第1章 社会科の意義

 社会科は,児童に社会生活を正しく理解させ,同時に社会の進展に貢献する態度や能力を身につけさせることを目的とする。すなわち,児童に社会生活を正しく深く理解させ,その中における自己の立場を自覚させることによって,かれらがじぶんたちの社会に正しく適応し,その社会を進歩向上させていくことができるようになることをめざしているのである。

 そのためには,社会生活を児童の現実的な生活から切り離し,いわばかれらから離れて向うにあるものとして,その必要や関心の有無にかかわらず,断片的に学習させ,社会に関するさまざまの知識をもたせるというようないき方をとらずに,かれらが実生活の中で直面する切実な問題を取りあげて,それを自主的に究明していくことを学習の方法とすることが望ましいと考えられる。

 なぜなら児童がかれらにとって切実な現実の問題を中心にして,じぶん自身の目的と必要と関心とによって自主的に社会生活を究明してはじめて,もろもろの社会事象がかれらにとってどのような意味をもつかが明らかとなり,したがって,これに対するかれらの立場も自覚されてくるからである。しかもこのような問題解決の過程を通じてこそ,じぶんの生活の中につねに積極的に問題を見いだしていこうとする態度や,共同の問題のためにじぶんの最善を尽して協力しようとする態度,したがって絶えずかれらの生活を進歩向上させていく能力をも,真に身につけることが期待できるのである。すなわちこのような方法によってのみ,社会生活の理解や,その中におけるかれらの立場の自覚や,これに適応し,これを進歩向上させていく態度や能力が,個々別々のばらばらのものとしてでなく,それぞれの児童なりに統一されたものとして,かれらのものになっていくのである。

 児童がその生活の中で直面する問題は,それが一見ささやかなものであっても,社会生活における具体的な問題である以上,直接にせよ間接にせよ,あらゆる社会事象に関連をもっている。したがって,それらの問題を解決しようとして,深く究明していけば,学習はおのずから社会生活の広はんな領域に及ぶはずである。学問的な分類でいえば,倫理学・政治学・経済学・社会学・地理学・歴史学などの基礎になるもろもろの社会事象が学習の領域におのずからはいってくるのである。しかも先に述べたように,単にこれらを知的に理解させるにとどまらず,つねに児童の切実な必要に結びつけることによって,理解と,態度と,能力とを一体になるように身につけさせようとするところに,社会科が,児童の現実生活で直面する問題の解決を中心とした学習のしかたをとることのねらいがあるのである。

 社会科のこのような特質をいっそうよく理解するためには,かって小学校で,修身・国史・地理の三科によって上にあげたような諸領域に関する学習が行われていた当時の学習形態と社会科のそれとを比較してみることが便宜であろう。

 修身科の学習内容は,徳目を中心にして組織され,それらの徳目は主として教科書の講読・格言の暗誦・教師の訓話などによって教えられていた。しかしいくつかの徳目を別々に取りあげて,観念的な理解を得させるだけでは,人格の統一的形成は期待できないであろうし,またかつての修身教授がしばしば陥っていた注入的な教え方によっては,人間性を内面から開発して,自主的に判断し行動する能力を養うことは望み得ないであろう。

 またそれらの徳目を具体的に理解させるために,主として例話が用いられたのであるが,例話は,過去における特定の人物の特定の事態における行為の例であるから,取りあげる観点の可否は別として,それが児童の心情をゆり動かす力をもつことは認められるにしても,その前提として,児童が積極的な関心をもち,必要を感じているということ,したがって児童が自主的な態度で批判的にその例話を活用するということがないかぎり,児童が将来において,おのおの現実の事態に対処していくための判断力や態度の基礎をつくることのためには,さほど効果のあるものではないであろう。

 児童を,時と処とに応じて異なる具体的な事態によく対処させることのできる望ましい判断力や態度は,かれらが生活の中で出会う個々の具体的な問題を正しく解決しようとする努力の中において最もよく養われるであろう。もちろんその場合,そのような判断力の基礎として,社会生活についての広く深い理解,たとえば社会の中で人々が互いにどのように関係し合い,社会がどのような機構の下に,どのように動いているかなどの認識が必要であることはいうまでもない。現実の社会生活の中にある種々の相互依存関係について,それらの関係がどういうふうに,またどういうわけで成立しているかを明らかにするという社会科のねらいの重要性は,まさにここにあるといってよい。しかも学習をこのような問題解決として考えていく場合,社会生活を地理的・歴史的に考察することもまた,自然にその中に含まれざるをえなくなるのは当然のことであろう。

 したがってこのような社会生活の理解が,真に児童の現実の問題に対処する判断や態度の基礎となるためには,それが初めからまとまった知識の体系として児童に与えられるのではなく,児童が直面する問題の解決を通して,みずから獲得するのでなくてはならないであろう。おそらくどのような知識も,児童自身の生き生きした具体的な経験の一環として獲得されてはじめて,真に児童のものとなり,正しく使いこなされうるものとなると考えられる。知識と行動,したがって知的なものと実践的なものとが一体となり得ず,ばらばらであったということは,これまでとかく陥りやすい弊であったといわなくてはならない。

 ところが過去の地理科や国史科をふりかえってみると,もちろんそれは単に知識だけを与えることを目標としていたわけではないが,そこで用いられていた方法が,一応体系的に整えられた内容を,主として教科書の頁を追って学習させるという行き方であったために,おもに知識のみが与えられる結果となり,とかく記憶された知識の量の多少によって教育の成果を測るような弊に陥ったことはだれしも認めるところであろう。知識を豊富にもつことは決して価値のないことではないが,児童が必要に迫まられて獲得したのではなく,注入されて受動的に得た知識には,児童が使いこなすことなく終るものも多いし,したがってそのような知識は時がたつとともにしだいに忘れ去られてしまうということも動かし難い事実である。むしろここで重んぜられなくてはならないのは,そのような知識ではなくて,現実の問題を解決するのにぜひとも必要と考えられる根本的な能力,すなわち地理的に,また歴史的にものことを見たり考えたりする能力であろう。当面する問題のもっている地理的条件や,歴史的条件を正しくとらえて,地理的,歴史的観点から解決をよりよきものとしていく力であろう。たとえば地理に関しては,人々の生活とその土地の地理的条件とがどのような関係にあるか,人々はその土地の地理的条件のもとに,かれらの生活上の問題をどのように解決しているか,地域を異にする人々は,かれらに共通な人間的欲求を満たすためにどのように依存し合っているかなどを考察する能力が重要であり,歴史に関しては,人々の生活は時代とともにどのように変ってきたか,なぜそのように変ってきたか,わたくしたちの先人は,かれらが直面した問題をどのように解決してきたか,先人の残した文化遺産の中で,どのようなものは今後も尊重し生かしていくべきか,などを考察する能力が重んぜられなくてはならないであろう。知識もまた,このような能力にまってはじめて,真に正しく活用されうるものとなり,かつより深く,より豊かなものになることができるであろう。したがって児童に習得させるべき基礎的知識を考える場合にも,このように地理的,歴史的に人間生活を見たり考えたりする場合に必要になってくる基本的な知識,いわばそのような場合に武器ともなるべきものを,第一義的なものとして重んずべきであると考えられる。

 従来の修身科・国史科・地理科が先に述べたような弊に陥ったのは,結局それらが,伝統的な徳目の型に児童をはめようとしたり,地理や歴史に関する一応の知識を児童に与えようとしたりすることにとどまって,現実の問題を解決するための能力や態度を養うことに重点を置いていなかったからであると考えられる。

 もしこのような能力や態度の養成を目的とするならば,その指導方法は根本的に改められなくてはならないであろう。すなわち児童がその生活において直面する問題の解決を中心とする学習のしかたに改められなくてはならないであろう。しかも道徳的な判断力や態度も,地理的,歴史的な見方考え方も,それらが互に結びあう問題解決の過程において養われるのが効果的であるとするならば,これら三教科が分立するよりも,それらが本来自然に結びついている現実的な問題の性格にしたがって,社会科の単元学習の中でそれぞれのねらいを実現しようとする立場をとることこそ,当然のなりゆきというべきであろう。

社会科の指導にあたっては,つねにこの点にかんがみて,指導のねらいが社会科の本すじを逸脱しないように気をつけることがたいせつである。