三 国語科において教科書の占める地位

 

〔教科書は国語の学習に最も効果的に応じうる資料集でなければならない。〕  国語学習の資料を集めて系統的に配列したものが、国語の教科書である。国語の教科書に対する従来の考え方は、教科書は国語の表現の模範を示すものであり、これを読むことによって、生徒は正しい表現を知り、たやすく知識を得ることができ、国語に関するあらゆる必要なことを知りうると考えていた。そのために教科書に収められている文章は、いずれもいわゆる名文、文学的な文章であり、それらの表現は完全であり、その内容は正しくよいものであるとして、教師も生徒も疑いをいだかなかった。そうしてもっぱら、文章を解釈し、読書力を生徒の身につけさせるのに役だたせることができれば、教科書としての役割を完全に果していると考えがちであった。それは結局、文学の教科書であり、文学の教科書としても取材範囲が限られてあまりに狭かった。そのほかに単独の文法の教科書があったが、これは言語の形式的な構造を説いた部分的なものであった。また、作文の教科書も作られたことがあるが、ここでも作文だけのコースを考えていた。これからは、単なる文法教科書でなく、文法・作文・話し方をいっしょにした教科書が必要であり、文学にしてもより広い文学的経験を与える教科書が必要である。生徒が楽しんで文学を読みながら、そこから話したり、書いたりするような活動が起り、必要な言語技術や文法の力が学ばれるような教科書も要求されている。

 新しい国語教科書はまたじゅうぶんな語い調整の上に編集されていなければならない。語いや文章の型や漢字の出し方などは、生徒の能力の発達に応じて、無理がないように考慮されていなければならない。

 要するに、これからの国語教科書は、国語教育の目標を達成するに必要な経験を提供するものであり、生徒の発達段階に合っていて無理なく学ばれるものであり、興味をもって喜んで迎えられるものであり、語いや漢字の負担についてじゅうぶんに考慮を払ったものでなければならない。

〔教科書を活用するとともに、教科書のみにたよらず、それぞれの状況にふさわしい各種の資料を求めなければならない。〕  新しい傾向の国語教科書は、最も重要な資料の源であり、また言語活動のいろいろな面をできるだけ考慮して編集されている。しかしながら、話したり、聞いたり、書いたりするための資料よりも、読むための資料が多く、読書資料としての性格が多く現れている。読書が、小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校と、その重要性を増すことは事実であり、教師はその意味で、読書資料としての教科書をじゅうぶんに活用すべきである。

 それとともに、教師は教科書をよく検討して、学習指導が読むことを中心としてのみ行われ、いわゆる教科書中心主義の学習に陥らぬように、それぞれの学習状況にふさわしい資料を求めて、効果的な学習活動が行われるように、計画を立てなければならない。

 国語教科書を資料として用いる際には、次のような点に注意して、資料としての適を検討することが必要である。

1 教科書の各単元は生徒に適当しているかどうか。

2 文章・語句・文字などは生徒の能力に合っているかどうか。

3 単元の展開に必要な学習活動は、国語科にふさわしいものであるかどうか。

 新しい傾向の国語教科書は、こうした点について、それぞれ考慮していることが感じられるが、教師がめいめいの生徒の発達段階や、国語教育の広い目標に照して検討してみると、いかによい教科書であっても、いろいろな点において、資料として教科書だけにたよっているのではじゅうぶんでないということに気づくであろう。