四 その他の資料

 

(一) 図書館 〔国語学習指導を効果的に行うためには、学校図書館を充実し、じゅうぶんに利用しなければならない。〕  相当な蔵書を備えた学校図書館なしで、国語をよく教えようとしても、やってやれないことはないが、困難である。理想としては、学級図書館がなければならない。学校図書館は生徒にとっても、教師にとっても重要な資料を供給する源である。教科書にしばられない自由な教授法を行おうとすれば、どんな種類の教授法でも図書館は欠くことのできないものとなる。古い型の国語教授は、図書館の使用なしでも行うことができ、なおまた、これまでしばしば行われたとしても、新しい国語教授法では大量の蔵書を必要とする。図書館は静止的なものでなくして、成長的なものでなければならない。言いかえれば、一度本の供給整備をするだけで、仕事が完成されたと考えてはならない。各学校は使用中破損した本を年ごとに取り換え、そして年ごとに蔵書の増加を計画すべきである。

 図書館は学習指導の見地から作り上げられなければならない。すなわち、図書館の国語に関する部門は、どんな種類の本がその学習指導に必要であるかを、決定したあとで作りあげられるべきである。

 次にあげる資料は、学校図書館で国語科における使用に役だつものである。もちろん、これらのあるもの、たとえば、標準的な参考書類は同時にまた他の教科の指導にも役だつであろう。

1 標準的な辞典類、たとえば、百科辞典・年鑑・人名辞典など。

2 標準的な参考書類。

3 題目によって分類された絵画つづり。これらはしばしば教室内の談話や討論や作文の導入に役だつものである。

4 いろいろな書類やパンフレット類。

5 日本ならびに外国の古典の叢(そう)書。

6 近代文学や現代文学の全集。

7 中等学校程度の生徒のための本で、話題を豊富にしたり、討議討論や作文などの学習活動に際して、知識を与えるもの。

8 新聞、雑誌類のつづり。

9 レコード(詩・演説・演劇・短編物語・ラジオ放送の録音などを含む。)

10 フィルム・スライド・紙芝居。

 図書館が設けられたからとて、その使用が一つの特別な学習活動と見なされてはならない。全クラスがその学習時間を図書館内で娯楽のための読書や学級またはグループの問題研究のために過す場合もしばしばある。また、ある時間はいかに図書館を利用するかを学ぶために用いることがあってもよい。事実、図書館をいかに有効に使うかを教える仕事は、他の教科において行うよりも、明確に国語科の分野に属している。

 他のどの教科の場合におけるよりも、国語科においては、学級文庫の必要がある。それぞれの国語の教室の一隅(ぐう)には、自由な読書に役だつように、本だな、テーブル、いすなどの設備がほしい。そこには新聞雑誌のほか、小説や随筆、詩の本、学習に密接な関係を持つその他の資料を備えるべきである。

(二) 新  聞 〔新聞は有用な資料を供給する源である。新聞をよく読むような力を生徒に与えることは、国語科の教師の務である。〕  新聞は国語の教室では、これまで資料として用いられなかった。国語教室の重要な目的の一つは、生徒たちが現在の生活や、将来の成人としての生活において必要なあらゆる読書の場で、有効に読書できるようにする力を育てることに援助を与えるということである。いろいろな市町村におけ調査によれば、成人ではあらゆる出版物の中で、新聞が最も広く読まれていることを示している。言い換えれば、一般の人は、他のいかなる型の読み物よりも、多くの時間を新聞を読むことに費している。もし、学校の機能が、各生徒を民主的な社会に協力する有力な一員に仕立てる経験を与えるものであるとすれば、そして、この学習指導要領はこのことが学校の最も重要な機能であるとの考えに基いて書かれているのであるが、学校は各生徒を、毎日の新聞の有能な読者に仕立てる責任を有するとの結論に必ず到達する。もし、中学校または高等学校の卒業生のうちに、毎日の新聞を読む習慣がなかったりする者があるなら、学校はその義務の遂行を怠り、その責任を放任したものといわなければならない。しかも、過去においては、学校はこれを自分たちの責任とは認めず、学校において資料として用いるには、新聞は文化水準の低いものであると考える傾向があった。

 新聞は教育課程のほとんどすべての教科にも有用な資料を供給する源である。すべての学級や課程は、その有効な使用法に力を注ぐべきである。理科や社会科を初め多くの教科において、新聞は広く資料を供給する源として用いられよう。学校のどこかに新聞をいかに有効に使うかということを研究するための計画的なくふうが施されるべきである。現在の教育課程組織のもとでは、この責任は、国語科と国語科教師が負うべきである。中学校・高等学校程度のいずれの学校においても、新聞やその使用法について組織的研究をするための、数週間の単元が設けられることが望ましい。そうして、かかる単元は次のような主要題目や問題を含むであろう。

1 新聞と世論。

2 どのようにして、じゅうぶんに意を尽した世論を喚起することができるか。

3 われわれはなぜ新聞を常に読まなければならないか。

4 どういうように新聞を読めばよいか。

5 新聞はどのように編集されているか。論説とは何であるか、新聞にはどんな種類の記事があるか。記事と論説とはどんな違いがあるか。

6 社説とは何か。論説委員とは何か。多くの論説を読む。それらをクラスで研究する。

7 記事はどうして集めるか。記者の職能は何であるか。校正者の職能は何か。外国通信員の職能は何か。いかなる通信社があるか。

8 いかなる種類の記事があるか。広告・ラジオ・プログラム・スポーツニュース・天気予報・国際ニュース・外国ニュース・地方ニュースなどを研究する。

9 新聞はどのようにして配達されるか。

 この単元の期間を通じて、生徒たちは、教室で新聞を読み、新聞社を訪れ、論説を研究すべきであるが、とりわけ新聞を読む技術の訓練が行われるべきである。

 国語科における新聞の使用は、もちろん一単元に限られてはならない。新聞は、多くの単元において、資料を供給する源として役だてることができるのである。

(三) 雑誌の使用

〔定期刊行物である雑誌を使用して、現代作家の作品に触れさせることができる。〕

 従来の国語学習は、古典に関心を持ち過ぎた。教師は文芸作品が今もなお書かれており、それが現に雑誌に現れつつあるということを忘れてしまっている。現在の作品のうち、未来の古典となるものもあるはずである。教科書の資料は、定期刊行物に現れる現代短編物や詩や随筆で補充されるべきである。特に高等学校では、生徒が現代作家の作品を熟知して、鑑賞できるようにしたり、各学校が現代文学の分野における最良の雑誌の数部を予約購読して活用したりすることは望ましいことである。 (四) ラジオ

〔ラジオを利用することによって、国語教育の領域はいっそう豊かなものとなる。〕

 国語教育の重要な目的の一つは、すでに述べたように正確に聞く能力を伸ばすことである。調査の示すところによると、国内の大部分の家庭が、ラジオを聴取するために多くの時間を費している。学校は、一般の人々の聴取生活の主要面であるこの事実を見のがしてはならない。

 ラジオは、国語の教室で次のように用いることができる。

1 よいラジオ番組の基準を設けて、それに従って番組を選ぶ。

2 他人の話(演説とか講演など)に聞き入って、話し方を学ぶ。

3 教室における討議・談話、その他の基礎とするために、いろいろな放送を聞く。

4 宣伝内容の見地から、何を聞いたかを評価する。

5 話し方・聞き方の経験として、学級内で実際のまたは模擬のラジオ放送をする。

6 ラジオ劇や古典の劇化されたものを聞く。

 ラジオは現代のあらゆる人々の日常生活で、最も重要なものと考えられるので、学校は各生徒が、番組をよく選択し、鑑賞力・理解力・鑑別力をもってよく聞けるように、責任をもって、援助することに努力を払わなければならない。中学校・高等学校のいずれにおいても、ある点で、ラジオ聴取を基礎とした単元が設定され、ラジオ放送に基いて教室内の討論や談話や討議や演説がなされる資料を求められるように、国語科の全課程を通じて、ラジオが種々の場合に用いられるようにくふうすべきである。 (五) レコード 〔レコードは話すことの学習に有効な資料である。〕  蓄音器のレコードは、国語の学習を豊富なものとするために大いに役だつものである。特に劇や短編物やその他の形体の文学作品が利用できればなおさらである。ラジオ放送のレコードなどは、討論を誘導するものとして、またよい話し方の模範として用いることができる。

 教室内の話し方学習のために作られたレコードは非常に有用である。話すことの技術を高めるために刺激したり、誘導したりする最良の方法の一つは、各人が自分の話し声を聞くことである。

 国語の正確な発音を吹き込んだレコードがあるべきである。これらから、共通語が普及できるからである。

(六) 映画 〔映画は視聴覚経験を与える資料であり、よい映画を鑑賞できるような指導が行われなければならない。〕  現代の生活で、聴覚経験と視覚経験との結合である、最も普遍的なものの一つは、映画である。すでにくり返し述べたように、国語科の目標が、生徒の聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの能力をよりよく伸ばすことにあるとすれば、現代の映画は、特に聴覚経験の立場から、見のがすことはできない。

 多くの映画は有名な小説や物語に基いて製作されている。これらの映画を見たり聞いたりすることは、多くの場合、本を読むことより、もっといきいきとした経験を与えるものである。もちろん、映画を見ることと、本を読むこととを合わせ行うに越すことはない。このような映画は文芸作品への関心を強く呼び起すものである。全生徒が団体として所定の学習時間に、正当な教育活動として映画を見る機会があってよい。

 よかれあしかれ、映画が現在社会において存在し、かつまた存続する以上は、生徒たちが鑑賞力をもって映画を選び、そしてよいものを鑑賞できるように訓練するのは学校の責任である。中学校・高等学校のいずれにおいても、適当な学年で、少なくとも一単元は映画を選んだり、見たり、鑑賞したりするために設けられるべきである。

(七) 模型 〔模型の資料としての意義は具体的に事物を理解させることができる点にある。国語教育においても、その利用が考えられなければならない。〕  国語教室で、模型を使用することについては、今まであまり考えられなかった。事物や文章を理解するために模型を使用するということは、生徒たちにとって、単に話を聞いたり、文章を読んだりするだけより、直接それによく似せて作られたものを見るほうが、そのことを理解するためにはるかに効果がある場合がある。