二 国語科はどんな方向に進んでいるか
〔国語の教育課程は、だんだんと、広い社会の必要に応じるものになろうとしている。〕
これまでの国語教育,ことに中等学校以上の国語教育は、教室の中で古典を読んだり、名文を読んだりすることをおもな仕事としていた。そうした言語文化の習得をとおして、言語生活を向上させようとねらっていた。これに対して、新しい教育課程の考え方では、われわれはどんな言語生活を営むかを考え、その生活の向上に必要な能力をつけようとする。われわれが社会生活をして行く上に読むのはまず新聞であり、聞くのはラジオである。映画も現代生活において一つの地位を占めている。ところが過去において、こうした新聞や、ラジオや、映画の学習を指導することは、国語の教育課程の中にはいっていなかった。最近はそれが、国語の教育課程の一部分を占めるようになってきた。話しことばの学習指導が小学校の一年生から高等学校の三年生までずっと、教育課程の中で一つの地位を得ようとしているのも新しい傾向である。また、古典よりも現代文学のほうが生徒にとって興味もあるし、能力にも合っているから、国語の教育課程の中では、後者のほうがもっと重要な地位を占めようとしている。けれども古典の学習指導を捨ててはならない。多くのりっぱな、価値ある作品が過去において書かれてきており、それを読解する力がつけば、その読書は楽しいものであるばかりでなく、われわれの祖先の生活や精神が理解される。古典の学習が不要なのではなくて、国語教育を古典に限ることが狭いというのである。
このように、新しい国語教育は、広く生徒の言語生活の必要を見わたし、あらゆる生活の場面を国語教育の目標の達成のために利用しようとするもので、国語の教育課程は、豊富な融通に富んだものになろうとしている。
〔国語の教育課程は、言語についての知識を授けるよりも、価値ある言語経験を豊かに与えるという方向を目がけている。〕
従来のいわゆる教科目を主とする教育課程では、教科・学科のわくが堅く守られ、専門学的領域の研究者としての教師の知識を、そのまま生徒に移そうとするきらいがないではなかった。しかし、生徒は皆専門的な国語学者になろうというのではない。また、知識は必ずしも行動や使用と一致しない。国語科で重要なことは、生徒たちに正しい言語習慣をつけることである。聞く力、話す力は、聞く、話すの活動および経験をとおして習得され、読む力、書く力は、読む、書くの活動および経験によって習得されるのであるから、生徒の毎日の生活の中でことばを実際に使用する機会を与えて国語の力をつけることを、教育課程の目標としなければならない。
経験を主とする立場では、教育課程は学校の指導のもとにあるいっさいの経験からなりたつと考える。しかも、ことばの本質は使われるということにあるのであるから、実際の経験を与えることが特に重大である。これからの国語の教育課程は、決して知識をそのものとして与えるものではなく、生徒の興味と必要を中心として、価値のある、必要な言語経験を展開していくようなものでなければならない。知識ももちろん重要であるが、それは、聞く、話す、読む、書くという言語の効果的使用の能力を改善するために学ばれるのでなければならない。
〔国語の教育課程は、読み方・作文・文法という科目に分れず、学習活動が総合的に展開されるように組織される方向にある。〕
かつては、文法を文法として学習し、作文は作文として学習したのであるが、現代は、それらの活動を、一つの総合された学習の中に織り込んでいこうとする。聞くこと、話すこと、読むこと、書くことが、生徒の必要と興味と能力とに応じて選ばれた主題のもとに展開される。このような主題の解決を中心として、生徒の聞く、話す、読む、書くの技能が高まっていく。文学を主とした単元であっても、なんらかの形で、聞く、話す、書く技能の訓練を含むようなくふうをする。これが今後の新しい国語学習指導の形態である。
〔国語の教育課程は、他の諸教科から孤立することなく、全体の学校計画の中で、固有の地位を占めなければならなくなってきた。〕
いうまでもなく国語科は教科の一つで、学校の教育目標を達成するために存在するのである。それに、生徒は一個の人格として、全人的な教育を受けなければならない。したがって、国語の教育課程は、全体の教育課程の一環として計画され、実施されるべきである。それゆえに、国語科の学習の単元の題目が、他の教科と関連することはむしろ当然のことである。社会科の学習の中には、言語活動がたくさん含まれており、他教科においてもそれは同様であるから、国語学習指導の仕事は、すべての教師の協力なしに達成されるものではない。国語教師は、すべての他の教師の助力を得、他教科とよく関連を保って指導にあたるべきである。そしてどのような教育課程を採用したにしても、生徒のことばの力の発達に責任を持つのは、国語科の教師である。
〔国語の教育課程は、生徒のひとりひとりの必要に応じる用意を持たなければならなくなってきた。〕
国語の能力は、生徒の個人個人でかなり違っている。たとえば、中学校の二年生の中に小学校五年生ぐらいの漢字の力しかない者もあり、高等学校生と同じぐらいの力を持っている者もある。めいめい読書の興味も大いに違っている。これからの国語の教育課程はこうした個人差から起る必要に応じる用意を持っていなければならない。個人個人を診断して、それに適した目標を立て、そうして、その能力に適した速さと方法とで学習させるようにしなければならない。また特殊な生徒のために、特別の課程を考えてやらなければならない。
〔国語の教育課程は、評価の体系を備えていなければならなくなってきた。〕
右に述べたように、国語の教育課程は、現代生活の必要に応じなければならないし、生徒のひとりひとりの必要と興味と能力とに合っていなければならない。また指導は、教科というわくにとらわれないで豊かな言語経験への機会を与えるのによいようにしなければならない。いわゆる経験教育課程においては、教科目教育課程の場合よりも、評価ということがいっそう重要になってくるのであるが、ある単元を選ぶ場合には、それがほんとうに生徒の必要と興味に合い、さらに社会の必要に合っているかどうかを見なければならない。また単元の学習の結果ばかりでなく、その単元の進行中も絶えず学習を評価すべきである。これによって学校および教師は将来もっとすぐれた指導計画を立てることができる。このように評価ということは、新しい教育課程にとって欠くことのできない一部分となっている。