Ⅰ.目標の基礎
1.中等教育の目標と英語教育課程の目標との関係
目標とは学校教育課程の基礎であり,基礎でなければならない。教育課程展開のおもな段階には次の三つある。(1)教育課程の諸目標を確立する。(2)確立された目標を達成するのに生徒の助けとなるようないろいろな経験を計画し実施する。(3)目標が達成された程度を確めるために,結果を評価する。その際,期待どおりに目標が達成されなかった理由と,さらに完全に目標が達成されるように学習指導を改善する方策を含む。教育上および社会学上正当と認められる健全な諸目標がいったん確立されたならば,承認され記述された目標に的確判然と基礎をおいていないような活動を,学校教育課程のうちに入れることは許されない。
わが国における教育の基本目的は,教育基本法第1条に述べられている。
教育の一般目標から,中等教育の目標を引き出すことができる。事実,中等教育の目標は,青年期の男女の発達に適用された教育の一般目標である。中等教育の目標から,中等学校の全課程の一部である各教科目の目標を引き出すことができる。この原理が受けいれられるならば,結論として,英語教育課程が,それ自身の独立した明りょうな目標をもっているのではないといえる。目標は教育課程のうちに存在するのである。なぜならば,教育課程の目標は,中等教育の目標の達成に寄与し,さらには教育の一般目標の達成に寄与することであると信じられるからである。ゆえに,中等教育の目標に一致し,そこから導びかれるいろいろな目標のみが,英語教育課程の目標として採択されるべきである。
2.中等教育の目標
中等教育の目標は学校教育法のなかに次のように述べられている。
第36条 中学校における教育については,前条の目的を実現するために,左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
2.社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能,勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
3.学校内外における社会的活動を促進し,その感情を正しく導き,公正な判断力を養うこと。
第42条 高等学校における教育については,前条の目的を実現するために,左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
2.社会において果さなければならない使命の自覚に基き,個性に応じて将来の進路を決定させ,一般的な教養を高め,専門的な技能に習熟させること。
3.社会について,広く深い理解と健全な批判力を養い,個性の確立に努めること。
中等教育の目標を考えるにあたっては,青年はすべてある共通の必要をもつとはいえ,個人はひとりとして似ていないという事実を考えるべきである。教育課程および目標の立案にあたっては,考慮しなければならないいろいろ違った必要・関心および適性がある。中等学校の教育年齢にある青年男女は,すべてその必要の度合と表出される方法との相違はあっても,一般に次のような共通の必要をもっているといえる。
2.幸福な,よく調整された家庭生活をおくること。
3.事実に基く合理的な考え方によって,問題を解決する能力を発達させること。
4.知的能力を発達させること。
5.社会の一員としての行動において,社会からどのように期待されているかということを学び,どうすれば自分自身の個性を失わないで,社会の要求に調和するかを学ぶこと。
6.生活の保障が与えられ,才能と能力とがじゅうぶんに用いられ,個人的満足・社会的承認および成功を獲得することのできる職業を希望するとともに,その準備としての訓練ができるようになること。
7.健全な身体・精神および感情を維持し増進すること。
8.安定感を得,自分の属する集団に適合し,有能適切な社会の構成員となること。
9.文化遺産を理解し鑑賞すること。
10.芸術・音楽および文学における美を鑑賞すること。
これらの必要を注意深く調べるならば,個人がみずからのじゅうぶんな発達を遂げるためには,人間として,(1)個人的能力,(2)社会的市民的能力,(3)職業的能力,の三種の能力を獲得しなければならないことがわかるであろう。かくしてもし学校が,
(2)生徒が望ましい型の社会人およびりっぱな市民にまで発達することを助け,(社会的,市民的能力)
(3)生徒が自己の職業的関心・能力および適性を発見することを助け,職業を選ぶにあたって指導を与え,職業への予備訓練を助け,(職業的能力)
以上は中学校から高等学校にわたる中等教育の三つの大きな目標であるといえよう。中学校と高等学校との間には,生徒の成熟において,また二つの段階の学校がこれらの目標の達成を試みる方法において差異があるが,すでに述べたような目標は,中学校第1学年から高等学校第3学年にわたる生徒の成長発達に適用されるものである。また,重要さにおいて差異がある。たとえば,生徒がみずからの職業的関心・能力および適性を発見することを助けるのは中学校第1学年ないし第2学年において特に強調される一方,職業に対する予備訓練はある種の生徒の場合には中学校第3学年において始めることができる。
青年期における男女の必要に留意しながらも,目標が教育課程の構成にあたって実際的に有効であるためには,これらの中等教育の三大目標をさらに明細な目標に分けることが望ましい。以下は中等教育の特殊目標を示唆する記述である。
(1) 生徒の知的発達を指導すること。
(2) 文化遺産の価値ある要素を生徒に受け継がせること。
b.生徒が芸術・音楽および文学を理解し鑑賞することの学習に助けとなること。
c.生徒が国語を有効に使用できるようになるのを助けること。
(4) 生徒が感情の安定に達するのを助けること。
(5) 生徒がレクリエーションの適当な手段を発達させるのを助けること。
(6) 生徒の身体と精神との発達を指導すること。
社会的公民的能力
(1) 生徒に有効にして幸福な家庭生活ができるような経験を与えること。
(2) 他人と有効にして幸福に生活し働く能力を発達させるように生徒を導くこと。
(3) 民主的な共同生活と共同作業とにおいて生徒を導くこと。
(4) 生徒が公民的能力または政治的活動の能力を発達させるのを助けること。
(5) 生徒に民主的生活の経験を与えること。
(6) 生徒がそれぞれの地域社会における積極的な構成員となるのを助けること。
(7) 生徒がかれらの地域社会とさらに広い地域との関係を理解するのを助けること。
(8) 生徒がしだいに公共問題について考えるようになり,その解決に役だつようになるのを助けること。
職業的能力
(1) 生徒が職業に対する自己の関心・必要および適性を発見するのを助けること。
(2) 生徒が自己の必要・適性および関心にかなった職業を選ぶのを助けること。
(3) 職業を取得し,維持しうるようなある種の特殊訓練を生徒に与えること。
(4) 援助が必要または望ましい場合,生徒がその職業につくのを助けること。
(5) 生徒の卒業後の進路を見守り,依頼されたときに,さらに援助と指導とを与ること。
(6) 精神的労働と肉体的労働とを問わず,正当で有益な職業には,すべて尊敬の念を発達させるのを助けること。
(7) 生徒が物と奉仕との賢明な消費者となるのを助けること。 以上の目標のすべてに浸透しているものは,生徒をして平和を愛する個人および公民に発達させるという目標である。言い換えれば,平和への愛なくしては,列挙したその他のいろいろな目標を達成することは不可能であろう。ゆえに平和のための教育は,英語教育課程をも含めた全教育計画の条件であり重要な部分である。
生活様式・習慣および風俗に関する個人的ならびに国民的差異を理解しないでは,また自国のものとは異なる生活様式・歴史および文化をもつ人々に対して望ましい態度をもたないでは,生徒は寛容な世界的精神をもつ公民に成長することはできない。さらに生徒は,一般人類の福祉に寄与する公民に成長すべきである。さもなければ,外国語の習得もほとんど意義を有しないであろう。習得した技能はその目的を離れてはなんの意義も有しないのである。
3.英語教育課程の目標
しかしながら,列挙した目標は一般目標であり,おもな目標であることに注意しなければならない。ここには詳細な目標を掲げない。詳細な目標は地域社会ごとに,学校ごとに,また生徒ごとにといわないまでも学級ごとにさえ,変化するからである。中学校と高等学校のために,示唆として本書にあげられた指導計画は,それが一般目標およびおもな目標に基くものである以上,特殊目標のひとつの概念を与えるにすぎないであろう。教育の一般目標・中等教育の目標・英語教育課程の一般目標およびおもな目標と,それに基く特殊目標との間に関係と意義とをひとたび理解したならば,生徒の必要と関心とに従ってかれらの学習活動の詳細な要綱を作成することは,さして困難ではないであろう。
中等教育の目標に関するさらに進んだ研究については,以下の参考資料を参照されたい。
「中学校・高等学校 管理の手引」第2章 文部省発行 昭和24年
「新しい中学校の手引」第1章および第3章 文部省発行 昭和24年
「新制高等学校教科課程の解説」第1部 文部省発行 昭和24年
学習経験を各部分に分ける結果,全体としての教育課程のうちにおのおの独立した課程を設けることになる。この分割は,単に授業の便宜のためになされるものである。したがって,教師は自己の教えている教科目が,教育課程の他の教科目につながりをもたない別のものを構成していると考えてはならない。また,自己の教えている事がらが,全教育課程のいかなる部分からも,または教育目標からも分離できるなどと想像することがあってはならない。この事実は前節で述べた教育原理と本質的に同一であり,その重要さのゆえに,ここで再びくり返すものである。さらにここで付け加えたいことは,教科目または課程が,教育の一般目標,この場合は中等教育の目標から離れては考えられないと同様に,聞き方・話し方・読み方および書き方のいろいろな経験が,今度は,相互から,または英語のすべての学習経験の中核をなす教養上の目標から分離することはできないということである。個人というものは教育の目標のために,いろいろな部分に分けることはできない。人間個人はひとつの有機体として存在し,生活し,働き,反応する。これは「生徒を全体として教育する」と いう標語の心理学的基礎である。
すでに述べたことから,生徒は単に英語を知るために英語を勉強するのではないし,またそうであってはならないことは明らかである。目標はさらに根本的なものでなければならない。それでは個人的・社会的・公民的および職業的能力の発達において,英語はどんな位置を占めるであろうか。中等教育の目標を列挙した表に立ちもどっていえば,英語はなかでも次のようなものの達成に寄与するといえるであろう。
(2) 文化はしだいに国民的規模から世界的規模に移りつつある以上,文化遺産の価値ある様相を生徒に伝達するのに,英語の果す役割は大きい。
(3) 重要な倫理的原理と慣習とが,言語と文学とのなかに含まれているから,英語は品性の発達に資することができる。
(4) 英語国民の家庭生活と社会生活のうちで,価値ある要素の理解と,また重要な部分が英語国民のなかで発達した全世界の国民の民主的遺産を理解させることによって,英語は社会的能力の発達に大なる寄与をすることができる。
(5) 多くの職業,特に商業は,英語を習得しないでは不可能であり,英語が重要な程度にまで世界の商業語となったので,英語は職業的能力に寄与することができる。
B.統合についての注意
統合の原理はきわめて重要であり,いかなる教科目もそれが生徒個人の発達に寄与するのでなければ,教育課程のうちに入れるべきではない。しかしすべての教科目が中等教育の特殊目標の全部に寄与すべきであると主張することは賢明ではなく,教育的に健全ではない。
ある中学校のラテン語科の教師たちが,教育の7目標をもって出発し,その7目標につながりをもつできるだけ多くの経験と教材とを,ラテン語学習の分野において見いだそうとしていかなる努力をしたかの例がある書物1のなかに示されている。たとえば,7目標の一つは,「健康と身体の強壮とを保つ」ことであった。教師たちはなんとかしてラテン語の教材のうちに,生徒の身体を強壮にするという目標に寄与するものを見いだそうとやっ気になって努めたのであった。かれらは競技者としてのハンニバル,ローマ人の健康によい食事・清潔さ・公衆浴場等の学習が,身体的能力の達成という目標に寄与するであろうことを示そうとした。同様にしてラテン語が他の6目標の達成に寄与する方途を見いだそうと努めたのである。これは帰するところ,ラテン語が現代の教育目標の達成を助けることを示して,これを正当化しようとする試みである。 教育の基本目的が,人間の個人的・社会的・公民的および職業的発達にあることはすでに述べた。外国語がいかにして中等教育のすべての目標に寄与するかを示そうとする意図で無理な学習に従うよりは,むしろ現実的にいかにそれが青年男女の発達と中等教育の特殊目標のあるものに寄与するかを示すほうが賢明である。もし外国語が生徒の発達にたしかに寄与するということが示されるならば,目標についてこれ以上深く立ち入る必要はない。上例の誤りは身体的福利の達成が中等教育の目標の一つであるとき,ラテン語科もこの目標に寄与しなければならないとする点にある。事実はハンニバルとか,ローマ人の毎日の入浴とか,その他生徒の清潔に関する事がらは,原語のラテン語によるよりも,古典の翻訳によって読むほうが,はるかに安易にこの目標の達成に役だつのである。英語を理解し・話し・読み,そして書くことを習得することが,いかにして生徒の発達に直接的に寄与するかを示すことによって,英語を正当化するほうがよい。
この問題は,英語の指導計画それ自身の問題にまで発展してくる。なぜならば,機能上の目標と教養上の目標との関係について,誤った概念におちいることがありうるからである。一つの危険は,機能的または言語的面を強調する教師の場合には,教養上の目標をとかく軽視しがちなことである。他方,機能的または言語的面への注意をなおざりにして,教養面を強調する危険もある。生徒はどちらの場合にもわざわいを受けなければならない。これらどちらの場合にも,学習指導が一面的であることを意味するからである。なぜならば,人々の「ことば」をかれらの生活様式から分離することもできなければ,かれらの「ことば」を教えるにあたって,その生活様式を「ことば」から分離することもできない。本書は外国語の学習指導法を論じているのではないが,最も重要なそして基本的な原理に触れざるをえない。学習指導の目標を論ずることは,指導計画のなかに実際に何を設定し,何を生徒に教えることができるかということを論ずることだからである。ゆえに機能上と教養上という目標の分離は,まったく便宜的なもので,英語の課程をたてるのに実際の役にたつ便利な記述方法として用いるだけである。
過度の関心を教養面に当てて,生徒の外国文化についての知識吸収と理解について,社会科教師によってもなされないほどの寄与をなしていると想像しやすい教師の側にも危険は存在するのである。外国語の授業中に与えられた一国民についての文化的知識が,外国語を選択しない生徒のそれよりも多くはない,あるいはほとんど差異がないことは,多くの実験によって立証されてきたことである2。結論としてこういうことが言える。外国語の授業において従来行われてきた以上に教養面を強調しないかぎり,生徒は外国および外国人についての知識を,外国語を習得しない者以上に得ることはないであろう。したがって問題は,教養面をもっと強調すべきであろうかということになる。もしそれが言語技能の発達に対してなんらかの犠牲を意味するものであるならば,常識で考えれば明らかに「いな」といわなければならない。もし一国民の文化が外国語課程とは別に,自国語でまったくあるいはほとんど同様に学習されうるならば,外国語の学習指導にあたって,過度な時間を教養面に費すことはまったく時間の浪費である。よく立案された課程と能力ある教師のもとでは,生徒はかれらが習得しつつある言語の所有者の文化を,その言語の中核にして切り離すことのできない部分として学習指導を受けるのである。これはすでに強調した重要な点である。
今や学習指導におけるもっとも重要な課題である,動機づけの問題に到達したのである。
教師が明りょうに予定された目標をもたなかったならば,その学習指導はばらばらのものとなるであろう。したがって英語教育課程の目標がとりもなおさず教師自身の目標とならなかったならば,それは無意味であろう。さらに重要なことは,それらの目標を生徒の目標たらしめることである。なぜならば生徒がかれら自身の目標を達成するために学んでいるときは,はるかに短時日をもって習得し,習得したものを長く持ち続けるからである。関心もなければ必要の自覚もなくして,生徒がよい学習をすると期待することはできない。生徒自身がかれらのなしつつあることが,特に学習指導が生徒中心とする場合,自己の個人的・社会的および職業的能力に寄与していることを了解しなければならない。さらにここに付け加えなければならないことは,有益であるばかりでなく同時に興味ある事がらの学習指導を勧める重要な理由の一つとして,関心が最高度の重要さをもつということである。その上,内容が目標の達成にいかに寄与しつつあるかをみずから知ることができるためには,生徒にとってそれが価値あるものでなければならない。したがって,ここに目標を述べただけで生徒がそれをかれら自身のものとして受け入れるように導かれないならば,無意味なものとなることは明らかである。このことを達成するための方法については,学習指導書において取り上げる。
この目標を動機づけの手段として役だたしめるという問題は,もし単元法が採用された場合,各単元に等しく適用するものであり,要するに指導計画で遂行されるすべての学習活動に適用するものである。これをちぢめていえば,英語教育課程の一部として生徒のいとなむ学習活動は,かれら自身の目標を遂行しているという点よりして,かれらにとって意味あるものでなければならない。そして全指導計画のうちで,その中核である英語の学習活動が占めるべき明確な位置を生徒も了解することができなければならない。
2.中学校英語教育課程の目標
聴覚と口頭との技能および構造型式の学習を最も重視し,聞き方・話し方・読み方および書き方に熟達するのに役だついろいろな学習経験を通じて,「ことば」としての英語について,実際的な基礎的な知識を発達させるとともに,その課程の中核として,英語を常用語としている人々,特にその生活様式・風俗および習慣について,理解・鑑賞および好ましい態度を発達させること。
B.おもな機能上の目標
(1) 「ことば」としての英語を聞いてわかる技能を発達させること。標準は中学校生徒の発達段階に適当であると一般に認められたものとする。したがって,
(b) 読み方または書き方の技能を発達させるにあたって,習得した聞き方の技能が,そのような技能の習得に必要な基礎および基準として役だつものとなること。
(b) 読み方または書き方の技能を発達させるにあたって,習得した口頭表現の技能が,そのような技能の習得に必要な基礎および基準として役だつものとなること。
(b) 書き方の技能を発達させるにあたって,習得した読み方の技能が,そのような技能の習得に必要な基準および完成を助けるものとして役だつものとなること。
(1) 英語課程の中核として,英語を常用語としている人々,特にその生活様式・風俗および習慣について,理解・鑑賞および好ましい態度を発達させること。したがって,
(b) このような鑑賞と態度との発達が,高等学校の内または外においてさらに進んだ学習をしようとする者にとって,健全な基礎として役だつものとなること。
(c) このような鑑賞と態度との発達が,習得した言語とともに,生徒の個人的・社会的および職業的能力に寄与するものとなること。
(d) このような鑑賞と態度との発達が,習得した言語技能とともに,平和への教育の重要な一部として役だつものとなること。
中学校の基礎の上に,生徒および地域社会の必要および関心に応じて異なる技能を重視し,聞き方・話し方・読み方および書き方に熟達するのに役だついろいろな学習経験を通じて,「ことば」としての英語について,技能および知識を発達させるとともに,その課程の中核として,英語を常用語としている人々,特にその生活様式・風俗および習慣について,理解・鑑賞および好ましい態度を発達させること。
B.おもな機能上の目擦
(1) 高等学校卒業後社会に出ようとする生徒にとって,実際の役にたつような,「ことば」としての英語の技能および知識を発達させること。したがって,
(b) 卒業生は英語で書いたものを読んで,みずからを益することができるようになること。
(c) 卒業生は英語で書かれた標準的な現代文学の作品を読んで鑑賞できるようになること。
(d) 卒業生が必要とするならば,商業英語を実際的に習得させること。
(2) 高等学校卒業後大学に進学しようとする生徒にとって,英語を聞いてわかり,また,みずからも口頭および筆頭で効果的に表現できるような,「ことば」としての英語の技能および知識を発達させること。したがって,
(b) 必要が生じた場合,英語を用いて口頭および筆頭で効果的に表現できるようになること。
(c) 読み方および書き方の技能に熟達するために,口頭表現において習得した技能が,そのような熟達に必要な基礎および基準として役だつものとなること。
(d) 英語またはその他の言語の特定部門を理論的にせよ実際的にせよ専攻しようとする者にとって,技能および知識が,英語においては必要な基礎として,その他の言語においては価値ある基礎として,役だつものとなること。
(b) 専門的事項について英語で書かれた資料を収集し利用することができるようになること。特にこのような文献は,原語にせよ翻訳にせよ,英語でもって得られるものが多い。
(b) それぞれの地域社会または国家を越えて,生き方の知識および人生観を広げ,できるかぎり人類の福祉のためにいっそうよく寄与することができるようになること。
(c) このような技能および知識をもたない場合よりも,効果的に書いて表現することができるようになること。
(d) 英語の特定部門,特に文学またはその他の言語の特定部門を専攻しようとする者にとって,このような技能および知識が,英語においては必要な基礎,その他の言語においては価値ある基礎として,役だつものとなること。
(b) 大学課程の中核である英国および米国の商業実務について,すでに一般的な知識を身につけていること。
(1) 英語課程の中核として,英語を常用語としている人々,特にその生活様式・風俗および習慣について,理解・鑑賞および好ましい態度を発達させること。したがって
(b) このような鑑賞と態度との発達が,大学に進学しようとする者にとって,健全な基礎として役だつものとなること。
(c) このような鑑賞と態度との発達が,習得した言語技能とともに,生徒の個人的・社会的および職業的能力に寄与するものとなること。
(d) このような理解・鑑賞および態度の発達が,習得した言語技能とともに,平和への教育の重要な一部として役だつものとなること。
読者は中学校および高等学校のおもな機能上の目標のどれにも,その用語のなかに『「ことば」としての英語』という語が含まれていることに気づいたであろう。これは教師の学習指導の対象が,「言語活動」としての英語であり,「言語材料」としての英語ではないからであって,ただし後者が前者に寄与する場合のみは例外である。要するに中学校および高等学校の英語教師は英語という言語体系ではなく,英語による言語活動の学習指導に力を尽すべきである。多くの著名な言語学者による言語活動と言語体系(あるいは言語材料)との区別は,英語教師にとって,きわめてたいせつである3。理由は「言語活動」としての英語が中等学校のなかに明確な地位を有しているのに反し,「言語体系としての英語はそれが「言語活動」としての英語の技能の発達に寄与する場合を除いてはこれを有しないからである。 二つの語の意味の相違は,「言語活動」という語が口述,筆記のいずれにしても伝達手段としての言語を意味するに対し,「言語体系」という語は英語の辞書ならびに今までに書かれた,または考えられた最も完全な英語の文法に表われた言語習慣の体系を意味するという事実にある。脚注に参考としてあげた書物のなかでGardinerは,言語の単位は語であり,ことばの単位は文であるといっている。Harold Palmerは言う,「科学の習得は,特に思考力,知性の度合に関係する。技術の習得は特に筋肉反応,技能の度合に関係する」。5「言語活動」としての英語という語がもっているのは,この後者の機能的意味である。ことばを換えていえば,われわれは「言語学習ということを話したり書いたり,理解したり表現したりする諸相において言語の用法を学習することを意味する」5ものとして扱っている。もしこの点が明りょうに心に留めおかれたならば,Gardinerがいうごとく文が「言語活動」の単位であるか,それともさらに小さい何物かが単位であるかは,たいした問題ではなくなる。一般目標およびおもな目標のなかで「話し方」のかわりに「口頭表現」という語を用いている理由は,「話し方」が言語における唯一の「口頭表現」の様式ではないからである。
B.指導すべき英語の性質
指導すべき英語の性質は伝達手段としての受容性と効用性とによってきめられるであろう。それが受け入れられるものであるためには,教育をうけた英語国民のことばでなければならない。それ以上に出ることは,非実際的,非現実的になるであろう。方言を用いる一個人のことばが,教育ある英語国民の大多数によって容易に理解され受容されるものであるかぎり,方言的・個人的差異は問題ではないというのがその理由の一つである。外国の生徒に対してある種のアメリカ語を推奨する英国の言語学者があるかと思えば,ある種の英国語を推奨する米国の言語学者もいる。
本書はそれらの学者の提唱する科学的理由を取りあげるのに適当な場所ではない。しかし受容性または好みという問題が,言語学の分野における権威者たちの意見が全然一致しない事がらであることを示せばたりるであろう。その上,単にそれぞれ相違するなんらかの公的または個人的意見に基いて,一方言が他の方言にまさっているということは,非科学的であると考えられる。さらに,標準日本語が存在するという意味では,英国にも米国にも標準語はないのである。たとえば容認標準英語は,単にひとつの方言であって,すべての児童に教えるべきものとして中央政府によって公式に認められた標準語ではないのである。米国にも一般に受け入れられた標準語はない。その上,ある種の英国のことばである種のアメリカのことばに非常に似かよったものもあれば,一方ではある種のアメリカのことばが,ある種の英国のことばにきわめて似ているのである。たとえば,英国人は語尾の反転音rを発音しないとか,かれらのaは広音であるとか独断するのは正しくない。なぜならアメリカ語に影響されなくとも語尾の反転音rを発音し,広音aを用いる英国人もいるのである。同様にしてアメリカ人についても,かれらのことばは語尾の反転音rと広音aの発音によって特徴づけられると独断することは正しくないであろう。なぜなら英国語の影響をこうむらないアメリカ人で,語尾の反転音rを発音せず,広音aを用いない者もいるのである。もちろん,語尾のrの発音を用いるか用いないかは実際上どの人間のことばにおいても一定現象であるのに対し,広音aを用いるか用いないかは決して一定現象ではないということを記憶しなければならない。なぜならばすべてのaを広音に発音する英国人もいなければ,すべてのaを広音に発音するアメリカ人もいないのである。6 前節において容認標準英語について言及した。これに関する知識は日本人の教師にとって非常に有益である。なぜならほとんど大部分の英和辞典の発音はこの発音を表わしており,それはまた,イギリスの私立学校の発音として通用しているものである。
特にこの種の発音を推奨する Harold Palmer 氏の理由は,科学的な根拠に基いている。7しかし,もし教師がこの種の発音またはそれに近いものを教えようとするならば,教師は発音の性質を知るために,音声学に関する書物を読むことが必要である。しかしながら,常に心に留めておかなければならないことは,みずから習慣的に用いていないような種類の発音を教えることはできないということであり,多くの日本人の英語教師が,これは英国語の特徴がある,これはアメリカ語の特徴があると一般に認められるような発音を用いていないということは,ほぼいえるであろう。容認標準英語に通じていない者のためにここでひと言述べれば,それはイギリスの私立学校で教育された英国南部の家庭の日常語のうちに常に聞かれる種類の発音である。さらにそれは地方性を離れて,英語を話す社会のいたるところに存在する唯一の発音である。それが修飾された形のものは限定標準英語として知られている。それは英語国民の大多数が用いるのではなく少数の者の用いる発音であって,かなりの程度一般に理解されるものである。さらにそれは「正当な観察者によってじゅうぶんに解剖された英語の一発音方言であり,この発音を用いた教科書のほうが多く発行されてきたし,はるかに一般に知れわたっている」8
限定標準英語は容認標準英語が一地方の発音によって修飾されてできた発音である。たとえばスコットランド人は容認標準英語に近くてしかも,かれの地方の特定のお国なまりが表われている発音を用いるかもしれない。
著名なアメリカの音声学者 G.P.Krapp は,「アメリカにおいてと同様,英国においても,標準英語の問題については意見がまちまちであり,ただ学者も一般人も,前に言及した南部英語が他のいかなる英語よりも標準英語としてみなされるべき資格をもつということについてはだいたい一致しているようにみえるし,北部英語は南部英語よりもはるかにアメリカ英語に似ているとともに,事実アメリカ語とはいちじるしく異なっているのは,極端な形の南部英語だけである」9と言っている。しかしながら,社会的にも地域的にも方言の類別が,すでに述べた理由から単に英国語またはアメリカ語なる用語でなされることはできないから,Krapp は広い意味で述べているのである。そこでわれわれの意見はこうなる。すなわち教育をうけた英語国民はお互を理解するのにほとんど困難がないのであるから,教えるべき英語の性質も教育をうけた英語国民のことばであるべきである。また,もしある性質のことばを話す人が,それとはなはだ異なる性質のことばに出会って,相当の困難を覚えるならば,同じ困難が他の性質のことばを話す人にもあてはまるであろう,ということも理由である。 俗語は特に初期の段階では教えるべきではないと思う。おもな理由は,俗語そのものが悪いからではない。それを用いる者にとってはまったくさしつかえない場合があるからである。理由はむしろ一つには俗語が一時的な性質のものであり,正式なことばのなかに通常用いられないからである。ことばとしての言語が交際の社会的手段である以上,教育ある人々のことばの中に受け入れられないような表現を学ぶのに時間を費すことは損失である。また,俗語は特別な場合に効果的なのであるから,英語を学ぶ外国の学生はまちがった文脈または場面に用いて,こっけいになりがちである。俗語を教えないもう一つの理由は,俗語はだらしのない言い方であり,りっぱないい方にしばしばとって代るもので,そのためそれになじんでしまい,ついにはりっぱな標準的ないい方をすることができなくなるからである。そのほか,俗語表現をりっぱなまたは慣用的とみなされる表現と混同する危険も生徒側にあり,またその広い適用のために生徒の言語習慣のなかに深い根をおろす危険もある。
英語は英語国民のことばであるばかりでなく国際的な言語である以上,考慮すべき主眼は,その効用性の度合である。したがって生徒に期待される最低の基準は,生徒が大して困難なしに自己を理解させるようになることである。これは他の事がらとともに,生徒の発音と語調が誤解を防ぐにじゅうぶんな正しいものであるべきであることを意味する。たとえば,thickのthとsickのS,roadのrとloadのl,birdのirとbardのar,boatのoaとboughtのoughのような区別をつける音を少なくとも混同しないように指導されるべきである。同様にして,一つの構造型式と他の構造型式とを見わけうるように学習指導されるべきである。語調は発音とほとんど同様にまたはそれ以上にたいせつであるが,ここではその問題を論じない。強勢または抑揚の異なり方が,言うべきことの意味に驚くほどの影響をもち,強勢または抑揚の変化がしばしば言ったことの意味または感じを完全に変化させるということを述べれば,ここではじゅうぶんであろう。
C.進度とつりあい
高等学校の一般目標のなかで,学習指導が中学校で築かれた基礎に基くべきことを述べた。これは学習指導が独立した事がらであるかのごとくまたはありうるかのごとく,築かれた基礎の上に種み重ねられることを意味しない。中学校にも高等学校にも学年間に進度があるように,学習指導においてもざん進的でまったく自然な進度がなければならない。適当な準備もなしに高等学校第1学年において英米文学の指導を始めることは,ちょうど適当な準備もなしに読み方や書き方の学習指導を始めると同じように健全ではない。最初の段階においては,生徒は高度に文脈的な事がらを教えられるにじゅうぶんな英語の知識をもっていないのであるから,指導すべきことは主として機能的なものとなろう。しかし一から他への進度はざん進的でなければならない。そうでないと学習指導は阻害される。このように進度の問題が,つりあいの問題と密接に関係していることがわかる。もし高等学校において読み方の面を強調するために,言語または言語活動における生徒のそれまでの訓練を無視して,教師が読み方にだけ力を尽すならば,学習指導は阻害されざるをえない。したがって,「発達させるべき技能は」,「生徒と地域社会との必要および関心に従って強調すること」が変ってくるであろうし,また変ってこなければならないということは,進度とつりあいとの問題について深く考慮した場合にのみ,効果的に変化することができるということを意味しているのである。
1 Roy C. Billet,“Current Thought and Practice in the Field of Secondary-School Foreign-language Instruction," Fundamentals of Secondary-school Teaching, Houghton Mifflin,Co.,Boston,N.Y.,Chicago,etc.,Copyright,1940,pp.332-333参照。
2 Robert D.Cole,Modern ForeignLauguages and their Teaching,Appleton-Century-Crofts, Inc,N.Y.,Copyright, 1937,p. 577参照。
3 この問題をじゅうぶん研究するためには,A.H.Gardiner, The Theory of Speech and Language,Oxford, 1932参照。
4 Harold and Dorothe Palmer, English Through Actions, Institute for Research in English Teaching, Tokyo, Copyright, 1939, P. ix
5 Harold E. Palmer,The Five Speech-Learning Habits, Institute for Research in English Teaching, Tokyo, Copyright, 1938, pp. 1-2
6 詳しくは,H.L. Mencken,The American Language,Chap. VII“The Pronunciation of American," Alfred A. Knopf,New York, fourth edition, pp. 319-378参照
7 Harold E.Palmer, The Principles of English Phonetic Notation, Institute for Research in English Teaching, Tokyo, 1928,pp. 51-57参照。
8 Ibid. p. 56
9 George Philip Krapp, The Pronunciation of Standard English in America, Oxford University Press, American Branch, New York, Copyright, 1919, pxi. 発行所の許可により引用。