第5章 社会科における評価

 評価といえば,児童が学習によって身につけたものを,児童の個々について評価して,これを記録することだけであるように考えられがちであるが,そのようなことは,実は評価の一部面にすぎないのである。社会科で評価の対象としてとりあげることは,単に個々の児童の学習成果だけでなく,もっと広い範囲の事がらであって,少なくとも次にあげる三点に及ばなくてはならない。これらの三つの事がらはまったく別々なものではなく,相互に関連をもつものであるが,一応区別して考えたほうが便利である。

 以下これらのいちいちについて,それぞれどのような観点のもとに,だれによって,どのような機会に評価が行われるべきかを考えてみよう。

 しかし最初に明記して特に注意をよびおこしておきたいことは,社会科において指導と評価とが,絶えず結びついていて,切り離すことができないということである。

 評価ができなければ次の指導に進むことができない。さらに具体的にいえば,次の計画のたて方,運営のしかた,したがってまた計画の修正のしかたがわからないということである。絶えず評価するということなしに単元学習を運営するのは,まことにくらやみの中を手さぐりで歩くにも似ているであろう。評価は終点ではない。新しい出発点である。次の指導のために役だたない評価は死んでしまっている。このことが明確にされていないかぎり,正しい評価は,成立しえないのである。

 

 一,学習指導計画の評価

 学習指導が行われるためには,あらかじめまず単元が設定されなくてはならない。またいちいちの単元については,その目標が適切にたてられ,その目標に到達するための学習内容,および学習活動が選択され組織されなくてはならない。すなわち学習指導計画があらかじめたてられなくてはならないのである。

その計画の良否はただちに学習の結果に現われるものである。教師がいかに指導法に苦心しても,計画そのものに無理があれば,児童が生き生きと学習することはできないし,したがってじゅうぶんの成果を収めることができないのである。それゆえ教師は,常に自分のたてた指導計画を実施後反省し,評価し,絶えずこれを修正していくように心がけなくてはならない。

 この場合評価の観点として,次のような点が重要であろう。

イ.目標に関して a.目標は民主的な社会生活にとって重要な理解・態度・能力などを含むか。

b.目標が児童の発達程度にふさわしいか。

ロ.学習内容に関して a.目標に到達するために適切な内容であるか。

b.内容が多すぎたり,むずかしすぎたりはしないか。

c.地域社会で経験できるものをじゅうぶん生かしているか。

ハ.学習活動に関して a.適切なプロジェクトや問題解決が中心になっているか。

b.学習活動が単調でありはしないか,たとえば調査とか話し合いとかにかたよりはしないか。

c.児童全体が生き生きと活動したか,一部の児童の活動だけに終りはしなかったか。

d.計画が弾力的で実施しやすくなっていたか,すなわち予備の計画したがって学習活動が準備されていたか。言い換えれば計画は何段構えにもなっていたか。

ニ.学習の時期および時間の配当に関して a.前の単元とのつながりはよかったか。

b.学習の時期が季節や社会的行事とうまく合致していて,これを利用できるようになっていたか。

c.時間の配当が適切であったか。

 以上は教師が自分のたてた学習指導計画を評価する場合の観点であるが,高学年になって,児童が学習の計画に部分的にせよ参加する場合には,上にあげたような観点は,児童が自らの計画を評価する観点ともなるであろう。また他人の授業をみる際の評価の観点ともなるであろう。

 次にこのような評価を行う時期であるが,教師は学習の進行途上常に上のような観点からの評価を怠らず,必要があればいつでも計画に変更を加えなくてはならない。また気づいた点はできるだけ克明に記録しておいて,単元の終了後全体としての反省を怠らないようにし,次の年度における計画の参考にしなくてはならない。

 わが国の現状では,学習指導計画の評価,なかんずく単元計画の評価は等閑に附せられている傾きがある。しかし単元が適切に計画されていないと,せっかく多くの時間をかけて学習させても,それが的をはずれて効果がなかったり,教師が指導法に苦心するにもかかわらず,児童が生き生きと動かず,終始たいくつのけはいを示すようになったりするから,単元計画に対して不断の反省を加え,これをよりよいものにつくり直すことを怠ってはならない。

 

 二,学習指導法の評価

 学習指導計画がどれほど適切なものであっても,教師の指導がよろしきを得ないならば,これを動的に展開して,児童に効果的な学習をさせることができない。したがって学習指導法の研究は教師にとってきわめてたいせつなことである。そのためには指導法の原理の研究も必要であるが,もっとたいせつなことは,単元展開の途上における具体的な場合に応じて,自分のとった指導法が適切であったかどうかを反省し評価して,それに基いていっそう効果的な方法をくふうすることである。

 学習指導法の評価の観点としては,およそ次のような諸点があげられるであろう。

イ.導入に関して a.望ましい発端活動に向かって,じゅうぶん動機づけをしたか。

b.学級の大部分の児童が,共通な欲求や問題をもったか。

c.環境を適切に設定して,具体的な欲求や問題を誘発したか。

ロ.その後の学習活動の発展に関して a.学習活動の発展の契機,すなわち,児童の中に発生してきた望ましい欲求や関心や問題を適切にとりあげたか。

b.児童の中に芽ばえてきた望ましい欲求や関心や問題を強めるために,適切な助言を与えたり,環境の再構成を適切に行ったりしたか。

c.教師の活動の機会や度合が適切であったか,たとえば,児童の話し合いが紛きゅうしてきた時に,教師がこれを解きほぐして,児童の問題を明確にしてやったか,板書をしたり,ノートをとらせたりすることによって,児童の学習を整理してやったか。
    児童の誤った問題解決を適当に是正したか。

      教師が一方的に活動しすぎて,児童を受動的にしたようなことはないか。
d.児童の態度を指導する機会をよくとらえたか。たとえば,グループで作業する際,話し合いの際,見学の際において。

e.個々の児童に指導がいきわたったか。
 

ハ. 単元の終末に関して  
a.児童がこの単元で習得したものを再確認するために適切な方法を講じたか。

b.この単元の学習によって発生してきた児童の関心や問題を効果的に発展させるために,適切な処置を講じたか。

 以上の諸点は,教師が自己の指導法を評価する観点であるとともに,他の教師の授業をみる場合の観点ともなるであろう。

 教師は単元学習の進展の途上常に上の諸点に留意して自己の指導法を評価し,そのつど気づいた点を記録に残すことによって,一単元終了後,静かに全体の反省をして,これを記録にまとめて,今後の指導の上でのくふうの資料にすることが望ましいであろう。

 

三,児童の学習成果の評価

 いうまでもなく,学習成果の評価は,その単元の学習目標と切り離して考えることはできないのである。所期の目標がどの程度に達成されたかを顧み,確めることがすなわち学習成果の評価である。したがってこの場合の評価の観点は目標と表裏の関係をなすものである。目標をひるがえせば,すなわち評価の観点となるのである。したがって学習成果の評価を正しく行うためには,その観点である指導目標を明確につかんでいることが何よりもたいせつである。

 指導の目標は単元計画をたてる際にすでに確立されていなくてはならない。それは児童の,社会生活に必要な知識・理解・態度・能力を含むとともに,学習の態度・能力・すなわち,問題のはあく,その解決のために計画,解決に必要な資料の収集・整理,その報告および検討,などに関する態度・能力をも含むのである。

 その中知識・理解に関しては,第3章に学年別に具体的に示してあるもの,および付録に示されているものが参考になるであろう。態度・能力に関しても,第3章に示されているものも参考になるが,その上に第2章に総括的に示されたものを参考にし,学年の程度と,その単元で行う児童の学習活動とに照して,これを具体的に立てる必要がある。目標が具体的になっていなくては,評価の観点とはなり得ないのである。たとえば,「他人の権利を尊重する態度」というだけでは,評価の観点にはならない。これが,1年生ならば,たとえば,遊ぶ時に順番を待つ態度,学習の際に大きな声を出して他人に迷惑をかけない態度,というように具体的な行動の形で表現されていてはじめて評価の観点として役だつのである。

 なお先に述べたように,目標は本来単元計画をたてる際に確立されるべきものであるが,単元計画はもともと固定的なものでなく,弾力的なものであって,単元の展開が予想通りにいかず,行きづまりにぶつかったならば,これを変更すべきものであり,予想しなかった望ましい学習活動が児童によって提案された場合には,当然これをとりあげるべきであるから,具体的な目標もそのつどつけ加えられるのが当然である。なぜならば,児童の活動の行われるところには必ず指導の目標が明確になければならないからである。

 さて,このようにしてたてられた目標を観点として学習成果の評価がなされる場合に,わたくしたちはこれを二つの面から行わなくてはならない。その一つは学級児童の全体としての進歩の評価であり,その二は個々の児童の進歩の評価である。

 学級全体としての進歩を評価する観点としては,たとえば,問題のはあくのしかた,学級全体が協同して計画をたてる態度や能力,分担した仕事を責任をもって遂行する態度,討議を建設的に行う態度や能力などがあげられる。これらはもちろん児童の個々についても評価できるが,学級が単なる個々の児童の集合以上のものであるならば,個々の児童についてこれらの態度や能力の評価をするばかりでなく,学級全体として,これらがよくできる体制をどの程度に整えてきたか,これらの点に関して,望ましいふんい気がどのくらいできてきたかが,常に評価の対象にならなくてはならない。これは教師によって評価されるばかりでなく,児童によっても評価されなくてはならない。

 また,一つの問題を,学級内の児童の何パーセントくらいがはあくできたか,その問題解決の過程や解決の結論が,何パーセントくらいの児童にわかったかということについても,教師は常に関心をもち評価を怠らないようにしないと,全児童の学習を生き生きと効果的に進行させることはできないであろう。

 以上に例示したような観点に基いて,学級児童の全体としての成果や傾向評価するのには,むろん個々の児童の評価の結果も,大いに利用されなくてはならないが,教師はその助けを借りるまでもなく,不断に観察眼を働かせて,おおづかみでよいから,このような全体傾向を鋭く察知することが必要である。

 

 次に個々の児童の学習成果の評価について考えてみよう。

 あらためていうまでもなく,教師の指導は,ひとりひとりの児童の力伸ばしていくということを究極の目的として行われる。以上に述べてきた種々の評価もまた,個々の児童の資質を向上させるための手段であり,したがって個々の児童が実際これだけ伸びたという評価によって裏づけられなくてはならない。

 いかに学習指導が円滑に運営されても,有益と考えられる教材が学習にとりあげられても,それは必ずしも児童にじゅうぶんな力がついたということを意味していない。どんなに豊富に与えてみても,児童がじぶんのものにし得ないならばそれまでである。

 このように考えてくると,児童の個人差というものは,きわめて大きな意味をもってくることがわかると思う。すべての児童がそれぞれ力を伸ばすことこそたいせつなのであって,全員が一定の線にそろうというようなことは,むしろ不自然であり,それにこだわるというのは意味のないことである。したがって児童と児童とを比較したり,進度の基準を定めてそれに照したりするということは,便宜的にみてこそ,すなわち手段としてこそ価値があるけれども,決して教育本来の趣旨でないことを忘れてはならない。しかしこのように個々の児童についてその進歩向上をみるためには,教師はもちろん真によく児童を知っていなくてはならない。児童をよく知ることなしに指導,特に評価を行うということは,まさしく木によって魚を求めることである。

 

 さて個々の児童の学習成果の評価についても,最もたいせつなことは,評価の観点の確立であり,しかもそれは教師が指導の目標を明確にはあくしているということである。ただしかし,指導目標が評価の観点となるためには,それが具体的に考えられていなくてはならないことは,前にも述べたとおりである。

たとえば,「商店」という単元の目標が「店について知識をもたせる」というようなばく然としたものでは,評価の観点とはなり得ないであろう。

 これを,たとえば,

○世の中にはいろいろな店があって,わたくしたちが必要な品物を容易に手に入れることができるために役だっていることを理解させる。

○店は人の多く集まるようなところに多く立ち並んでいることを理解させる

○店で売っている品物は,社会の多くの人々の手でつくられ,運搬されてきたものであることを理解させる。

○どこの家でも必要なものを手に入れるために,いろいろくふうしていることに気づかせる。

○店へ買物のおつかいにいく場合に必要な心得や,ことばの使い方を身につけさせる。

 というように具体的なものにすることが必要である。

 また,前にあげた例であるが,たとえば他への権利を尊重する態度を養うことは,社会科の一般目標の重要なものであるが,これをこのまま掲げたのでは評価の観点としては役にたたない。これが各学年の児童の生活の,いかなる場面において,いかなる行動となって現われるべきかについて,具体的に考えておかなくてはならない。たとえば1年生ならば,遊びという場面においては,遊具を使用するのに順番を待ったり,これを独占しないという行動,学習の場面では,不必要に大きな声を出したり,物音をたてたりして人に迷惑をかけるような行動を慎むこと,あるいは自他の所有物を区別して,他人のものを黙って使ったり,借りっぱなしにしたりしないこと,などのように目標が具体的に考えられていてはじめて,これをどのような場面,どのような機会に観察すればよいかという評価の具体的な方法がたつのである。

 

 評価の方法としては,児童の言動の観察や,児童の製作した地図・統計・説明図などや,児童の調査研究の報告書・作文などを手がかりにしたり,テストを行ったり,いろいろな方法が適宜にとられるべきである。

 この中で観察法は最も基本的な方法であるが,これを有効に行うためには,次のような注意がたいせつであろう。

1.すべての児童をまんべんなく観察すること。

2.どのような場面で,どのような行動を観察すればよいかを予想していること。しかし予想外の場面で予想外の望ましい行動を発見することもできるよう,心のゆとりをもつこと。

3.個々の児童に対して先入観をもって臨まないこと。すなわち優秀児,遅進児というような観念もって臨まず,どの児童からも望ましい行動を発見しようとする心構えをもって臨むこと。

4.気づいたことはできるだけ記録し,これを集積すること。

5.観察をできるだけ客観的にするために,簡単な評定尺度を作ることもよいであろう。

 指導記録をとるということについては,先にも触れたのであるが,このことは単に児童の学習成果を評価するためばかりでなく,教師の指導力を向上させるためにもきわめて効果の大きいことは注目に値する。絶えず詳細な記録をとることは至難であろうが,部分的にでもできるだけ詳しくとって反省検討するということをすれば,必ず得るところが多いであろう。またおっくうがらずにできるような形式で,簡単でもよいから,忘れないうちになまなましい記録をとっておけば,たとえそれがメモ程度のものであっても,児童に対する評価の貴重な資料となることは疑いない。要はそのような記録をとることが教師の習慣になり,しかもこれをとりっぱなしにしないということがたいせつなのである。

 

 次にテストに関しては,従来多くとられていた文章で答える方法は,評価者の主観に左右されるところが大きいというところから,これをもっと客観的にする方法,たとえば,真偽法・然否法・選択法(再認法)・完成法などがくふうされているから,これらを適宜に用いるのがよいであろう。これらの方法は社会科だけのものではないから,ここでは特別立ち入って説明しないが,特に注意を要することは,教師はこれらを必要に応じて用い,その結果を適切に活用すべきであって,かりそめにもこれらにとらわれてしまってはいけないということである。どのような便利な方法も,それを使いこなす力や観点がなければ,かえって害がある場合が少なくないし,またそのような力や観点がじゅうぶんに用意されてくれば,とかく見過ごしがちなささいな事がらさえも,評価の上に大きなはたらきをすることになるであろう。

 なお社会科におけるテストとしては,上にあげたような,主として文字や文章を与えて行うテスト法以外に,たとえば地図を与えて,読図能力や地理的考察力をテストしたり,統計を与えて,これを解釈させたり,それから一事象と他事象との関係を考察させたりするなど,さまざまな方法をくふうすることが必要である。

 また,ある内容をもった文章を与えて反応をためしたり,適切な問題をとらえて感想をつづらせたりしてみれば,児童の理解や態度の進度をはかる上に,きわめて有意義だと思われる。これらの方法は,いわゆる客観的テスト法ではないかもしれないが,教師が一定の観点をもち,洞察力をよく働かせるならば,これによって,先にあげたような,いわゆる客観的テスト法だけではとらえることのできない点をとらえて評価することができるであろう。児童の学習成果を量的に測定し,点数で表現することだけに目をうばわれると,いわゆる客観的テスト法のみにたよることになるのであるが,児童の考え方や態度を質的に評価するためには,これらの方法もたいせつであろう。

 とにかく社会科における学習成果の評価は,特質を記述するかたちによってなされることがたいせつであって,点数として表現されるのは,むしろ方便にすぎないことを忘れてはならない。

 最後に,児童の学習成果の評価は,だれが,いつするかという問題である。

 もちろん最後の評価を行うのは担任の教師であるが,担任教師はじぶんの眼だけにたよらずに,同僚の教師や,さらに父兄の見るところも大いに参考にすべきである。

 これを行う時期は,学期の終りとか,一単元の終了した時というように,特別な時にのみ行うべきでなく,常にあらゆる機会にこれを行うべきであることはいうまでもないことである。