われわれは、話すことによってその生活を営んでいるのであるから、これを学習する場と機会は、四六時中、至るところにある。しかしながら、話しことばの重要性、話すことの意義を自覚し、みずからこれを反省し、その欠陥を修正することを怠ったならば、いつまでたっても、自然習得の域を出ることができない。たとえば、公の場所で、話をするとなれば、相手が理解しやすいように、筋を整理し、適当なことばを選ぶ必要があるであろう。相手の興味や疲労を考えて、おもしろい実例や、珍しいトピックを交えることもたいせつであろう。与えられた時間にどのくらいの話ができるかを計って、その長短を加減することもたいせつであろう。自分の声量・声質を考え、緩急・抑揚の変化をつけなければならないであろう。しかしながら、過去にこうした経験を持たない人であったならば、じゅうぶんの用意を整えたとしても、その場に臨んで、自信あるゆとりのある話し方は、まず困難であろう。話す力は実際に話すことによって伸びる。必要と責任の場において、いろいろと経験を重ねることによって、話すことの望ましい習慣や態度が身につき、自然で気どらない声の調子もできるようになる。高等学校においては、話すことの学習は、社会生活において、話すことが必要であるか、あるいは望ましいかすべての場合を考えて、計画的、継続的なプログラムを設定して、生徒各自に必要な貴重な経験をじゅうぶんくり返させるようにしなければならない。話すことの学習は、国語教室に限らない。あらゆる他教科の学習において、学校内外のあらゆる場において、ふたり以上集まるかぎり、これを進めることができる。国語教師は、話しことばの学習において、特に他の教師の援助と協力とを求めなければならない。そして、すべての教師は、単に国語の教師を援助するにとどまらず、こうすることが、基本的な義務の一部であることを認めるべきである。放送・講演・演説などの社会的施設や行事を利用しなければならない。これからの教師、特に国語教師に要求される第一の条件は、まずみずからがりっぱに話せる能力の所有者でなければならないということである。われわれは生徒とともに学習し、生徒とともに伸びていく教師でなければならない。
1 話すことは、常に相手に話すのである。相手はひとりの場合もあれば、大ぜいの場合もある。旧知の人に話すこともあれば、まったく未知の、ときには外国人に話す場合もある。年齢・身分・境遇のまったく違う相手、男女・老若、大ぜいの集まり、そのとき、その場の相手に応じて、まずわかってもらうことを目標にして、学習を指導しなければならない。
よい話し手は、必ずよい聞き手でなければならない。話す力は、聞く力とともに伸びるものである。したがって、話すことの学習指導は、聞くことの学習指導と結んで、実際的な生活的な場面において、その学習を展開するように計画しなければならない。ひとりの話すことの学習は、同時に他の全部の聞くことの学習になる。相手を予想しない、話すために話すような学習や練習は、およそ意味がない。
2 かつての小学校や中学校における話すことは、話し方の学習として、孤立した、生活から遊離した独話の学習指導であった。高等学校においても、校友会活動などにおいて、特殊の生徒にその機会があったくらいで、国語学習では、重要な位置を占めていなかった。
特定の相手を前にして、実際に話すことの必要の場に立って、反応のある生きた話すことの学習を展開すべきである。聞く人の目つき、顔色は、話す人にただちに、そして絶えず、そのことばを注意深く考えさせ選ばせる。大ぜいのじゅうぶんな批評を受けることもできる。同時に、聞く人は、自分の話し方に対する自己評価の豊かな資料を得ることにもなる。