第4章 単元のつくりかた

 一,単元とは何か

 社会科の任務は,児童が現実の生活の中で直面する問題とらえて,その解決を中心にして有効な生活経験を積ませることである。

 そして有効な生活経験は単なる断片的な経験の寄せ集めではなくて,まとまりのある,組織された経験でなくてはならない。

 この経験の組織,言い換えれば学習活動が問題解決を中心として次々に発展していって形づくられるまとまりが,社会科の単元である。

 しかし,このような説明だけでは,まだ単元というものの意味がじゅうぶんに明らかになったとはいえないであろう。そこでこれをもっと具体的に理解するためには,単元学習の特質を,古い学習方法と比較しながら具体的に検討してみることが必要であろう。

 単元学習の特質として,次の諸点をあげることができる。

 第一に,児童が学習する事がらが,児童の関心や欲求にもとづいて,児童自身の問題として,しっかりはあくされていなければならないということである。すなわち,児童は問題をみずからのものとして納得し,はっきりした目的をもって,自主的に活動するのでなくてはならない。

 教師によって何かが課せられ,児童自身には直接意味のない課題の学習が進められているということであってはならない。したがって,

 第二に,その学習は児童によって計画的に進められなくてはならない。そのためには,学習計画は常に教師と児童との協力によってたてられる必要がある。教師が一方的に計画をたて,児童はただその計画に従って学習を進めているということであってはならない。

 第三に,そこでは,生き生きとした多種多様な学習活動が行われなくてはならない。単に黙って教師の講義を聞き,言いつけられたとおりに教科書を読み,文字を書いているという学習活動だけではなくて,みずから種々さまざまな方法を用いて,資料を集めたり,これをまとめたり,表現したりするような,あらゆる学習活動が営まれなくてはならない。

 第四に,児童のこのような学習活動の結果として,社会生活をする上に価値のある知識・理解・態度・能力が,真に児童のものとなって,かれらの身についていくのでなくてはならない。

 二,単元は,だれが,どうしてつくるか

 単元は,その性質上,個々の学級教師によってつくられることが必要である。なぜなら,単元の構成と展開の基盤になる児童の具体的な問題や必要や欲求は,それらの児童と日常接している教師だけが,じゅうぶんにつかむことができるからである。すなわち,児童の気持やその動きをはっきりととらえている人は,担任の教師以外にはないからである。

 では,学級教師は,どのようにして単元を構成すればよいのであろうか。単元の構成にあたって,教師の手がかりになるものとしては,次のようなものがあげられるであろう。

 1.目  標

 これは前章に掲げたような学年の目標を意味している。この種の題材を学習していけば,どれだけの目標を達成することができるかということを,じゅうぶんに考察した上で単元を決定しなければならない。単元およびその展開において,指導のねらいが明確でないということは,現在の単元学習の大きな欠点の一つである。

 2.児童の具体的に直面する問題

 社会科の学習は,問題解決の学習であるが,そこで取りあげられる問題が,児童にとって生き生きした切実なものでないならば,目標を正しく実現することは望み得ないであろう。その意味で,児童がかれらの生活において,具体的にぶつかる問題は,社会科の指導の上にきわめて重要な位置を占めることになるのである。児童の要求は,必ずしも常にすらすらと実現されるとは限っていない。切実な必要が満たされないところにこそ生きた問題が生まれるのである。

教師は,そのような問題を児童の中から読み取るために,絶えず万全の努力を払う必要がある。

 3.児童の発達の状況

 自分の学級の児童の力が,どこまで伸びてきているか,これまでどの程度の経験を積んできているかということを,具体的にとらえていなければ,単元を構成することはできない。少なくとも,児童が積極的に自分をうちこんでいけるような,望ましい単元を生み出すことはできない。むりな高すぎる要求をつきつけてみても,かえって効果が少ないということを,常に忘れてはいけないのである。

 児童の発達の状況をとらえるためには,前章の「発達の特性」も重要な手がかりになるであろうが,教師はそのような一般的な基準だけでなく,個々の児童の実態をつぶさにはあくしていることが肝要である。とにかく自分の学級の児童の力を,効果的に伸ばすことのできないような単元は,少なくとも自分の学級にとっては,決してよい単元といえないであろう。

 4.具体的な環境

 児童が,どんな環境に生活しているかということである。学級や学校がどんな状況にあるかということもその一つである。また児童の生活しているのはどんな地域であるかということ,すなわち地域の様子ももちろんその一つである。季節的行事のことも,あるいは予定されなかった突発的なできごとも,児童の生活につながりがあるかぎり,ここで数えられねばならない重要な要素である。これらはすべて,単元の構成や展開に,きわめて貴重な材料を提供してくれるであろう。

 ただ特に注意を要することは,地域に属するいろいろな事がらを利用する場合には,あくまで学習のきっかけとし,また学習を具体的にするための材料とするのでなくてはならないということである。児童の目をいつまでも狭い範囲にししばりつけておくような指導は望ましいといえない。広い視野に立たなければ,問題解決を深いものにしていくことも不可能であろう。

 5.学年計画

 この題材は,いつどのように取りあげるのがよいかということを,教師は一年間を見通して考慮すべきである。年間計画をもたない指導は,その場かぎりのものになりがちであって,能率的でないばかりか,かたよりを招いたり,重大な脱落を生じたりする。各単元は,年間計画の中で,それぞれ最もよい位置を占めるようにくふうされるべきである。

 しかし,すべての計画がそうであるように,年間計画もまた固定されるべきでなく,たえず修正され,よりよいものにされていくことが必要である。ある部分が予定どおり進まなかったにもかかわらず,その後の計画に全然変化がみられないというようなことは,明らかに不合理というべきであろう。

 教師が上に述べた手かかりを,じゅうぶんじぶんのものにして,絶えず児童の動きに眼を注いでいるならば,よい単元は自然に生み出されるといってよいであろう。

 もちろん,最初から非の打ちどころのない単元ができるということは望めない。ことに,すべての学校に,すべての児童にぴったりした単元というものはもともと存在しえないのであるから,教師は,絶えず実践することによって,しだいによりよい単元を構成し,展開しうる力を養っていかなくてはならない。

 しかし,わが国の社会科の現段階にかんがみると,すべての教師が,上にあげた手がかりによって,円滑に指導を進めていくということには,なお種々の困難が感ぜられる。ことに,学習指導要領に示される手がかりは,日本全体に通ずる一般的なものであって,教師が実際に活用する場合には,おのおのその学級の実状に応じて具体化する必要がある。それは,教師として,どうしても踏まなくてはならない手順ではあるが,もしこの書物にかかげたものよりも,もう少し具体的な手がかりが示されれば,教師にとってきわめて便宜が大きいであろう。しかし,そのような手がかりは,その性質上あまり広大な地域を対象としてつくるわけにはいかない。少なくとも都道府県か,それ以下の単位を対象としてしかつくることができない。このような事情に基いて,県郡市等で,それぞれその地域における社会科指導に適した,やや具体的な手がかりを作成し,各教師の単元構成および指導の便をはかったものが,「単元の基底」とよばれるものである。したがって,「単元の基底」は当該地域の教育団体が,経験ある教師や学者や有識者や父兄の意見を生かしてつくるのが望ましいであろう。

 基底は,上のような理由によってつくられるものであるから,当然どのような教師にも利用しやすいようにできていなくてはならない。また児童の個人差や学校差・学級差に応じうるようになっていなくてはならない。基底のもつべき内容としては,およそ次のものが考えられるであろう。

 (イ)目標,したがってそれによって児童に実現されるべき理解・態度・能力・知識を示す。

 (ロ)教師の調査・観察および評価に示唆を与える。

 (ハ)含まれうる学習活動の参考を示す。

 (ニ)見学の場所・参考書・地図・統計・その他資料を示す。

 

 ○単元と基底と学校計画

 基底は,単元構成の具体的手がかりとしてもうけられるものであるが,そこで与えられる手がかりは,個々の学級においてすぐに役だつほど具体的ではない。したがってもし教師が,基底の示すところにとらわれ,そこにあるものをそのまま使用するということになるならば,基底はかえって,学習指導上有害なものになってしまうであろう。教師は,基底を手がかりとしてじゅうぶんに使いこなすべきであって,あくまでも教師が基底に使われてはならないのである。

 ゆえに単元は,基底をもとにしてつくられ,基底に重要な手がかりをおいているにもかかわらず,その相互の関係からいえば,一応切れているということができる。もしこの点が明確でないならば,単元の本質である動的な性格を維持することはできず,したがって児童の自発活動に基く学習は成立しなくなるにちがいない。単元と基底の関係について,具体的な例をあげて説明するならば,たとえば各基底について,それぞれ一つずつの単元を用意するというようなことは必ずしも必要ではない。むしろ一つの基底に関して,いくつもの単元が生じたり,一つの単元に対して,いくつもの基底が関係をもつということが自然なのである。ただ各基底のもつ目標は,一般的な目標を具体化した重要なねらいであると考えられるから,それらがどの単元かで達成されるように配慮することは望ましいであろう。

 またこのように考えてくれば,基底が単元の具体的な展開を拘束することが望ましくないということも,明らかであろう。展開の正しい運営は,学級教師以外の者に期待できないからである。基底に幾通りかの単元展開例を付加することはさしつかえないけれども,それはあくまでも,個々の教師の独創的な展開とその指導とを促し助けるものでなくてはならない。

 次に学校計画は,その位置からいえば,単元と基底との中間的なものであるが,本質的にいえば,やはり基底に属するものである。学校計画といえども,教師を窮屈に縛るべきではない。各学級ごとに,展開はもちろん,単元もまた異なってくるのがほんとうである。

 しかし6年間の計画的な指導の必要や,学習指導実施上の便宜を考えると,教師と児童の生き生きした動的な活動を妨げないかぎり,学校全体の計画を考慮することもまた有意義である。各教師が自主的な立場で,すなわち自分の責任において計画し指導すべきだということは,教師相互の協力や連絡を否定することにならないのはもちろんであるし,特に独断的なかたよった指導を避けなければならぬということは,教師の絶えず自戒反省すべき点であるからである。ただ学校計画の立案や修正にあたっては,一部の人々だけがそれに携わるのではなく,全員の協力研究によって行われることが望ましい。そうしなければ,全部の教師が 学校計画を正しく活用し,さらにそれをよりよいものにしていくということはむずかしくなるからである。

 三,望ましい単元の備えるべき条件

 以上述べてきたところによって,望ましい単元はいかにあるべきかということがほぼ理解されたことと思うが,わが国の現状では,単元学習の真の意義がまだじゅうぶんに生かされていないうらみがあるので,望ましい単元の備えるべき条件を,特に取り出して述べてみたいと思う。

1.単元は明確な目標をもっていなくてはならない。

 特に,その単元の中心的なねらいが,教師によってじゅうぶんとらえられていなくてはならない。そしてその目標が,あらゆる学習活動の指導の中にしみ通っていかなくてはならない。

2.単元はその中に,児童が強い関心をもって,その解決のための活動を営むような,いくつかの問題を含むものでなくてはならない。

3.問題の解決をめぐって,多様な学習活動,たとえば,話し合い,読書・調査・見学・劇的活動・構成活動などが行われて,豊かな経験が身につけられるようになっていなくてはならない。

 ただし,このような諸活動は,問題解決に意味をもつかぎりにおいて行われるべきで,ただ形式的に諸種の活動が,られつ的に行われるのであってはならない。

4.単元は間口が狭くて,そこから深くはいっていくうちに,自然に広がるようになっていることが望ましい。

 単元の間口が広いと,学習が平面的になって深くはいっていかないからである。一つの共通問題を追求していくうちに,次々と問題が派生してきて,学習が深くなるにつれておのずから広がりをもつようになることが望ましいのである。

5.学習内容は目標に照して最も適切なものを選び,それらが自然に結びつくことができるように組織しなくてはならない。

 単元の主題に関係ある雑多な事項を,いたずらにられつし,くっつけ合せたものであってはならないのである。

6.単元の計画は固定的なものでなく,弾力的なものでなくてはならない。

 教師が予想しなかった望ましい問題や活動が,児童によって提案されたとき,これをとりあげることのできるような,弾力的な計画が望ましい。児童の動きを幾通りも予想して,それに応じうるゆとりのある計画をたてることは,最も望ましいことである。