第8章 地域の必要に対する学習指導要領の適応
 この学習指導要領は,日本の中学校および高等学校で全般的に使われるように.英語教育課程の概要を述べようとするものであるから,教師がこの学習指導要領を,英語教育課程を構成するための,固苦しい,動きのとれない手びきとして使うことは期待していない。現代の教育は,個人の必要がそれぞれ異なり,地域社会の必要がそれぞれ違うという考え方に基いている。英語に対する必要は,非常にかけ離れた特異な場所である北海道と,岐阜・長野などの山岳地方とでは大いに異なるわけである。英語に対する必要は,首都である東京,横浜・神戸のような貿易都市と,孤立した町村とではそれぞれ違うのである。ここにおいて,地域社会の必要や生徒の個人的必要に対して学習指導要領を適応させていかなければならない。

1.日本における戦前の教育

 だいたい日本の戦前の教育は,いわゆる「画一教育」であった。中央政府が何を教えるべきかを決めて,それがそのまま全国のすべての生徒に対して適用された。教育を実情に即応させて,効果的な独創的な方法を用いる余地はほとんどなかった。それは,当局の命令に準拠して教えなければならないと思うことを,ただ教えるような人によって行われた一つの教育形式であった。それは,関心をもつすべての人が援助を与えうるような民主的教育ではなかった。言い換えれば,戦後まで学校をめぐる地域社会は,学校の方針にほとんどなんの影響力ももたず,教育のことはすべてこのような教育機関に任せ,教育機関はまたそれ自身,中央政府の指令を遵奉した。

 中等教育を受ける者が選ばれた少数に限られた点も,また見のがせない。能力の劣った生徒や中等教育費を支弁するだけの財力に乏しい者は,ほとんど中等教育を受ける機会をもたなかった。こういう組織であったから,地域の必要に応ずる余地は,全体的に見てあまり与えられなかったし,特に官公立の学校の場合においてそうであった。それにまただれも,地域の必要に応じることについて考える必要がなかった。

 

2.新しい民主的な教育

 今日の教育は,それぞれの地域社会に住む人々に直接に関係をもち,その地域社会の福祉に貢献する義務をもっている。

 この民主的な教育は,教育の指導原理や堅実な組織をもたなくとも可能であると思ってはならない。今日の民主的な教育は,教育畑の識者が打ち建てた,教育の根本的諸原理を頭に置かなければならない。この学習指導要領に述べてある英語の目標が,すなわち,その根本原理のひとつであって,それは根本的に堅実であると考えられており,そしてすべての英語教育課程に対する基盤でありうる。それらは一般目標であり,おもな機能上・教養上の目標であって,この目標から特殊目標が生れてくるのである。適応が必要になるのは,特にこの特殊目標である。つまり本書に述べてある一般目標とおもな目標は,日本における外国語指導計画において,教育原理にもどらないかぎり,最大の柔軟性を与えるように,最大の注意をもって書かれてあるのである。留意すべきことは,教育課程が満たしてやらなければならない生徒の共通の必要と特殊な必要とがあると同じように,指導計画が満足させなければならない特殊な地域的必要があるということである。

 

1.教育課程の地方分権

 地域社会がそれぞれ異なる以上,それぞれの地域社会がたどる発達も異なるべきである。地域社会の間の社会的差異はまた,教育上の特殊目標にも差異のあることを求める。全体主義的な国家においては統制された教育組織が普通であろうが,民主的な国家としてはその性質上地域的および個人的差異に当然重きを置く。地方教育委員会の設置は,それがこの目的にかなうときにおいてのみその意義をもつ。教育委員会法(昭和23年,法律第170号)第49条第3項および第9項に「教育委員会は左の事務を行う。但し,この場合において,教育長に対し,助言と推薦を求めることができる。(3)教育内容及びその取扱に関すること。(9)教具その他の設備の整備計画に関すること。」とある。

 中央の委員会によってなされる教育課程の研究は,都道府県や市町村の教育指導者に対し提供される。最近ほとんどすべての都道府県がそれぞれ教育課程研究所を設置しており,それはいろいろな専門的部門をもっている。すべての都道府県が,その地域に適したそれぞれの教科書をもつ日も遠くはあるまいと思う。それと同時に,いろいろな計画が,確立されている原理や方策に基くことを希望する。

 

2.地域社会の現状に対する適応

 英語に対する社会的必要は,地域社会によって事実異なり,また異なるのが当然である。都市に住む人々のもつ関心と必要とは,農村に住む人々のもつものとは違う。たとえば,東京や横浜や大阪のような大都会に住む人たちは,程度の高い実際的な英語の教育に対する必要をより切実に感じる。また商業都市における社会的必要は,工業都市におけるものとは同じではない。遠く山間にある場所であっても,もしそこがたまたま外人の好んで寄り集まる場所であるならば,そこの人たちは,外国語に深い関心をもつかもしれない。同じように,青年の関心と必要とは,住んでいる自然環境および社会的環境と密接な関係がある。

 しかしながら,指導計画を地域社会の現状に適応させる場合に,その地域社会の無知な考えや希望に応じるような軽率さのないように注意しなければならない。もしもある批判を科学的に支持し得ないことが明らかならば,教育者は義務として好意的にその地域社会を啓発すべきである。ある提案や要請に応じることは,それが合理的であればけっこうであるが,地域社会の文化水準を引き上げるような酵母を提供することは教育者の義務である。

 次に忘れてはならない非常にたいせつなことは,地域社会の現状が絶えず変化していくものであって,したがって教育課程の展開は必然的に連続的過程であるということである。地域社会が変化し発達していく以上,固定した不変の教育課程などというものはあり得ないのである。

 

1.教師の体験・研究および観察を通して

 生徒のできるだけりっぱな成績をあげさせてやるためには.教師は,生徒の一般的成授の本質と,それぞれの生徒の個人的特質とを理解しなければならない。教師は青年心理の原理と応用に通じ,そして担任している生徒の関心と必要とについてじゅうぶんに研究しなければならない。教師は一方においてこのようなことを考慮に入れるとともに,他方において,生徒の学習能力と知識運用能力とについて,正しい評価を与えなければならない。この基礎の上に教師は,自分の生徒を熱としんぼう強さとをもって教えるのに適した理想的な教室を建て,そして生徒の協力を得て,有効なありとあらゆるくふうを考え出したり採用したりしていかなければならない。

 青年の関心と必要とは,主として青年の住む地域社会の現状と,国および世界の情勢によって決まってくる。したがって教師は,生徒の必要を生徒の属する地域社会において,日本国民としての必要において,そして世界の市民としての必要において,考えるべきである。英語教師は,生徒がその中で英語を必要とし,また当然必要としそうである実際のいろいろな場合を列挙すべきである。特に強調しなければならないことは,生徒の必要を,その直属する地域社会の一員としてのものだけに集中することは,大きなまちがいであるということである。すなわち,すべての生徒は,たとえ最も遠隔の山村に住んでいても,やはり国民のひとりであり世界の市民である。

 青年の必要をじゅうぶんに理解し青年の実際生活を知ることは,その義務を十二分に果たそうとする共感性をもつ教師にとって,非常にたいせつな事がらである。もし教師が,その生徒と地域社会と国とを愛していて,自国と世界の文化に貢献できるような,りっぱな世界の市民を育てあげようとする欲望をもつならば,じゅうぶんな効果を得ようとして努力することは,さして重荷とはならないであろう。

 教師は教育心理・青年心理および生徒指導について研究し,このような分野から習得される技術に基いて,絶えず自分の生徒を研究することによってのみ,上に述べたようなことを理解できるのである。

 

2.質問書を通して

 すぐれた教育課程を作りあげるためには,英語教師は次に述べるような事がらについて,予備調査を行うべきである。

 

3.面接を通して

 教師はあらゆる機会をとらえて,生徒の父兄・地方教育委員会の人々・その他英語の学習指導に明るい人や関心をもつ人たちと面接すべきである。また会議を開いて,意見の交換をすることもよい。会議が個人間の面接にまさる一つの利益は,会議にかければ,問題にアイロンをかけて仕上げができる点である。教師はこのような面接や会議に関するすべての記録を,将来の参考資料として保存すべきである。

 

4.他校の英語教師との接触

 英語教育課程を展開するにあたっては,他の教育課程の場合と同じように,教師は一方的に自分たちの地域の資料にのみたよってはならない。研究調査はおそらく他の市町村においても,また自分たちの府県ばかりでなく他府県の多くの研究団体によって絶えず行われている。また教師は、同じ地域社会の他の学校の教師と協力して,研究をしなければならない。たとえば,ある一つの町の中でも,地域の異なる学校の間において教師は互に助力し合って,その地域の学校の一部または全部に共通な問題を解決することができる。このような密接な連携がなければ,教育課程の改善はほとんど期待することができない。

 日本の農村漁村のうちには,都市のごく近くにあるものが多い。そのようなところではすべて,村の学校の教師と町の学校の教師とは,互に協調していかなければならない。またそれぞれの地域の教育課程を展開するにあたって,教師は自分たちの府県以外の,他の団体によってなされる研究の結果報告を検討すべきである。もちろんこのような研究にあらわれる意見や結論は,地域を異にする以上,そのまま役にたたないかもしれないが,また,教師は適応できる資料もたくさん見いだすかもしれない。理想的に言って,地域社会のグループによってなされる教育課程研究の結果は,英語に関する専門誌に詳細に報告されるべきで,どの地域的グループも,研究をおえた後は,その研究を雑誌に掲掲載することが望ましいと考えるべきである。

 

 教師は,生徒の,一般的能力と勤務する学校の特色とを考慮に入れつつ,地域における生徒の必要と関心とに応ずるように,その教師独特の指導課程を展開すべきである。次の各項は問題の要点を説明するものである。

1.聞き方と話し方の経験に関して

 何人かの権威者の意見としては,大ざっぱに名づけて「日常会話」なるものを本式に始める適当な時期は,だいたい中学校第3学年とされている。しかし,生徒の住んでいる地域が,たまたま外人客の多く寄り集まる名所であるとか,英語を耳にすることが非常に多い場所であったり,また学校に,たまたま英語に非常に達者な教師がいる場合には,この種の経験はそれより早目に始めてもいいし,また大いにやってもよい。

 

2.読み方の経験に関して

 英語の耳と口とによる方面の能力について必要のほとんどなさそうな,辺ぴな場所に住んでいる場合には,読み方の経験に,比較的多く力を入れることが賢明である。ただしその場合,科学的な方法を採用しなければならない。学習指導要領の適応を,読み方の経験により多く力を入れるようにする際には,必ずしも全部の生徒が読み方において,同じ量の学習活動を必要とするとは限らないのであるから,教師は個人の関心と必要とにじゅうぶん注意を払わなければならない。また,辺境にある学校では,西洋文明より密接に接触しうる都市地域におけるよりも,生徒が学習している言語を常用語としている国民の生活や制度についてじゅうぶんな観念をもつことが困難であろうから,政治的社会的問題や外国の風俗習慣に関して読書の種類をより広い範囲のものにすることが望ましい。ただしこのような知識の多くは,英語の学習を犠牲にしないならば,日本語の読書によって補うことができるわけである。

 地方的問題に関して注意しなければならないことは,若い者の間には,卒業後間もなく,都会に引き寄せられる傾向があることである。また,話しことばを学ぶことは,直接に英語を読む能力を得ることに役だつことも考慮に入れるべきである。

 

3.書き方の経験に関して

 書き方の経験は,外国のいろいろな会社と連絡する必要のある商業都市において,より多く力を入れなければならないであろう。このような都市においてはまた,広告という面から,英語を効果的に使うためのじゅうぶんな知識も必要となってくる。

 町を歩いていると,妙なことばづかいの看板に出会うことが珍らしくない。このような看板は,われわれを当惑させるばかりでなく,誤解を起こすし,また何のことかわけもわからない。英語の教師はある意味において,このようなものを改善する責任がある。教師は生徒を通して,つづり字や文法の誤りを訂正することに助力すべきである。この看板に関することはそのまま,いろいろな種類の広告についても言える。

 

 英語教師および教師のグループまたは団体にとってのいいくふうの一つは,学習指導の助けとして利用できる資料について,完全に近い表を作ることであろう。この学習指導要領(第6章)には,東京都の英語教育研究会によって編集された資料目録を載せてある。利用できるすべての資料の目録は,資料の利用力次第で広範なものにも簡単なものにもなる。学校によっては,他の学校の持つものと全く違った資料を持っているかもしれない。もし自分の地域が資料に富んでいるならば,それをじゅうぶんに利用すべきであるし,もしもそうでなければ,教師は生徒および教師自身を,地域外ではあるが,近いところにあって利用できる資料に接触させるあらゆる方法を考えるべきである。

 次の資料は単なる例にすぎない。地域によって資料は異なる。たとえある地域がたまたま資料の,あるいくつかの部門においては,利用すべきものをほとんど持たないとしても,大多数の地域社会における教師は,蓄音機・ラジオ・英語の図書・新聞・雑誌類を容易に利用できるのである。

 

1.図 書 館

 たいてい市や町,また村にも,英語の学生が利用できるそれぞれの図書館がある。特に今は日本のすべての大都市にCIE図書館があって,生徒はそこで,英語を通して多くの事を学ぶことができる。公共図書館で,もしも英文図書を一冊も持たないところがあったならば,いくらかを備えるように,その図書館の当事者を説き伏せなければなるまい。

 

2.外国映画

 青年は映画が好きである。そして特に外国映画の好きな者が多い。ニュース映画でも,ストーリーでも,非常にいい映画が、近くの映画館で上映されるような場合には,教師は生徒にその映画を見るように勧めることを忘れてはならない。トーキーで話される英語を聞くことは,生徒にとって,英語をなまな状態で聞くいちばんいい練習になる。一つの学級が,教師の指導のもとに,上映中のいい英語の映画を選んで,それを学級全体で見に行くことはいいことである。もし学校が村にあって,映画館が一つもない場合には,いい映画の上映されるときに,近くの町に遠足を行うこともできる。

 

3.有 識 者

 学校は,英語を常用語とする人々の文化について話すじゅうぶんな力をもつ地域社会の人々を活用すべきである。英米文学,英語そのもの,英語を話す国の旅行談や経験談,または一般文化について,学級に話のできる人々がいるであろう。

 もしも地域社会の中に,アメリカ人かイギリス人の家族が住んでいるならば,できたらその家庭を訪問する計画を立ててみることもよい。また本格的に洋風な家でもあるならば,生徒は訪問することによって,英語を常用語とする人々の家庭や家庭生活について,本を何冊も読むよりも多くの事を知ることができる。

 地域的に利用できる資料の表を作るときに,有益な参考書・新聞・雑誌・映画・ラジオの番組・幻灯・レコード・地図・図表・有識者などのすべてを含めるべきである。

 

 教育課程が地域社会の現状に添う特殊なものでなければならない以上,評価の計画もまた,地域の事情に即応しなければならない。言い換えれば,英語の地域的目標は,地域の事情に基くべきであり,したがって評価は直接その目標に基づかなければならない。評価の手段や方法の中には,標準テスト・試験・観察・面接・生活時程録・日記・生徒による自己評価・逸話の記録・指導要録およびその他がある。評価について全く同じ計画を,すべての学校が一様に採用するわけにはいかない。他と比較して,実際面に即した学習を重視する地域においては,教師は耳と口とによる訓練の成果を知ることができるように,評価に努めるべきである。

 評価計画は当然,学校の種類によって違ってくる。全体的に見て,高等学校の指導計画が中学校のものと異なるように,商業学校や工業学校は,それ自体の特殊な計画を展開しなければならない。卒業後,上級の学校に進学しようとしている生徒のいる学校では,教師はそれ相応に発達についての評価を行わなければなならい。しかしながら高等学校は,大学の入学試験に合格させようとして,一方的な教育を施すべきではない。ただそれだけでは目標があまりにも限られたものになって,必然的に,その他の目標や時にはさらに重要な目標を軽視することになる。生徒が,英語に関するじゅうぶんな,話す知識・読む知識・書く知識を得さえすれば,生徒は当然大学のどんな試験にも合格できるわけである。言い換えれば,大学の入学試験は,直接に高等学校の教育課程に基くべきであって,それぞれの大学の要求に基くべきではない。そうでないと,大学が高等学校の教育課程を支配することになり,それは教育的見地から,正当と認められない傾向であり,中等教育の進歩発達に関心をもつ教育者たちによって,当然反ばくされなければならない。

 どんな種類の学校でも,その学校は評価に関する計画として,地域の事情に適応する特殊なものを展開しなければならない。また教師は常に,その地域において,どの程度に地域的目標や期待された成果が得られているかを知るように,評価すべきである。

 

1.組   織

 英語教育課程に関して,終始一貫した継続的な研究を進めるためには,ある種の正式な組織をつくるべきである。このような組織は,下から上へつくろうとしなければならないのであって,上から下へつくろうとしてはならない。次に組織をつくる段階を述べてみる。

 上記の委員会が組織されてから後に,その一部門に教育課程研究グループをもつ,都道府県としての英語教師の団体を設けることになろう。この団体は,地域的グループを,いかなる意味においても抑制すべきではなくて,単に,それを通して人々が考えを述べたり,仕事を計画したり,教育課程の計画や研究に従事したりするところの仲介にすぎない。

 教育課程研究グループは,中学校部会と高等学校部会とに分けるのが妥当であるが,この二つの部会は互に,英語教育課程の不断の改善に協力すべきである。それについて理解してほしい点は,中学校第3学年と高等学校第1学年とはそれぞれ程度の違った学校に属しているからといって,英語教育課程の内容において,2学年間に急激な変化があってはならないことである。英語もそうであるが,どの面の発達においても,それは必らず連続するものである。効果的な学習が行われるためには,大きな間げきがあってはならない。高等学校第1学年の生徒を受け持つ教師は,それぞれの生徒が中学校第3学年の終りに達したちょうどその点から,英語の学習指導を始めるべきである。指導計画の内容を急に変えようとすることは,心理学の重要な法則にもとり,したがって学習をぶちこわすことになる。相当数の府県で,中学校英語教師会と高等学校英語教師会とが,互になんらの関連ももたずに別個に存在する傾向があまりにも多すぎる。教育的見地から見て是認できないことである。

 上述のように,組織は下部から,つまり各校内組織から郡市の組織へ,郡市の組織から都道府県の組織へ,上っていくべきである。ところが,府県等のグループがまず作られたり,また組織としては府県のものがただ一つであって,各校・各郡市には,それ自体の教育課程委員会が組織されていない府県がだいぶあるようである。事実,教育課程の研究でいちばんたいせつなものは,学校や地域においてなされるべきであって,それより大きな組織は,合同研究を行ったり意見や技術の交換をする機会を提供するだけである。

 

2.委員会または研究グループの任務

 校内組織・郡市組織および都道府県組織が行いうる,最も重要な任務を次にあげてみる。

 このような各委員会およびグループの間には,不断の連絡がなければならない。そしてその委員会およびグループが,研究の結果の最もいいものを,市の教育長,都道府県の教育委員会,および文部省に送れば,それを受け取ったものは,それを調べた上で,適当だと思われる意見を,地域・都道府県・および国の学習指導要領の中にとり入れるであろう。