三 小学校・中学校・高等学校における国語学習指導の一般目標は何か
〔国語学習指導の目標を決める前に、国語は社会においてどのように働くか、国語を学習することはわれわれにとってどんな意義があるかを見きわめなければならない。〕
今までは、国語は家庭や社会で自然に学ばれるもので、学校では生徒の言語の誤りを正し、特に話しことばにおける方言やなまりを正せばよい、ただ、読み書きの仕事は高い知的活動であるから、学校の系統的な学習指導は読み方と書き方と作文とに向けられなければならないと考えられていた。しかし、この考え方では、学校の国語教育の領域は非常に狭くなってしまう。
われわれは、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことが、社会生活をしていく上にどれだけ必要か、人間の成長発達にとってどんな意義があるかを考えて、これを学習する目標を立てていかなければならない。
言語はどんな役割を持つかということについて、次の三つのことがあげられる。
(一) 言語は、互いに意思を通じ合うのに必要で、社会生活には欠くことのできないものである。
(二) 言語は、思想や感情と深い関係を持ち、考えを進める上に欠くことのできないものである。
(三) 言語は、どんな学問や技術を学んでいくのにも媒介をなすものであって、この意味で文化の獲得創造に欠くことのできないものである。
言語は、人間生活にとってこのように深く広い意義を持っているから、ある程度までは家庭や社会で自然に習得されていく。それゆえ、これまでいつも、日常生活に必要な国語を理解し、使用する能力をつけることが、国語教育の第一の目標とされてきた。これからの日常生活は、ますます文化的になり、生活と文化とを切り離すことができなくなっていく。文化は言語を媒介として創造され獲得されるのであるから、これからの生活では、言語の学習が必要になる。たとえば、ジャーナリズムは文学を大衆の日常生活のものとすることに役だっているが、これからは、どんな人にも生活を明るく豊かにする文学を理解し、鑑賞する能力が必要である。
〔このような性格を持った国語を正しく効果的に使っていくようにすることが、国語学習指導の仕事である。〕
新しい教育では、すべての教科について、習慣・態度・技術・能力などということがいわれているが、国語科においてもやはり同様である。国語のほうで本質的なことは、ことばを使っていく技術であり、能力である。従来はあまりに、ことばや文字についての知識・理解の方面に重きが置かれていた。聞くこと、話すこと、読むこと、書くことは、みな一種の技術であって、技術として学習され、指導されなければならない。それは、精神的にして同時に身体的な習慣・態度であるから、特に、小学校低学年の発達段階では運動感覚的および視覚的、聴覚的な訓練も必要である。そしてことばを使う習慣・態度・技術・能力を正しく設定して行くために、ことばに対する鑑賞力を増し、知識や理解を深めなければならない。これからの国語教育では、こうした習慣・態度・技術・能力・鑑賞・知識・理解の一面に偏することなく、常にその全体を目がけて、言語生活の理想を高めていかなければならない。
〔国語学習指導の目標を、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことに分けて言えば、次のようになる。〕
(一) 社会生活上自分に必要な情報や知識を得るために、他人の話に耳を傾ける習慣と態度を養い、技術と能力とをみがくこと。
聞くことはやさしいようであるが、むずかしい。聞くことは精神の集中を必要とする積極的な活動である。聞くことの指導、ことに、聞く態度の指導は、今までの教育でも相当行われた。学校に入学する児童は、家庭でかってに話していたときとは違って、まず聞く態度の指導監督を受けたものであった。これに反して、どうしたら聞くことがよくできるか、聞く技術の指導のほうは割合に行われなかった。これは、聞くことの意義・価値に徹底せず、聞くことの学習指導の目標がはっきりしていなかったからである。生徒は他人の話に耳を傾けて理解し、その人の立場を知るように指導されなければならない。また、他の人々の立場に寛大さを持ち、意見の相違があるのは当然であると考えるようにする。同時に、ほかの方面から聞いたことや読んだことを比較して批判的に聞くようにしなければならない。
(二) 自分の意思を伝えて他人を動かすために、いきいきとした話をしようとする習慣と態度を養い、技術と能力をみがくこと。
何のために話をしているのか、何を話しているのか、要領を得ないような話し方は、社会生活にとって妨げとなるばかりでなく、正しく思考する態度にも合わない。話し方は、簡単めいりょう、効果的でなければならない。そのような話し方の習慣・態度を養い、技術と能力をみがくことが、国語教育の大事なねらいである。
(三) 情報や知識を得るため、経験を広め教養を高めるため、娯楽と鑑賞のために、広く読書しようとする習慣と態度を養い、技術と能力をみがくこと。
日常の生活では、ある問題について考えるための素材として情報を得て行く読みが重大である。また、教養や娯楽のための読書も、適切な指導を必要とする。ごくわずかの資料を詳しく読むことも必要であるが、広く読む、さらに、たくさんの書物の中から自分に必要な書物を早く見いだすというような技術も必要である。
(四) 自分の考えをまとめたり、他人に訴えたりするために、はっきりと、正しく、わかりやすく、しかも独創的に書こうとする習慣と態度を養い、技術と能力をみがくこと。
これは書くこと全体の目標で、したがって作文の目標であり、また、習字の目標でもある。作文は、話し方と同様、はっきりと、筋道が立ち、また、わかりやすく、文法的にも正しくなければならない。習字では、正しく、わかりやすく、そして美しいということが必要である。従来、習字は美しいとか力があるとかということが主であったが、これからは、相手によくわかるということをもととして、表現効果の一つとして美ということをも考えていくべきであろう。
〔これらの諸目標を一つにまとめて言えば、ことばを効果的に使用する習慣と態度を養い、技術と能力をみがくことであって、そのためにことばについての鑑賞力と知識と理解を増し、言語生活の理想を高めなければならない。〕
右に、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの指導についてそれぞれの指導の目標を説明したが、これは、これらのことが別々に学習されなければならないというわけではない。聞く、話す、読む、書くは、言語を記号として使用するところの全体としての言語活動の各部分である。
したがって、国語学習指導の目標は、言語の使用をより正しく、より効果的にすることであるといってよい。そこに文法教育の正しい位置づけが得られ、また文学教育の真の意義も考えられてくる。このような国語の学習とその適切な指導とによって、広く言語の習慣が改善され、わが言語文化が高められることが期待される。
〔国語の学習指導は、全体の教育の一環として、民主的な社会を作り、国際的理解と親善を増し、国民道徳を高めることに寄与するよう、常に心がけていなければならない。〕
国語の学習指導の目標は、直接的には、国語を正しく効果的に使っていく習慣と態度を養い、技術と能力をみがき、鑑賞力と知識と理解を増し、理想を高めていくことであるが、国語科がこの目標を達成するには、生徒は実際に何かについて話し、何かについて聞き、何かについて書き、何かについて読むのでなければならない。そこに、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの題材がでてくるが、それは当然、教育全般の目標に応じて選ばれなければならない。この場合、国語科としては、特に、道徳教育・民主教育・国際的理解親善に寄与することを心がけるべきである。
ことばは社会関係の中で使われるものであるから、国語学習指導の直接の目標である、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの正しい習慣と態度の設定は、それ自身ですでに道徳教育である。そしてそれは民主的な社会を作る基礎をなすものである。その上、われわれは、よい文学作品に触れることによって、道徳や社会への理解と判断を増し、国際的関心を高めることができるであろう。
国語の学習指導の計画を立て、具体的目標を設定する場合には、常に、国語科は全体の教育の一環であることと、われわれが今、民主的な社会を作り、国際的理解と親善を増し、国民道徳を高める必要に立っていることを考慮していなければならない。