。たとえば中学校の低学年の生徒に対して,学習する問題に関する事実や資料をはじめから自分で教科書から見いだすことを要求するのは多くの場合無理であり,読み方の練習や,読むべきページを指示し,これについて要約を書かせたり,口頭でいわせたりする指導から始めなければならないであろう。しかし中学校上学年生や高等学校の生徒に対しては,教科書が学習の目的ではなくて,必要な知識・態度・技能などを学ぶ道具にすぎないことをよく自覚させ,単元の学習を進めていく上に,必要に応じてこれを自分で自由に使いこなすことができるようになることを目ざして,指導すべきである。いずれにしても,社会科の学習の中には,教科書をよく読む,重要な事実や術語にアンダーラインを引く,読んだ箇所を要約する,新しく出てきたことばや術語の表を作ったりその意味を書く,人名・地名・歴史的事件の年代などの表を作る,統計表・図表・地図などを読んだり解釈する,その他の教科書を利用する活動の時間が含まれていなければならないはずである。
教科書の選択
上に述べたように教科書は,社会科の指導にとって重要な意味をもつ。これを正当に利用すれば,教育に経験の浅い教師でも,ともかく教科の目標に向かって生徒を指導していくことができる。「教科書中心の学習」の弊害がしばしば説かれてきたが,これは教科書が悪いというよりも,教科書の利用法が悪かったことが最も大きな原因をなしている。
さて教科用図書検定制度が開かれてから,社会科の教科書もしだいにその種類を増加してきた。しかし検定に合格した教科書でも,すべてがよくできているというわけにはいかない。そこで教科書の選沢は,社会科の指導の上にも大きな関係をもってくる。よい教科書としての根本的条件としては,次のようなことが考えられよう。
(ロ)よい教科書は,問題の意義が生徒自身によく理解できるように編修されていなければならない。このような教科書の助けを借りれば,教師は容易に生徒が問題と取り組むように指導することができる。
(ハ)よい教科書は具体的なものから抽象へと進み,反対に抽象から具体へと展開されていてはならない。すなわち教科書は,抽象的な原理・原則・理論の集りであってはならず,具体的の例から始まって,これからしだいに抽象的・一般的原則を引き出すように書かれていなければならない。
(ニ)よい教科書には,生徒の学習の助けとなる種々な種類の資料が含まれていなければならない。教科書には,地図・図・統計・グラフ・表・年表・目次・索引,各章の終りには問題やその他の生徒の活動,さらに研究しようとする場合に必要な資料・用語集その他の資料が含まれていなければならない。
(ホ)よい教科書は,教科書の内容に関する学習以外に発展するように編修されていなければならない。
外的要素 5.大きさ 6.ページ数 7.体裁 8.耐久性 9.紙質 10.文字・図版の鮮明度
組 織 11.教科書の題目 12.まえがき 13.目次 14.組織の企画 15.区分 16.要約 17.付録 18.索引
内 容 9.社会科の目標 20.政治や宗教について偏しないこと 21.問題のじゅうぶんな取扱 22.つりあいがとれた取扱 23.生徒への程度 24.正確さ 25.最新の材料
書き方 26.文章のスタイル 27.具体性 28.連続性 29.用語範囲 30.問題組織
図 版 31.図版の数・大きさ 32.正確さ 33.教育的価値 34.生徒の心をとらえる
練習問題その他 35.内容との関係 36.教育的価値 37.理解しやすさ 38.参考資料
6. 要点だけが書いてあり教師の補充的説明を必要とするような分量のものはよくない。一年間の社会科教科書は,紙その他の事情が許す範囲内で厚い方がよい。
12. 教科書の前書きとして,教師や生徒に対する教科書の使用についての注意事項や編修方針についての説明があることが望ましい。
14. 教科書は,全体を幾つかの章に分け,また各章は幾つかの節に分かれているのが普通であり,節はさらに細かい項目にも分かれるであろう。このような場合に適切な節名や項目が掲げてあれば,生徒にずっと読みやすくなる。しかしその排列は心理的になっていなければならない。また必要な重複はよいが,組織の不統一からくるむだな重複は避けなければならない。
15. 章の長さは全部同じにする必要はないが,だいたいそろえてあったほうがよい。最初に短い章があって,あとに長い章がくるようなのは,よい区分とはいえない。
16. 各章の終りには要約があることが望ましい。これによって生徒は全章の骨子を容易に理解することができるし,時間がない場合には,これによって目的の章の大要をつかむことができる。
21. 学習内容として含まれるべき種々な問題が,じゅうぶんに取り上げられていなければならない。
22. 編修者が特に関心をもつ問題に多くのページが費され,他の問題が無視されたり,わずかしか書かれていなかったりしてはならない。
26. 成人のためのような書き方のものはいけない。生徒の関心に訴えるように,またこの関心が続くような書き方でなければならない。
27. 最初はその学年の生徒が経験したり,関心をもつ具体的なことから出発して,しだいに抽象的・一般的原則を引き出すように書かれていることが必要である。定義や原則から始めたものはよくない。
28. 教科書は一貫して,同じような形式で書かれていなければならない。そして,ある章から次の章へは突然ではなく,自然に移り変わるように,また一つのトピックから次のトピックヘ滑らかに移るように編修されていなければならない。
29. 用語の範囲(語い)はそれぞれの学年の程度を越えないように注意しなければならない。一つの章や節にたくさんの新しいことばが出てくるような書き方はいけない。もっともある一章にどの程度の語いが適当であるかは,まだ明らかにされていないから,当分の間は編修者の判断にまつほかはない。
30. 教科書は相互に関係のないばらばらな知識の集まりであってはならない。書かれてある事実や資料は,おもな問題との関連をよく考えて選ばれたものでなければならない。
個人や分団で調べたことを学級へ報告する活動も,学習の効果をあげる上に非常に役だつ場合がある。たとえば一冊しかない本・雑誌・パンフレットなどの中に,単元の学習に役だつ部分がある場合,あるいは学校外の人に面接して,単元の学習に有効な知識を得た場合などには,その内容を整理して報告することによって,学級全体に大きな利益がもたらされるであろう。
けれどもこの報告も形式ばったものでは効果は少ない。特にノートに書いたものを,ただ読み上げるようなやり方は最も避けなければならない。これもやはり,話の形式で,要領よく,短いほうがよい。そして報告者は学級全体の仕事の一部分を分担しているのであり,各生徒は,これを聞くことによって,各自が調べる時間と労力とが助かっていることを認識しなければならない。だから各自も報告の要点をノートにとったり,質問を発したり,あるいは討議をして問題の究明に新たな材料や見解を付加するとともに,報告者自身も,報告することによって,集団の前で話をしたり,考えたりする能力を発達させる機会が与えられているのであることを自覚しなければならない。
報告の学習形式はこれを適切に用いれば有効であるが,ややもすれば濫用されがちである。特に教科書やその他一般の書物にも書いてあることを,わざわざ報告させることは,時間の不経済であるばかりでなく,形式に流れて学習効果を減ずる場合が多いことに注意しなければならない。
面 接 と 見 学
教室外で行われる社会科の学習活動にもいろいろあるが,面接と見学とはその中で最も普通なものであろう。しかしこれを実施するにあたっては,細心の計画と指導とが必要である。
まず単元の学習に際しては,問題によっては,教科書その他のものからは,適切な資料が得られない場合があろう。あるいは,ある問題について,一般の人々がどういう意見をもっているかを知りたいと思う場合もあろう。このような時には面接が大きな効果を上げる。面接の相手としては,国家や地方の公務員種々の専門家などが選ばれるのが普通であるが,生徒が面接の意味および相手のつごうなどを考えずに,漠然とこのような学習活動を行うときには,学習の効果がないのみならず,反対にいろいろ望ましくない結果ももたらされることに注意しなければならない。
面接は,学校ではどうしてもわからないことについて,外部の人々の助力を仰ぎに行くのであって,書物で調べたり,教師に聞けばわかるようなことを,わざわざ教えてもらいに行くのではない。また面接の相手は,喜んで生徒の学習に協力してくれるとしても,だれでもいそがしい仕事を持っているので,面接によって多くの時間をとられることは,一般に迷惑を感ずる。まして同じ問題について,違った生徒に幾度もくり返して聞きに来られることは,耐えられるものではない。
そこで面接すべき適当な人が見いだされたならば,まず先方のつごうを問い合せて,前もってその許可を得なければならない。先方のつごうもかまわずにいきなり出かけて行くことがないようによく指導しなければならない。それと同時に,違った学級の生徒が同じ問題について,くり返して面接を計画しないように,学級間の連絡をはかり,各学級の代表者がいっしょに出かけるように計画するのがよい。
さらにたいせつなことは,生徒が面接の技術をよく身につけるように指導することである。いきなりばく然と「何々について話を聞かせてもらいたい」というような質問のしかたでは,相手は当惑せざるをえないであろう。そして一体,生徒たちは現在,どういうことについて学習しているのか,何のためにどういう知識を得に来たかを理解するまでには,多くの時間が空費されなければならないであろう。だから短い間に,要領よく面接を終え,しかも目的がよく達せられるように,有効な面接の技術を身につけることは,社会人として必要なことである。それに面接は,生徒の礼儀正しい態度の養成にも,よい機会を与えてくれることを忘れてはならない。
知識を得るための面接とは違って,ある具体的問題について,多くの人々がどういう意見をもっているかを知るための面接では,その計画もかなり違ってこなければならない。この場合はできるだけいろいろな職業や学歴の人々にわたって,学級で手分けして聞かなければならない。それとともに,このような計画および結果の処理や結論に,多少でも科学的根拠を与えるためには,教師は数理統計学の教養をもっていなければならない。そしてこのような材料の選択や取扱は,いかにむずかしいものであるかを生徒に認識させることも必要なことである。
身近かな社会の自然環境・歴史的遺跡・社会施設・工場・銀行その他の見学も,これを有効に利用すれば,単元の学習に非常に役だつ。そして単に文字の上の知識や理解よりも,生徒が身近かに見聞できることとの関連や連想において学習が発展すれば,それは生き生きとしたものとなる。しかしこれがためには,面接の場合と同じように,周到な計画と指導とが必要であって,ただ漫然と見学を行ったのでは,これに付随してかえって好ましくない結果が生まれがちであることは,面接の場合と同様である。見学に際しての注意事項としては,面接の場合に述べたことがそのままあてはまるものもあるが,元来,面接や見学などの活動は,第V章「社会科の指導計画および指導法の地方への適応」の内容と深い関係をもつから,その部分で補足する機会をもつであろう。
分団(委員会)学習
単元を計画してこれを実行するに際して,その活動があまりに多方面にわたるので,各自がすべてをやるよりも,学級を幾つかの分団(委員会)にわかち各委員会がそれぞれ責任をもって仕事を行い,その結果を総合したほうが学習効果が上がる場合がある。たとえば図書館その他から資料を見つける場合,地域社会からいろいろな資料を集めて,これを展覧する場合,人々に面接してその結果を学級でまとめる場合,種々な図や地図を描いたり,模型を作る場合,単元のしめくくりの活動を計画し実行する場合などには,この方法が有効なことが多いであろう。
この方法が適切に運営される時には,生徒の個人差もある程度まで生かされて古い学習形態には見られない種々な教育効果を上げるものである。これに反して指導が適切でない場合には,生徒は目標を考えずに,ただ思いつきの活動をかってにやったり,一部の生徒だけが活動して,他の生徒にはなんらの望ましい発達がもたらされなかったりしやすい。この学習形態は戦後の教育においてはかなり濫用され,特に単元の内容の各トピックごとに常に委員会を組織してやらせるような形式に堕してきた傾向もあるから,この方法によって確かに学習効果が上がると考えられる時に実施するように心がけたほうがよい。
この学習形態の最も大きな特色の一つは,各人が他人の長所を認め合い,たがいに責任を分担しながら協力して学習に従事し,各人がその能力を伸ばしていくことである。だから委員会の構成にも種々な配慮が必要となる。たとえば生徒が自分の参加する委員会を選ぶ場合にも,(1)活動が容易なもの,(2)同じような家庭状態のもの,(3)同じような能力をもつもの,(4)なかのよいもの,などにかたまる傾向がある。(2)のようになることは最も望ましくないが,(1),(3),(4)にも長所とともに欠点もある。そこで教師はこれらの点を考えて,委員会の構成に対しても種々な助言を与えなければならない。それに委員会の運営上にもいろいろむずかしいことがあるから,これらの点でも教師のたゆみない指導が必要である。
生徒の個人差に応ずる指導
六三制の開始によって,わが国の中等教育は,その門戸が大幅に広げられた。すなわち旧制中学校は,入学試験によって選抜された生徒だけが教育を受ける機会が与えられていたのに対し,新しい中学校は義務教育となり,すべての生徒に教育の門戸が開放された。また新しい高等学校も生徒の収容力を増加し,準義務教育ともいうべきものに近づきつつある。これはわが国の教育制度の上から,一大進歩といわなければならない。しかしそれとともに,一方においては,中学校高等学校の教師は,各教科の指導の上にこれまで以上に種々な苦心を払わなければならないことが生まれてきた。その一つは,同学年にこれまでよりは比較にならないほど,能力が違った生徒がまじっていることから起る指導上の困難である。
現在の生徒は,一般に基本的知識に欠けたところが多いとのことは,しばしばいわれるところであるが,これには戦時中における教育の空白時代や,戦後の多少混乱した教育が深く影響していることであろう。新しい教育においても基本的知識を身につけさせることの重要性は,少しも減じていない。以前のように,細かい雑多な事実をむやみと記憶させる教育や,ただ記憶しているだけのことに価値を認める考え方は避けなければならないが,基本的知識なくしては,重要事項の理解も成り立たないし,知識を有効に使う能力をはじめ,その他の望ましい能力や態度の発達も期待できないであろう。したがって実際に,多くの生徒に基本的知識に欠けたところがあれば,このような欠点を補うように,指導の上であらゆる努力を払わなければならない。しかしこのような問題は別として,多くの教師が特に悩んでいることは,同学年中に,知的成長がのろい生徒が相当数まじっていることであろう。
これらの生徒は一般に知識を吸収したり,これを消化する力も弱いし,精神集中力も小さい。また知的好奇心にも欠け,独創性にも乏しい上に,よほど具体的なことでないと理解しないし,身につけた知識や理解を実際的に利用できる範囲も狭い。さらに自己反省も少ないので,同じような誤りをくり返すことも多い上に,割合に移り気である。
このような生徒には,教師はよほど細かく面倒を見てやらないと学習意欲を失い,他の生徒群からとり残されてしまう。だからこのような生徒に対しては,教育内容も最低限の基本的なことにとどめたり,反復練習の機会を多く与えたり,あるいはこのような生徒でも,手先でやるような機械的仕事に対しては,すぐれた能力をもっていることが多いから,これらの仕事を多く与えて自信をつけさせてやるとか,その他あらゆる機会をとらえて鼓舞し激励して,学習意欲を燃え起すように努力しなければならない。ところが一方においては同じ学年の中に知的に非常に進んだ生徒もいる。そしてこれらの生徒は前記の知的成長がのろい生徒と,だいたいにおいて反対の特質を備えている。そこで,もしも教師の指導が前記の生徒を主体として行われたならば,知的に進んだ生徒ははなはだ不満であるにちがいない。これらの生徒は,自然に伸びていくから,教師は特にめんどうを見てやらなくともよいと考えるわけにはいかない。社会の複雑な諸問題を解決し,民主的社会を進展させるためには,知的にすぐれた人々がその才能を最大限に発揮することが,ますます必要になる。それがためには学校においても,知的にすぐれた生徒はますますこれを伸ばすように教育することが必要である。そこでこのような生徒に対しては,教育内容を豊富にするとか,深く考えたり,独創性を発揮する機会を多く与えるとか,その他特別な配慮が必要であろう。
ところでこのような原則論は容易に考えられるが,さて実行となるとむずかしい問題が山積する。しかも個人差は単に知的面だけではなく,社会的・情緒的発達などについても存在する。そしてわが国の一般の学校のように,一学級の生徒数が多く,しかも,教員数が少なくて,教育施設もふじゅうぶんな状態においては,この問題の完全な解決はなかなかむずかしい。しかし元来,単元による学習は,他の学習法に比べて,生徒の個人差に応じられる過程を多く含んでいるし,その他,事情によっては能力別学級編成や個別的補習指導あるいは生徒の発達に応じて社会科の指導計画に変更を加えるとか,いろいろな方法も考えられるであろう。この方面の研究は,わが国ではまだあまり進んでいないが,今後大いに具体的な研究を積まなければならない切実な問題である。
視聴覚教具の利用
社会科に視聴覚教具があまり利用されなかったならば,どんなにその授業があじけなく,また教育の効果を減ずることになるか想像にあまりあるであろう。その場合には教師や生徒が話したり,本に書いてあったり,黒板やノートに書いたりすることばによって,おもに授業が進められなければならない。その結果生徒は,教師が教えようと思っていることと違ったものに受け取ることもよくあるし,ただことばの上で抽象的に学習することに努力が払われ,生徒の経験を基礎として具体的に理解することも困難となる。ところが戦前には,歴史や公民の授業には,視聴覚教具はあまり利用されていなかったし,地理の授業でも多く掛地図が用いられる程度にすぎなかった。それに教科書のさし絵・写真・図表なども,生徒の興味に合致しなかったり,生徒の真の理解の助けにならないものが少なくなかった。これに比べれば今日の社会科の教科書では,さし絵などの数や質にも改善が加えられたばかりでなく,社会科の授業にも種々な絵や図をはじめ,幻燈や映画なども時々利用する学校が多くなったことは,社会科の指導法に大進歩がもたらされたものと見ることができよう。絵・図・写真・幻燈・映画・標本・模型・地図・地球儀などの視覚教具を適切に利用することによって,「百聞一見にしかず」の格言を種々な意義において教育の上に具体的に拡張することができるばかりでなく,授業に興味と楽しさとを与えるし,さらにレコードやラジオなどの聴覚教具も利用することによって,いっそう教育の効果を上げることが期待できる。
しかしながら注意しなければならないことは,視聴覚教具の利用は,それ自身が一つの指導法と認められるものではなく,種々な指導法の効果を上げるための補助手段と考えなければならないことである。したがって,これらは使用前に,その利用価値についてじゅうぶんに研究を重ね,しかも教育計画と密接に結びつけて利用しなければならない。換言すれば,教師は社会科の単元をよく研究して,指導に役だつ視聴覚教具を集めて,最も効果が上がると予想される時に利用すべきであって,具体的な目あてもなく漫然と収集すべきものではない。
視聴覚教具といえば幻燈(スライド・フィルムストリップス)や映画を利用することを考えがちであり,したがってわが国の多くの学校の現状として,すぐに設備や機具を問題にする場合が多い。幻燈や映画の利用は,戦後の教育で特に大きく取り上げられている面であって,各学校でこれらをじゅうぶんに利用できるようになることは望ましいが,もっと簡単な視覚教具さえも,学校によってはあまり利用されていない現実に注意しなければならない。
たとえばヨーロッパやアメリカの諸学校では地理や歴史の授業に写真や絵画が盛んに利用されているが,わが国ではそれほどでもない。もっとも以前にわが国の教育界にも,すでにこれらの利用促進の気運が起ったこともあったが,残念ながら戦争によって実を結ぶまでに至らなかった。適切な絵画をよく利用した教師の指導によって,生徒の具体的理解が深められるばかりでなく,科学的なものの見方の能力も大いに啓発されなければならないはずである。すなわちただ写真や絵画を生徒に見せただけでは,教育の効果を多く期待することができない。そこで教師は,これに表わされている内容の読み方や解釈のしかたについてじゅうぶんな指導力を発揮しなければならない。
地図・地球儀・模型などは,以前から地理の授業に用いられてはいたが,それも決してじゅうぶんとはいえなかった。社会科となってからもこれらの利用はあまり進歩していないばかりでなく,見方によっては,かえってこれらの利用によって養われるべき基本的能力の指導がおろそかにされているような傾向さえもある。たとえば地球儀を利用しないために距離・方位などの基本的概念について誤解に陥っている生徒もあって,これがさらに種々な投影法による小縮尺の地図の正しい読み方や取扱方に支障をきたしている場合も少なくない。また縮尺の大きい地図の読み方や取扱方になれていない生徒も多い。わが国の地理調査所から,世界的にすぐれた地図が幾種類も発行されていながら,国民がこれをじゅうぶんに利用する能力を備えていなければ,まったく宝の持ちぐされであるといわざるをえない。さればといって地図をただ転写する活動をやたらに課すことは,むしろ時間と労力の不経済になる場合が多くて,教育効果は大して上がらないものであることに注意しなければならない。種々な図表なども視覚に訴えて社会現象を理解する上に大いに役だつが,生徒に描かせる場合には,効果的な正しい表現について教師の指導が必要である。
模型や標本も視覚教具として重要な役割を演ずる。写真・絵画・地図のような平面的表現物と違って,模型は立体的に実物に近く,しかもあらゆる角度からこれを観察することができるから,その教育的利用価値は大きい。模型といえば地形模型がおもに用いられているようであるが,これ以外にも建築物・住居その他,歴史や地理の教育に有効な模型についても考えられるべきである。もっとも模型は一般に高価であることが欠点であるが,社会科用としては生徒にも製作できるものが相当あることを忘れてはならない。標本は実物であるから適切なものを選んで利用すれば,生徒の学習意欲をわき起させる上にいっそう効果があることであろう。たとえば特殊な物産,外国や過去の時代の日用品や道具,古銭・古文書・証書類などは,単元の提出の場合にも役だつし,単元の内容のトピックに関連させて,さらに有効に利用することもできる。さらに生徒の年齢によっては,いろいろなものを集めることに特に興味をもつ時期がある。このような傾向を利用して,たとえば外国の種々な郵便切手を集めさせ,これを通じて国際理解の促進の一助とすることも考えられるであろう。
最後に,幻燈・映画・レコード・ラジオなどについては,単に施設その他に要する費用の点ばかりでなく,その利用法にも今後大いに研究しなければならない面がたくさん残されている。たとえば,どのようなレコードをどのように利用したらよいか,学校放送をどのようにして社会科の授業に取り入れるのがよいか,などにも研究しなければならない問題があるが,特に映画の場合には,その利用をよほど注意しないと時間の浪費に陥る危険性がある。スライドやフィルムストリップスなどにも,最近はよいものが売り出されてきたし,教師と生徒が協力して優秀なものを作っている学校もあるが,これらの利用にあたっては,教師は教育内容との関連を考慮しているのが普通である。ところが映画になるとただフィルムが手に入ったからといって,その教育的価値や利用すべき時期などを考えないで,映写しているにすぎないことがよくある。これでは大した教育効果を期待することができない。映画は,適切なものを選び,これを巧みに利用すれば他の視聴覚教具では望むことができない教育効果を上げることができるものであるが,これがためには,教師は前もって映画の内容をよく検討し,はたして教育的利用価値があるかどうか,またどのような時に利用するのが最もよいかをよく研究しなければならない。さらに短い映画で,問題の重点をしっかりつかんでいるものが利用価値が大きく,長い映画はかえって教育的効果を減ずるものであること,および教育効果をじゅうぶんに上げるためには,その映画の内容や見方に関する教師の説明や指導を必要とする場合が多いことに注意しなければならない。
以上のような視聴覚教具を集め,整理しておくためには,特別な準備室が必要であるし,社会科の教室には広い掲示板がほしい。掲示板は絵画・写真などばかりでなく,新聞・ポスターその他の掲示用としてぜひともほしいものである。さらに社会科の教室は,これらの視聴覚教具の利用上の便ばかりでなく,生徒の実習その他の活動を容易にさせるような種々なくふうや設備が必要である。