§1.数学科における生徒中心の教育
教育は,あくまで生徒中心のものでなければならないということは,ルッソオ以来の教育の先覚者たちが常に主張してきたことである。これは,生徒を個人として尊重し,その個人の最大限の発達を教師の最大の関心事とするという意味で,現在の教育においても,最も重要視しなければならない考え方である。
しからば,数学科において生徒中心の教育をするということは,実際にどのようにすることをいうのであろうか。一言にしていえば,これは,数学科の指導は「数学を」教えるのではなく,数学で「生徒を」教育していくことであるといえよう。
「生徒中心」というとき,これを「自由放任」の教育と同一視することは,大きな誤りである。生徒が数学を勉強したいといったときに,生徒に数学を教え,生徒が野球をしたいといえば,野球をさせるなど,生徒に好きなように活動をさせ,教師はただこれを見守っているということは,教育ではない。過去の数学教育は,生徒に計算その他の技能についての知識や行為の型だけを教えこむことを主目標として,そのため,ややもすると,数学を積極的に用いて新しいものを創造していく意欲と能力に乏しい受動的な人間を育ててきた。この原因を正しく考察せずに,生徒中心ということがいい出されたために,上のような誤解が生じたのである。
数学がきらいな生徒がいた場合に,数学がきらいだから数学の授業は受けなくてよろしいとして,教室の外に放任することは,教育ではなく,教育を捨てることである。また,好きでもきらいでも,とにかく,これを勉強せよといって強制していくことは,生徒中心の教育ではない。数学のきらいになった生徒には,きらいになっただけの原因がある。数学の学習において,失敗ばかりしてあまり成功しないことから,自分に対する信頼感を失うことをおそれて,それを避けるために,数学をきらっているのか,自分の成功が教師にも友人にも認められないので,クラスという社会における安定感を傷つけ,その結果数学をきらうに至ったのか,とりあげている問題が自分にとって価値のないことばかりだと考えてきらっているのか,などその生徒のきらいになった原因はいろいろ考えられる。そこで,教師は,その生徒の能力に適した問題で,しかもやってみようという気の起るような問題を与えて,その生徒に成功感を味わせたり,その成功を,かれの努力の結果として,友人とともにこれを認めたりしていけば,その生徒の信頼感や安定感をとりもどしつつ,かれの能力を伸ばしていくことができる。このようにすることこそ,生徒中心の指導である。すなわち,生徒中心の教育とは,次の二つのことを意味する。
(2) 指導の過程において,教師は常に生徒のもつ必要を考慮し,この必要をうまく満たしていくように,生徒を指導していくこと。いいかえると,教室における生徒と教師の人間的な関係が,生徒の必要を基礎においてうち立てられること。
したがって,この原則を生かして指導していくためには,教師は,生徒の内面にもつ基本的な必要についての理解を深め,教材の選択や実際の指導の面で,この必要を満たしていく方法を身につけていかなくてはならない。これについて,次の2節で述べてみよう。
§2.青年期の発選とその基本的必要
青年期の一般的特微として,ある一定の行動の型を考えて,青年は一般にこのような行動をするというように見ていくことは,きわめて危険なことである。
従来,青年はこういうことをするものであるとか,一般に移り気であるとか,放逸であるとか,不安定であるとか,いろいろといわれているが,すべての青年がそうだというように考えることは,いいすぎである。青年の行為にある決まった型というものを考えることはできない。ある青年は,そのような行動をするかもしれないし,またあるものは,そうしないかもしれない,青年の行動は,かれがそれまでに養育されてきたやり方,兄弟・姉妹・友人とのつきあい,学校および地域社会で教えられ扱われてきた方法などの,多くのものによって,いろいろと変って現れてくるものである。すなわち,青年期というのが,正常な人間の発達である一段階であり,この時期において,その発達のある面が著しく目だってくるということは事実であるが,その発達の起る面が決まった型にはまっていくと考えるのは,正しくない。
それゆえ,次にあげるような面で,青年たちは,この時期にいろいろに発達していくということは考えられるが,同時に,その発達の程度や表われ方には,その個人個人によって非常な差があるのだということも常に念頭におかなくてはならない。このような前提のもとに,青年期の発達の特徴のある面として考えられるものをあげてみると,次のようにいえるであろう。
2.成人・友人・自分自身・年少者をも含めた人に対する態度。
3.社会的に活動すること,同年輩の人たちに認められること,他人に認められることに対する欲求。
4.異性に対する興味の目ざめ。
5.人間・世界・宇宙などについての理念や信念に対する関心をも含めた意味での新しい経験に対する欲求。
そのおもなものをあげてみると,次のようである。
青年の基本的必要 |
2.自分の成功とか,熟達とか,目標の達成とかいうことが,はっきりとわかって,自分に対する信頼感を深めること。
3.家庭・学校・地域社会および自分の仲間での安定感をもつこと。すなわち,自分が,その仲間でみんなから必要なものだと思われているという感じや,自分が確かにその仲間にはいって,みんなといっしょにいるという感じをもつこと。
4.人を愛したり,人から愛されたりすること。
5.他人が自分を理解してくれること,および,他人を理解すること。
6.だんだんに高い程度の自由をもつようになること。自由とわがままの区別をつけて,自由を賢明に行使していくよう実践的な指導を受けること。
7.自分の個性を,健全で創造的な方法によって,表現する機会をもつこと。
8.自分の視野を広めるような知識を与えてくれたり,自分や他人に対する,あるいは自分の周囲の問題に対する見解を深めたりする新しい経験をすること。
9.職業的な関心を深め,職業的資質の基礎をつくること。
1O.健全な社会的レクリエーションの機会をもつこと。
11.社会や学校で,異性と健全な交際をする機会をもつこと。
12.自分の問題を解決したり,自分の行為のしかたをより満足なものに進歩させたりしていくのに役だつような,健全な人生観を発達させること。
上に述べた必要は,意識的にせよ,無意識的にせよ,また,その程度に差があるにしても,多くの生徒に共通な必要である。そして,生徒の行動の多くは,このような必要を満たしていくことを動機として起ってくる。そして,この必要が正常な望ましい状態で満たされていかないときには,生徒は悩み苦しみ,この状態からのがれようとしていろいろな行動——その中には,ときには社会的にみて望ましくないものもある——をするようになる。
§3.数学科の指導における生徒の必要
数学科の指導において,生徒がいっしょうけんめいに最善を尽して,自主的に学習していくことを望むならば,そのような行為が上にあげた必要を満たすものであることを生徒に明らかにし,かつ,教師の知らず知らずの間にする行為が,このような必要を満たすのを傷つけないようにしなければならない。このことが,上のように基本的な必要を明らかにした理由である。
そのための具体的な注意事項を,教室における指導過程の上からと,とりあげる問題の選び方の上からとの,二つの面からあげてみよう。
生徒の必要を満していくための指導過程上の注意 |
数学科においては,上級になっていくにつれて,生徒の能力の発達の違いが大きくなっていくことは事実である。したがって,ある生徒に適した問題が,他の生徒にはやさしすぎたり,むずかしすぎて手がつけられなかったりすることが当然に起る。このときに,むずかしすぎる問題を与えられた生徒は,いっしょに他の生徒とついていけないので取り残された感をもつし,やさしすぎる問題を与えられた生徒は,ばかにされた感をもつ。こうしたことから,生徒の安定感が傷つけられたり,自分が教師から認められていないという不満をもったりする。
自分に与えられる問題が自分の力に相応し,自分の努力によって解決に成功していくように導かれるならば,生徒は 教師が自分を認め,理解し,愛してくれていることを知り,その成功感によって自分に対する信頼を深め,みんなといっしょにいるのだという安定感をもつ。
しかし,このことの反面,他人と違った問題をもつことによって,クラスの中でのけ者にされた感じや,劣等感を覚えたり,ひがみをもったりする心配があるかもしれない。このことに対しては,後に述べるように,その生徒のなしとげた成果を他の生徒と比べたりしないで,その生徒の払った努力を考えて評価していくことによって,この心配をなくすることができる。
このような考えで指導していくときに,教師は 次のようなことに気をつけ,研究しておかなくてはならない。
(b) 生徒に与える問題は,その生徒が努力しさえすれば解決できる見込みのあるもので,生徒がやってみようという気の起るような新鮮さを含んでいること。
(c) 問題を与えるときに,その問題の焦点が明らかになり,その問題の中に自分の必要を見いだしていくように与えること。
(d) 問題を解決していく過程において,生徒が自分の力で克服できないような困難を示したときに,その生徒の困難の原因を教師が診断して,これを克服していくように,援助してやること。
たとえば,教科書などにある書かれた問題に対する困難の原因としては,次のようなものが考えられる。
2.問題の中に示された関係をはあくする読解力がないこと。
3.問題の中に示された実際的な関係についての知識や親しみが欠けていること。
4.問題の解決に必要な数量的な関係が取り出せないこと。
5.解決に必要な数学的な既習事項を忘れていること。
6.解決に必要な数学的な既習事項を誤解していること。
7.解決に必要な数学的な既習事項を理解していないこと。
2.教師は,各生徒の成功や進歩を確認し,それを生徒が自覚するように援助してやること。
自分の成功や進歩が教師や級友に認められほめられることは,生徒の必要としてあげた第1の項目にあたる。そして,同時に,このことによって,自分を理解してもらいたいという気持も満たされていく。また,この成功や進歩を自分ではっきり認めていくことは,自分に対する信頼感を深めていく上にも必要である。このことのための注意をあげてみると,次のようになる。
「たいへんよくできた。」といったぼんやりしたほめ方は,生徒に何がよかったのかをわからせずに,安心感だけをもたせがちである。こうしたことが積み重なると,生徒は,よいわるいの基準を自分の心の中にもたずに,他人のことばの上に求めようとするようになる。ひいては,自分に対する信頼感を失うか,あるいはうぬぼれてしまうかするようになる。
「君がいっしょうけんめいに努力したことが,ここによく表わされている。」とか,「君の考えた方法がこの問題の解決にうまく役だっている。」とかいうほめ方は,上のものに比べて,はっきりよい点を指摘したほめ方である。いいかえると,なぜほめられたか,どんなことがよかったのかが生徒にわかり,生徒がこれを自分の判定の基準としていくことができるように,ほめてやらなくてはならない。
(b) 成功か不成功かは,その個人個人の能力によって判定されるべきで,他へと比較して判定すべきではない。他人と比較すべき点は,その生徒が適当な努力を払ったかどうかという点である。学習のおそい生徒のしたことで,他の生徒にとってはそれほどでなくとも,その生徒にとっては,じゅうぶんほめてやる値うちのあることがある。学習の遅れた生徒が,いっしょうけんめいに努力して,まわりくどい方法ではあるが,とにかくひととおりの解決に達したとき,たとえこれが他の生徒のものより劣っていても,それだからといって無視してはいけない。かれの努力がこの成功をもたらしたことをほめて,その次に,そのまわりくどい方法をさらに洗錬されたものに,みがきあげていくように指導すべきである。
3.生徒の進歩が,生徒たちにはっきりわかるような方法をくふうし,生徒たちの進歩を生徒とともに評価していくこと。
このことは,生徒に自分の進歩が明らかになるので,自分に対する信頼感が深められるし,また,自分が教師から理解され愛されているという,しっかりした確信を植えつけていく。同時に,自分から自分を律していくような自主的な生活ができるもととなって,しだいに自由を行使してゆけるための指導にもなる。
このために,教師の注意すべきことは,次のことである。
計算練習の成績のグラフ,毎日のノ一トに書くその日のまとめなどは,すべて,この目的に対して利用することができる。
(b) いつも生徒が自分のわかったことと,わからないこととを,区別していくように指導すること。
毎時間の指導の終りに,今日はどれだけのことがわかったか,またどのような問題が残っているかを反省し,このことを記録していくのは,この一例である。
4.各グループや各個人に与える問題は,まったくばらばらなものではなく,全級のひとつの問題から生じたもので,各人の解決が全級の問題の解決に役立つことが明らかになるように組織すること。
このような問題をとりあげることは,生徒に,自分がクラス全体の中で役だつ人間であり,みんなに期待されているという感じをもたせ,自分の仕事によって仲間に自分を認めてもらい,受け入れてもらえることを確信させていく。学習の遅れた生徒に与える問題も,他の生徒のものとまったく関係がない低学年のものというよりも,他の生徒の問題と関係があって,これを別の面から解決していくものであり,この解決とほかの人の解決とを総合してはじめて全体の解決になるというものであることが望ましい。このように,特に,学習の遅れている生徒に対しては,常に深い注意を払って,その生徒がクラスの中でのけ者にされないように指導することがたいせつである。
5.生徒の自主的な学習を奨励し,その自主的な活動に沿って,これを指導していくようにすること。
生徒が自主的に学習していくということは,この章の第1節で述べたような意味のことである。このような学習によって,生徒は,教師が自分の必要を理解してくれることに安心感をもつし,また,しだいに自由を行使していくことが適切に指導されるという必要も満たされる。このような指導を目ざすときに注意すべきこととしては,次のようなことが考えられる。
学習することは何か,なぜそれが問題になるのか,自分はどうすればよいのか,そのためには,どんな困難を克服していかなくてはならないかなどの点が,具体的になっていれば,生徒は,その目標に照して,自分の学習を律していき,自主的に学習していける。
(b) 教師は,生徒の計画や責任を尊重して,これを生かしながら指導すること。
生徒が学習の目標をはっきりつかめば,生徒は生徒なりに学習の計画を立て,その遂行に自分の責任を感ずる。教師は,この生徒の計画や責任を尊重し,生徒が自主的に考えていくことによって成果をつかむように指導しなくてはならない。また,生徒が計画遂行の途上で困難にぶつかって,その解決に困っているとき,教師のなすべき仕事は,その問題の解決を生徒に与えてやることではなくて,適切な助言によって,生徒が解決の方法や解答を発見できるように援助することである。
6.生徒が,自分で発見したことや自分の意見を,いろいろな方法で発表していく機会を豊富に与えること。
このことによって,生徒は自分の独創力や個性を発揮していく機会に恵まれる。このために注意すべきことをあげると,次のようになる。
(b) 生徒の発見したことを,口頭でいったり,文章に書いたり,グラフや図に表わしたり,その他いろいろな方法を用いて表現していくように指導すること。
7.生徒が示す応答,製作品,その他にみられる反応は,たとえそれがどんなものであっても,そのなかに生徒のよいところが表れているものである。これをはっきり認め,かつ,生徒にもそれを明らかにしてやること。
ときには,生徒の発言した申しいでや解答をすてることも必要になる。これを捨てるときには,なぜそれを捨てるのか,その理由を生徒に明らかにしてから,捨てるようにしなくてはならない。そうしないと,生徒は,なぜ自分のいったことがとりあげられないのかわからずにすぎてしまい,教師は自分を理解していないのだというような誤解をもつようになる恐れがある。
8.生徒が数学科の学習で失敗をしたとき,そのことを,生徒の道徳的な価値や先天的な能力と結びつけて考えるような恐れのあるいい方は,注意して避けること。
「こんなやさしい問題ができないやつは,なまけ者だ。」とか,「わるいことをすると,できない生徒のクラスにいれるぞ。」とかいういい方は,なまけると不良とかいう人間の道徳的な価値についてのことばを,数学のできないことと結びつけていく恐れがある。このようなことから,数学科で成績がよくないこと自身が,その人間の価値を低いものとし,数学のできることだけで人間的に価値の高いことになるかのように,生徒に考えさせやすい。こうして,誤った劣等感や優越感をもたせるような結果をひき起しやすい。
また,「きみみたいにできない生徒には,とても,これはわからないよ」といって,頭からその生徒をばかにしてかかることは,その生徒にきわめて悪い影響を与える。この場合に必要なことは,「そのことを理解するには,その前にこれを理解しなければならない」というような,その生徒の行くべき道を示すことである。先天的な能力というものは,確かに存在して,これが学習の成果を左右することは,否定できない事実であるけれども,それよりも大きく成果を左右するものは,学習のしかたである。普通の知能の生徒の場合では,むしろこの要因のほうがはるかに大きいことを,教師は銘記すベきである。
生徒の必要を満たしていくための生活経験の選び方 |
指導過程において教師の注意を払うべき点として,上にあげたことは,主として,第2節で述べた必要の1から7までに関係している。これらの必要は,主として生徒の情緒的な面の発達に関係するとみられるので,情緒の強く働く,教師対生徒の人間的な関係の基盤となるのである。これに対して,第2節で述べた必要の6,7,8,9,12等は,知的な面の発達に主として関係している。したがって,これらの必要を満たすことは,教師対生徒の人間的関係の面よりも,生徒対教材の面(内容と指導法との二面を含めた)において考えられる。教材が,これらの必要を満たしていくことが生徒によくわかるにつれて,生徒は,これを有意義であると感じ,積極的に学習しようとするようになる。
ここでは,数学科として,これらの必要を満たすのに,どのような問題がとりあげられるかを考えてみよう。そのため,問題の起る場面を,個人的な問題・身近な社会関係・社会関係・経済的関係とに分けて考えることにする。もとより,このような分け方は,便宜的なものであり,問題の起る場面をひととおり見わたすためのものであり,考えやすくする手段にすぎないのであって,これによってきちんと分れるとか,完全であるとかいうことを意味するものではない。
この標題のもとに,主として自分自身を対象として起る問題や人生観・世界観に関係して,自然や社会の現象を対象として起る問題が考えられる。すなわち,自分の視野を広め,自分自身や自然現象・社会現象に対して見解を深めたりするような新しい経験を求めたり,人間や世界や宇宙についての信念をつちかい,自分の人生観を高めていくことや,自分の個性を創造的に発揮していくことなどが,この面から考えられる必要である。
児童期にあっては,単なる驚異としてみられていた自然の現象等についても,しだいに,数量的に観察し,数量的な関係によって,その現象を観察するようになり,法則という形に,これをまとめて考えることができるようになる。
また,社会的な現象についても,統計的な見方から法則を見いだし,これによって,見解を深め,人生観・世界観の根底につちかっていくことに,関心をもつようになる。
美的な鑑賞や創造についても,自分の個性を発揮するものとして,あるいは,その中に含まれている原則の発見によって,自分の世界に対する見解を深めていくものとして,深い関心をもつことができるようになる。
こうした面で,数学科では,簡潔でめいりょうな表現を求めたり,数学による客観的な解決を求めたりして,このような必要に基く問題をとりあげることができる。このような問題の起る場面としての例を,次にあげてみよう。
○ 正しさやくわしさの意味を知って,これをいろいろな問題を解決していくのに適切に用いて,正しい判断を得ようとする。
○ 自然物や人工物についての対称性などの原理を見いだしたりすることよって,美的な関係をよりよく表現し,創造しようとする。
○ 論証の本質を知り,適切な仮定を設けて推論を進めたりするような,客観的な考え方をもとうとする。
○ 実証された事がらや,それから推論された結果に基いて行動しようとしたり,また,それらの事がらを絶えず験証したりするなど,実際に基いて考えていこうとする。
○ ただ人から説明されたり,人のまねをしたりすることよりも,自分から解決したり,新しいものをつくり出したりして,自分の見解を深めていこうとする。
割合に狭い範囲で,日常親しく交わっている者の間に起る問題を特に身近な社会としてまとめて考えてみる。
この社会は,今までは,主として生徒を保護するといったものであった。しかし,青年期になるにつれて,この中でしだいに自由の許される程度が増してくること,およびその自由を賢明に行使していくことの実践的な指導を受けることの必要は,しだいに大きくなる。それとともに,この社会の中で,一人前の人格として認められ,尊敬され,みんなから理解される必要もますます大きくなってくる。このようなことを可能にするためには,物事を考えるのに筋道が立ち,その事がらに客観性があるようにならなくてはならない。また,自主的に計画し,責任をもってこれを遂行していくことができなくてはならない。分担を明らかにして,うまく協力していくこともできなくてはならない。
こうしたことの解決に数学が役だつことは,これまでにくり返して説明してきたことである。それゆえ,このようなことから起る問題をとりあげていくことは,この面での生徒の必要を満たしていくことになる。このような問題の起る場面の例を,次にあげてみよう。
○ 見積りを立てるにあたって,誤差を考えに入れ,結果に大きな誤りを起さないようにして,自分の見積りに責任を持とうとする。
○ 自主的に問題の解決にあたり,その過程や結果に対して,責任を持とうとする。
○ 数学的なことばを用い,簡潔な表現をして,自分の考えを他人にわかりよく伝えようとする。
○ 論理的に筋道を立てて物事を考え,自分の考えをほかの人に確実に納得してもらうことができるようになろうとする。
○ 主張を客観的にするために,感情や偏見を除き,資料の適切さや信頼性をよく吟味しようとする。
○ 他人の主張に対して,その人の立場を認めて考えたり,客観的に判断を下したりすることができるようになろうとする。また,そのために,事実と推論の結果とを見分けようとする。
児童期においては,社会は理解の対象として考えられ,生徒はやや受身の形であったとしてよいであろう。青年期にはいって,その理解が深まるにつれて,しだいに,もっと積極的にこれを理解し,これを批判し,進んでよりよい社会にしようとする意欲をもつようになる。ここにあげた社会関係は,そのような問題をまとめる目じるしである。そのもとには,しだいに自由の許される程度の増してくること,自分の視野を広め,社会的な関係についての見解を深めていく新しい経験をすること,職業的な関心を深め,職業的資質の基礎をつくっていくこと,人生観を深めることなどの必要が考えられる。すなわち,社会を積極的に理解しようとする面から,新聞やラジオなどに現れる社会的・経済的・政治的な報道について理解することが必要になる。また,災害対策・失業対策・租税問題・資源開発利用の問題などに対しても,ひととおりの意見をもち,これを人にも認められたく思うようになる。また,自分の将来の進路に関心をもち,社会の進歩に対して積極的に貢献しようとする意欲や,社会の不正な面に対して激しい憤りを覚えて,これを是正しようとする意欲も,境遇や指導によって,強く表れてくるようになる。
この面で考えられることは,人生観を発達させていくものとして,あるものは個人的な問題の面で考えられたものと重複するが,そのおもな例をあげてみると,次のようになる。
○ 数量的表現の近似的な性格に基いて,実際に即した解釈を求めようとする。
○ 統計的な資料を読んだり,それを用いて災害対策を立てたりするのに,確率的な観念に基いて,現実と法則のずれを理解しようとする。
○ 数量を用いることによって,租税とか保険とかいう社会的な協力が,いかに公正に実行されていくかを知って,これに関心を深めていく。
○ 貯蓄・信用制度・銀行などが,生産とか,おかねや物資の流通とかいう社会的な協力の上にどんな働きをしているかについて,数量的な面から見解を深めようとする。
○ 自然科学や数学自身の進歩が,時間的にも空間的にも,広い範囲の人の協力によってできたものであることや,これによって,社会の進歩が促進されたことを理解し,これについての見解を深めようとする。
○ いろいろな職業分野における数学の利用のしかたを理解して,自分の職業的な資質をいっそう高めようとする。
以上の三つの面のどれにも関係しているものであるが,これは,数量的な判断のよく必要になる面でもあるし,また,生徒が自立して,将来の進路を考えていく上に,大きな要素となる面であるので,特にこれをとりあげて考えてみることにする。金銭関係は,児童期にあっては,父兄や教師にさしずされている面が多かった。しかし,青年期において,自由をしだいに身につけていくことが必要になるとすれば,おかねや物を消費の面についても,生徒が自主的な行為ができるように指導することは,ひとつのたいせつな点である。また,中学生ぐらいになれば,ある範囲で金銭の出納を自主的に管理したり,消費の面で,ある程度の買い物を自由裁量にゆだねられたりすることも,実際に起ってくる。こうした場合に,生徒が賢明に行動しようとすれば,多くのいろいろな問題が起ってくるし,その中には,数学科でとりあげるのにふさわしい問題も少くない。
こうしたことについての指導は,将来独立した家計をもつ場合の準備としても,職業人としての経済的な知識をもつためにも,役だつのである。
この面での例を,次にあげてみよう。
○ よい買い物をするために,時期や品質を選んだり,買い方をくふうしたり,また,必要な計算をしたりして,自主的な消費生活をしようとする。
○ 賢明な貯蓄や投資の方法を研究して,将来の職業生活の計画をくふうしようとする。
○ 個人の貯蓄,および通貨の量や物価などが.経済の安定と自立にどんな意味をもっているかを理解し,これに対して積極酌に協力しようとする。
○ 商店,工場,あるいは農業などを合理的に経営していくときに,数学的な考え方をどのように生かしていけるかを研究しようとする。
以上は,生徒の必要に応ずる問題を探究していくひとつの方法を示したものであるが,ここにあげた方法も完全なものであるというのではない。強調したい点は,このようにして,とりあげる問題が,なんらかの意味で,第2節に述べたような生徒の必要を満たすものであり,しかもそのことを生徒にはっきりわかるように指導して,生徒が,積極的に自主的に,その問題にぶつかっていくようにすることである。