Ⅴ.算数についての評価

 

 算数についての学習指導を,どのように評価したらよいか。

 ことわざに,「念には念を入れよ。」といわれている。指導においても,念には念を入れることが必要である。しかも,こどもができなかったら,こどもを責めないで,教材や指導法について反省してみることがたいせつである。それなしには,教材や指導法についての研究が生れてこないであろう。

 

Ⅴ.算数についての評価

 算数についての学習指導を,どのように評価したらよいか。

 

1.評価のねらい
 
評価のねらいは,どんなところにあるか。

 ここでは,算数についての評価が,何のために行われるものであるかについて,述べることにする。

 (1) 指導計画や指導法を修正したり改善したリする必要を明らかにする

 指導計画も指導法も,こどもが目標に向かって最善を尽して学習していけるようにと考えて,決められたものである。しかし,実際に学習指導を進めていくと,しばしば計画と食い違ってきたり,こどもが動かないで困ることがある。このようなときに,教師は,どのように指導していったらよいかを,解決する手がかりを与えてくれるものが評価である。

 あることについての学習が終ると,その目標を達することができたかどうかについて評価をする。このときに,こどもの成績に思わしくないことがあると,ややもすると,こどもの不勉強や不注意をなじったり,こどもに失望したりすることがある。これは決して望ましい評価であるとは言えない。

 子供の学習を妨げるものは何か。こどもが最善を尽すことのできなかった原因はどこにあるかなどについて研究するのである。このような研究をもとにして,指導計画や指導法を検討して,あすの指導計画や指導法の改善のための資料を作ることが必要である。また,達成できなかった目漂について,もう一度指導する機会があるように指導計画を作ったり,また,二度と失敗をくり返えさないように,さきの指導法を参考にして,これからの指導法を考えたりすることが必要である。これでこそ,評価は真に生きてよりよいあすの仕事に役だつわけである。

 次に,評価が,指導計画を修正する必要を明らかにするのに,どのように役だつものであるかを,実例によって述べてみよう。

 三年の乗法九々の学習で,三の段がひととおりすんで,こどもたちは三の段の九々がすらすら唱えられるようになった。そこで,教師は次のようなテストを行って,こどもがかけ算の意味を理解して,九々を適用する力が伸びたかどうかを調てみた。
 
問題 3人のこどもに,えんぴつを2本ずつあげようと思います。えんぴつがなん本いるでしょう。どんな九々をつかえばわかりますか。

 どんな九々をつかうかという問に対して,3×2=6と答えたものが予想以上に多いことがわかった。これによってこどもは問題に出てくる数を,その数の意味を深く考えもしないで,出てくる順に書き並べ,その間に,かけ算記号を書き入れることがわかった。問題に出てくる数を頭の中にいったん収めて,演算の決定に導くように問題の場を組織だてる力が欠けているらしいことがわかった。そこで,その欠けていることについての再指導に入るわけである。

 3は人数を表わしている数である。それを2倍した答の6は何といったらよいか尋ねてみる。それで,6人となって問題の要求に合わないことを説明する。このようにして3×2=6とするのが誤であることを明らかにしたとする。

 しかし,上のような指導だけでは,問題をすこし変えてテストしてみると,ほとんど進歩しないことがはっきりわかってきた。つまり,一方を否定するような消極的な指導だけでは,前に述べたような問題を組織だてる力を伸ばすのに,ほとんど役だたないことがわかった。これが再指導に対しての評価であって,指導の方法を修正する必要をつかんだわけである。そこで;問題解決を,同数累加の形にもどして,倍の概念をしっかり押えるように指導したのである。今度は成功した。この事実を教師が見届けたのもやはり評価である。

 「次に,進んでよいか。」という教師の悩みに対して,ときには「もう進んでもよい。」という見通しの得られることもあろうし,ときには「先に進まないで,もう一度指導しなければいけない。」という見通しの得られることもあろう。これらは,いずれも評価なしには,考えることのできないものである。

 上の例についてみると,評価が前後3回にわたって行われている。第一回で学習効果の評定を行って,その欠陥を見いだし,第二回では,再指導が欠陥の本質をついたものでなかったことをさとり,第三回の評価で,はじめて,所期の目標が達成されたことを見届けたのである。これを評価のはたらきという観点からまとめてみると,学習効果を評定することから,指導計画修正の必要に迫られた。再指導の結果を評価して指導法を改善しなければならないことを痛感した。第三回目にようやく適切な指導法が見いだされたことを確認して学習指導が一段落した。このように学習指導において,着実な指導の進め方をさせたものは,評価にほかならないのである。

 ここで,もう一つの例をあげることにしよう。これは,こどもの困難を見いだし,これを克服するまでに,評価がどのように用いられたかを示すためのものである。

 四年のかけ算で42×5=300と計算しているこどもが数名いることを発見した。そこで,そのこどもたちのノートを調べてみると63X4のような計算では,正しい答252を出している。42×6ができて,42×5がでいないのはふにおちない。そこで,このこどもに32×5のような計算を出してみた。あまり誤りを起さない。つまりこどもは,計算の手順や繰上げ方がわからないのではないと判断した。

 そこで42×5のような形式が,他の二例と異なる点は,部分積がどちらも「何十」になることであることがわかった。このようなときに,はじめの部分積を,次の十の位の部分積にそのまま加えるのが誤りの原因ではないかと仮定して次のような問題を課してみた。

 この試みは的中した。何題か計算するうちに,こどもの中にも,しだいに自分の計算はおかしいと気づいてきた28×5も82×5も,いずれも500になるからである。しかし,こうしたことの起るのは,やはり,繰上がりのあるかけ算のしかたについての理解が,じゅうぶんでないからであると考えられる。そこで,もう一度よせ算にもどして,その繰上がりについて指導し,成功したのである。

 この例についてみると,評価のはたらきを,次のようにまとめて述べることができる。まず,こどもの困難を見いだしたととである。しかも,こどもに自覚されないで,混乱から生れてきた誤算を見いだしたのである。その後に行われた評価は,すべて困難の原因をつきとめるためのものであった。すなわち,ノートを調べて該当しないものを除き,問題の形式をかえて,さらに,該当する範囲をせばめ,最後に類題を課してみて,混乱の原因がどこにあるかをつきとめ,こどもに混乱を自覚させ,これを克服していくのに成功した。

 このように評価は,こどもの困難を見いだすことから始まって,それが克服されるまで,絶えず指導のかじを取り続けるものである。ここで特に注意したいことは,上の例でもわかるように,評価によって,こどもの欠陥を見いだすことが必要であるけれども,それだけに終ってはならないことである。言い換えると,こどものあらさがしをしたり,かれらの奮発心を萎縮させたりするものであってはならない。むしろ,逆にこどもを力づけて,解決に近づいていく糸口を見いだすのが評価の真のねらいである。

 また,評価は,このあとで述べるように,単に筆記テストによる方法だけではない。ここでは,具体的にわかりやすく書く必要から筆記テストによる評価の例を用いたのである。しかも最も必要なのは,こどもの表情を読み取りなどしながら,学習指導を進めていき,こどもの困難をできるだけ早く見いだして,これを解決していけるようにくふうすることである。これらのことについては第6節の評価の方法のところで,くわしく述べることにする。

 (2) 教材や教具の選択や活用のしかたが適切であるかどうかを明らかにして,これらがいっそううまく使えるようにする

 算数についての指導は,ややもすると,黒板と紙がありさえすれば,完全にできるものと考えられがちである。これでいけないことは,ここで改めて言うまでもないことである。

 さて,適当な教材や教具を選んで学習内容を具体的な行為に置き換え,それをうまく活用して,こどもの理解を助けることは,学習指導において重要なことである。この選択や活用の適否を検討し,よりよい教材教具を求めていくための手がかりをつかむことも,評価のねらいの重要な一つの面である。

 次にあげてある例は,2年の加法の指導において,こどもの理解を助けるために,必要な道具をどのように考えていったかの経過を述べ,指導を進める上に評価がどのように活用されているかを明らかにしようとするものである。
 
左のように,二位数に一位数を加えて繰上がる計算を指導することにした。こどもは,ここではじめて,繰上がりのある計算について学習するのである。

 初めに普通に行われているように,黒板に図を書いて,繰上がるところを説明した。その後で,同種の計算を課してみたところ,こどもの中には答を213というふうに書いて,一の位における繰上がりを,十の位へくり入れることがわからないで,計算しているものがあることを見いだした。

 そこで,めいめいにおはじきを使わせて,5+8の十の位への繰上がりを,はっきりさせようとしたが,おはじきでは,黒板にまるを書くのと同様で,十の位へくり入れることの理解にはあまり役だたないことが判明した。

 この場合の教具としては,5+8から十の位へくり入れるところが,こどもの面前ではっきり示せるようなものでなければならない。そこで,古いわりばしを使うことにした。ばらのわりばし5本と8本とを合わせて,10本たばが一つでき,この束が十の位へ仲間入りをすることで,繰上がりを具体化したのである。

 以上のことを,評価のはたらきという観点から,次のようにまとめることができる。初めに黒板のところに図を書いて説明したのであるが,この指導によって繰上がりについての理解ができたかどうかを評価した後で,わりばしなどを用いて成功したことから,教師の説明だけでは,こどもに納得されにくいものであることを見届けた。そして,こどもの理解を助けようとして選ばれるいろいろな教材や教具の中にも,有効であるものと,そうでないものとがあることを発見した。

 とにかく,こどもは,いわば動かしてみたり,さわってみたりしているうちに,理解することがわかる。

 上の一例からもわかるように,こどもの困難を救うための教材や教具は,かれらの困難が解消するまで,絶えずよいものを求め続けなければならない。また,その効果をいつも打診しながら,選択や使い方をささえているものも,評価である。絶えず評価し続けることによって,われわれは,こどもにとって最も有効な教材や教具を見いだすことができ,また,それを最もよく活用する方法を見きわめることができるのである。

 (3) こどもが,自分の進歩や停滞の様子を知り,みずから進んで学習していくようにする

 こどもは,学習の進行中や,学習の後において,いつも自分の学習が,目標にどの程度に近づいたか,また,はたして目標に到達することができたかどうかを知っていることが必要である。もしも,これがわからないでいたのでは,こどもは,ただ問題を読んだり,数を書いたりしているにすぎない。しかも,できたかどうかは,いつも教師や両親などに聞いたりしなければならなくなるであろう。これでは,こどもが学習しているとは言えないのである。ただ教師の言われるままに,盲目的に仕事をしているにすぎないのである。こどもがいつも時分の進歩に関心をもつように,また,進歩の遅れているところがどこであるかが,こどもにもわかるようにすることが,評価のねらいの重要な一つの面である。

 次にあげる例は,上のような意味で評価が行われた場合を強調して述べたものである。

 四年で「1個12円のりんごを5個買うと,代金はいくらになるか」という問題を解決する場合のことである。こどもは,まだ,二位数に基数をかけて繰上がりのある計算を学習していないのである。

 こどもの中には,12+12+12+12+12=60と累加計算で解決するものもある。12×4+12=60として解決するものもある。12×5=60と計算してできたものもある。

 そこで教師は,こどもに,上のような三つの解決方法について発表してもらうのである。めいめいのこどもに,自分の解決がそのうちのどれに当るかを確認させるのである。そのあとで,三つの方法のうち,どれがよいとか,それはどういうわけかとかを考えさせるのである。

 こどもの多数の意見は,第三の方法を支特したが,中には難色を見せるものもあった。教師は,第三の方法を支持したこどもに対しては,めいめいがわりばしを用いたりして計算の方法をくふうし,これを説明できるまでにまとめるように指導する。また,難色を示したこどものグループに対しては,次のような指導を行った。

 りんごがたいそう安くて1個6円だったら,5個の代はいくらかになるだろうと発問してみた。6×5=30の九々を使うことができた。これに力を得て,1個のねだんを7円,8円としだいに増して,かけ算を適用する考えを固めた上で,12×5の計算ができればよいことを,こどもに気づかせるように導いた。

 この例で注目されることは,こどもが評価に参加していることである。むしろ,教師はここで行われた評価の援助者の立場にあったと言える。

 上にあげた例は,評価のはたらきという観点から,次のようにまとめることができる。

 こどもが与えられた問題を一応解決したところで,三つの方法があったことを紹介し,どれがよいかを判断させたことは,この問題解決に当って自分の試みた方法を自己評価させ,自分がどこまで進歩しているかを自覚させるためであった。どの方法がすぐれているかについて考えさせたのは,その理由がわかるかどうかによって,その方法のよさがたしかにわかっているかどうかを自覚させるためであった。第三の方法によって計算することを,めいめいにくふうするようにしたのは,この新しい計算を自力で解決していけるというめやすを,こどもにもたせるためであった。

 難色を示したこどもには,かけ算の適用の初歩にもどって指導した。同数累加の事実に対して,かけ算が適用できるところまでわかっておれば,演算決定についての立遅れを取りもどすのは,さして困難でないことを,こどもも気づいたことであろう。つまりこどもは,自分が確かに進歩したことを,きのうの自分と比べて見いだすであろう。

 こどもが自分の進歩を自覚し,また、進歩の遅れていることを知っで,どうすれば向上できるかということを求め続ける態度を養うことが,評価の重要な一つの面であると云えるのである。

 (4) 両親や校長に,こどもの進歩を報告する資料をうる

 教師は,こどもの両親からその愛児の教育を託されているのである。したがって,必要に応じてこどもの進歩について報告し,こどもが望ましい学習を続けることができるように両親の協力を求めることは,教師としての当然の責務であり,両親の信頼に答える道でもある。

 両親は教育についての専門家ではない。また教養の程度もまちまちであり,生活程度もかなり差異がある。教師の報告は,その内容を理解してもらうことが眼目であるから,相手の側の事情をよく考えて,報告の内容や表現にじゅうぶん注意を払わなければならない。

 次の例は,1年の数の構成に関する学習について,その結果を両親に報告するために,どのような観点から評価し,また,報告に対して両親の協力がどんなふうに行われたかについて述べようとするものである。

 こどもを,ひとりずつ呼んで,これに10個のおはじきを示し,それが10個あることを認めさせる。「この中から8個だけ,できるだけ早くとるのです。」と仕事の内容を明らかにして,どんな取り方をすればよいかをいろいろ考えさせるのである。

 こどもの考えがまとまったところで,「では8個取ってごらん」と言って取らせる。その様子を見ながら,次のどれに当るかを記録しておく。

 両親に対する報告には,こどもが上の四つのうちのどの方法によったかを○で囲んで示し,a,b,c,dの順に漸次進歩していくものであることも書き添える。受け取った両親は自分の子がこの発達の系列からみて,どこに位置しているかを知り,こどもを激励したり賞揚したりして,さらに進歩するように力づけるであろう。

 この際,特に注意したいことは,評価する内容をできるだけくわしく分析しておいて,受け取った両親に,こどもの発達が,やさしくしかも正しくつかめるようにすることである。そうしないと,両親は単に結果だけにとらわれて,こどもをほめたり,しかったりするだけに終ってしまうおそれがある。

 なお,同じようなことを家庭における手伝いなどの時に,こどもに試みさせ,結果が上記のa,b,c,dのどれに当るかを書き入れて,もどしてもらった。大部分は教師の行った結果と同じであった。中には向上しているこどももあった。しかも,そのかげに両親の協力があったことなども見いだされた。

 これを要するに,こどもの進歩をその両親に報告する資料を手に入れたり,それによってこどもが学習に最善を尽すことができるように,教師と両親の協力を緊密にしていくことも,評価のねらいの重要な一つの面である。

 校長は,その学校の教育全般に関する責任者である。こどもの教育は,校長の責任において,担任教師にゆだねられているといえる。教師は校長に対して,教育の成果に関し報告する義務があるといえる。校長はその結果に対し,必要な指導と助言を与えてくれるはずである。言い換えると,こどもの学習結果が良好であった場合でも,反対に不振であった場合でも,教師はその事実をくわしく校長に報告すべきである。また,この報告に対して適切な指導助言が得られ,学習指導をいっそう改善することができれば,それだけ,預かっているこどもにも喜ばしいことである。

 また,校長は,教師からの報告を参考にして,その学校における算数の指導計画を改善したり,修正したりすることもあろう。こうして学校の教育計画を,実践をとおして改善し続けることは,まことに貴重なことである。そしてそのことは,教師のたゆみない評価の努力と,その結果をいつも活用していく熱意とがあって,はじめてできることである。これを要するに,こどもの学習の成果を校長に報告し,こどもがめいめいに適した学習ができるようにするために,校長からの建設的な指導助言を得て,こどもの幸福をいっそう助長していくことも,評価の重要なねらいの一つである。

 是を是とし,非を非として,自らも認め他にも示すためには,絶えずよりよい状態を求め続けてやまない熱意と,不退転の勇気とを必要とする。けれどもそうあってこそ,はじめて評価ができるのではないだろうか。評価は,学習指導の足もとを不断に照し続けるともしびである。この火を消してはならない。この火をますます明かるく燃え上がらせなければならない。そしで着実に一歩一歩よりよい学習指導を求めてふみ出していくことができるのである。

 

2.評価の対象
 
どんなことは評価しなければならないか。

 前節において,評価のねらいがどんなところにあるかについて述べた。この節では,このねらいを達成するためには,どんなことを評価しなければならないかについて述べることにする。

 (1) 評価の対象は,計算ができるかどうかを調べることだけではない

 一般に,算数の評価と言えば計算ができるかどうか,どの程度に速くできるか,またどの程度に正しくできるかを調べることのように考えられている,また,計算についてだけではなくて,書かれた事実問題を解くことができるかどうかも調べてみる必要があるという人もある。

 しかし,これだけが学習の成果ではないはずである。これを算数科の目標に照して考えてみると,少なくとも,次の二つの観点から,学習の成果を評定する必要があると考えられる。

 このような立場からみると,前に述べた計算や書かれた問題についてのテストだけで,じゅうぶんであるとは言えない。

 たとえば,3年生のこどもに,かけ算の計算問題を提出して,テストしたとする。もしも,できた問題は○,できない問題は×として,この筆記テストの成績を,○の個数によって書き表わしたとする。その点数でどんなことがわかるだろうか。その点数からは,できるこどもと,できないこどもとに分けることはできても,こどもがどの程度に手ぎわよく,しかも理解をもって処理することができるようになっているかは,見定めることができない。こどもの中には,乗法九々の意味や,累加とかけ算との関係などをまったく理解しないで,ただ形式的に九々を暗記しているものもあろう。このようなこどもは,かけ算が実際生活において,どのように使うことができ,また,かけ算はよせ算と比べて,どんなよいところをもっているかを理解していないであろう。このようなこどもは,たとえ筆記テストの成績がよくても,かけ算を使いこなして,問題を解決することができないであろう。

 かけ算は,買物をする場合でも,測定の場合でも,計画的にものごとを順序立てて進める場合でも,これを適用されるようになっていなくてはならない。このように,生活の場が複雑になっても,じゅぶんに使いこなせるようになっていなければならない。これで,算数が学校内外の社会生活において,かけ算を有効に用いられるようになったといえるのである。

 このように,算数科の一般目標に照らしてみて評価をしないでは,前節にあげた評価のねらいを達成することができないのである。

 (2) 評価の対象の具体例

 評価は,先にも述べたように,重要なねらいとして,四つのものをもっているとしたのである。これはとりもなおさず,こどもの学習の成果や,こどもの困難を見いだし,困難や混乱をもっていないこどもは,いっそう伸ばしていき,困難をもっているこどもに対しては,これを克服していけるように指導していこうとすることをねらっているのである。この学習の成果やこどもの困難などは,いうまでもなく,算数科の一般目標や学年の目標から見いだされるのである。ここでは,二位数に一位数をかける計算の指導について,評価の対象を具体的に述べてみることにする。

 このように,二位数に一位数をかけるという単純なことがらを指導する場合においても,そのかけ算のもっているはたらきからみて,また,指導をする時に取り上げた教材からみて,いろいうな角度から評価の対象を取り上げ,算数科の目標を達成できるようにくふうすることが必要である。

 筆記テストや口頭テストのような方法だけでは,評価の困難なものもある。指導の過程において,こどもの動作,表情を観察したり,偶発的な話合いや仕事の立案・実施・計画の様子を観察したり,また両親やこどもに質問を出して,この解答から資料を得たりするのである。

 一般に,態度の評価は困難であるとされている。しかし,このことは,筆記テストのような方法だけでは,評価が困難であるという意味であろう。

 しかし,日々こどもの行為を観察している教師にとって,次のような観点から,こどもを観察し続けていけば,これはさして困難なことではない。

 とにかく,評価の対象は,評価のねらいが達成できるように,綿密に決める必要がある。しかも,第6節にあげてある方法などを参考にして,具体的な方法をくふうしておくことが必要である。しかも,できるだけ客観的な資料が得られるように,対象とその方法とに考慮を用いねばならない。

 

3.評価の時期
 
いつ評価をしたらよいか。

 「いつ評価をしたらよいか。」と言われると,学習指導のあるところ,そこにはいつも評価があるといってよい。ここでは,いつも評価するに違いないが評価の時期として目ぼしいものを取り上げ,そこで,どんなねらいをもって評価したらよいかについて述べることにする。

 (1) 学期の初めなどに,こどもの現在の様子を調べる

 学年や学期の初めとか,こどもが転入学してきたとか,いわば,そのこどもをはじめて担任するときに,こどもの現在の様子をはっきりつかむことが必要である。これは,今学年の指導をどこから始めたらよいかとか,どこに指導の重点をおいたらよいかを決めるためである。

 たとえ,同じことについて指導したとしても,学級全員が同じような理解をもち,同じようなところに困難を感じているとはいえない。そこで,教師はひとりびとりのこどもについて,数量的な判断力や思考力,または,処理する時に用いられる計算や測定などについでの進歩の状態を知り,こどもの実態をつきとめることが必要になる。これがあって,はじめて,ひとりびとりのこどもに最も適切であるように,指導計画を修正することができるのである。

 たとえば,こどもが4年生であるからといって,どのこどもも3年生までの学習指導内容は,残らず理解し,さらに能力にまで高められていると考えて指導計画を立てるような誤びゅうを犯してはならない。

 「数えたり,書いたり,読んだりする」ことについて言えば,3年生までに学習した次のような事がらが,じゅうぶんに理解できていれば,次のようなことに対して,すぐに答えることができるはずである。

 ところが実際に,これらのことについて調査してみると,こどもによってまちまちである。理解できていないこどももあろうし,理解のきわめて浅いものもある。このような理由から,各こどもがどこから学習を始めていくかをはっきり知ることが必要になるのである。このようなことを調査しないで,形式的に4年の指導内容から指導を始めたとすると,遅れているこどもは学習に参加することができず,そのために,ますます遅れてしまうのである。

 また,一方において,こども自身にも適当な方法によって,自分の進んでいるところ,遅れているところをはっきりつかませておくことが必要である。これで,こども自身に,どんなところに力を入れて学習したらよいかが明らかにされるのである。

 このようなねらいを達成するためには,学力検査の問題や教師の作った問題を用いることができる。もしも,その結果からみて,できないことがわかったら,その原因を診断するために,診断テストを用いるのである。この他,次のようなものも参考になるであろう。

 とにかく,進んでいるこどもは,進んだ所から,遅れているこどもは遅れた所から,それぞれの現在のもっているところを出発点にして,学習していけるように指導計画を修正することは,学年の初めに,どうしてもしなくてはならないことである。

 (2) 新しい学習にはいろうとする時に,その学習の準備ができているかどうかを調べる。

 これから新しく学習を始めようとする時に,その学習ができるために必要な理解や技能があるはずである。

 これらのことを,どの程度にまで思い起すことができるか,また,どの程度に記憶しているかは,これからあとの学習が成功するかどうかの一つの重要な鍵である。

 「道のり」についての学習を始める場合について考えてみよう。長さの単位であるmや㎞,あるいはそれらの関係についての知識がじゅうぶんでなかったら,この学習に成功することができない。また,道のりを計算したり,歩幅を決めたりするのに,かけ算やわり算が必要であるから,これができないようでは,この学習に成功することができない。

 もう一つの例として,「二位数×基数」の計算についての学習を始める場合について考えよう。教師は指導に当って,次の事がらについて,どれだけの理解をもっているか,また,理解していない事がらはどれであるかを知ることが必要である。これがわかっていないでは,単にかけ算を指導しても,学習に参加することのできないこどもができてくる。

 このような調査に基いて,指導計画を修正することが必要になるであろう。たとえば,かけ算九々のどれかをまちがえるこどもがあったら,これができるようにするための指導が必要になるであろう。

 なお,遅れているこどもは,自分の考えた筋道とか,やり方をいわないものである。このような場合には,こどもに安定感や親しみを持たせるようにして,こどものしぐさをくわしく観察するがよい。そして,できれば,そのやり方を声を出していわせるように仕向けるのがよい。こうして,その遅れているこどもに指導しなければならないところを見いだすのである。

 一般に,こどものノートや話合いを調べることが必要である。たとえば,位取りが正確にできているか,かけ算九々はまちがわないかなどと,細かに見ていくのである。もし,まちがいがあったら,なるべく早い機会に,そのまちがいを直してやることが必要である。また,こどもを平素くわしく観察しておけば,その時になって,調査しなくてもすむこともあろう。できれば,そうありたいものである。

 (3) 学習指導を進めながら,絶えず目標に照して評価する

 毎日の学習指導を進めるにあたって,教師は絶えずこどもたちの行動を観察し,その困難や混乱を見つけ出し,ただちに指導計画を修正したり,指導法を改善して,目標の達成に努力しなければならない。これが,日常の学習指導における評価であり,最も重要である。これがあって,はじめて,評価の資料を正当に解釈することができるとさえ言えるからである。

 たとえば,「二位数+二位数」の計算を,買物をしておかねを支払うことから,学習することにしたとする。

 こどもは,自分で作ったおかねで,おもしろそうに二つの品物のねだんの合計を計算して,支払っていくときに,繰上がりのある計算になると,一つずつの代金を支払っていて,合計を計算してから支払うなどとは考えていなかった。

 そこで教師は,「1O円さつや100円さつを使って,金高が数えやすいようにおかねを出すようにくふうしましょう。」といって,お札を使って,繰上がりについて指導したとする。

 しかし,こどもの中には,まだ10ずつにまとめて,それを上の位の1にすることがはっきりわからないために,困難を感じているらしく,こどもの顔が明るくなかった。そこで,色棒などを使って,数えることから始めて,繰上がりのある計算を指導して成功した。

 このように,教師は,絶えずこどもたちの反応を観察し,評価しつつ指導を進め,もし指導が無理であったり,困難を感じているこどものあることを察知したら,ただちに計画を修正し,ひとりびとりのこどもたちの進歩にあった扱いをするようにしなければならない。このときに,指導計画を修正するだけでなく,教具・教材についても,評価をして,指導法の改善をはからねばならないことは言うまでもない。

 とにかく,指導の過程における評価においては,学習活動,特に,仕事のしぶりを綿密に観察したり,こどもたちの使っているノートを調べたりして,適切に指導していくように,また,その評価の資料によって,あすの指導計画を修正したり,指導法を改善したりするのである。しかも,このような評価は,臨機の処置を必要とするので,なかなかできにくいことであるかもしれない。しかし,これができて,はじめて,こどもの学習の効果を上げることができるし,指導の失敗を早期に発見して,こどもにむだをさせないですむのである。このように,指導の間にあって評価するだけでなく,口頭や筆記などによる発表や,学習のしかたについての話合い,説明しているこどもの観察などを通して,評価のよい資料をうるように努めねばならないことは言うまでもない。

 このように,日々の学習指導を行うにあたって,常にこどもたちの行動を注意深く観察して,指導計画を修正したり,教具・教材についても改善を加えていくことは,評価の最もたいせつな使命である。

 (4) 学習が終った時に,学習効果があったかどうかを調べる

 ある事がらについての学習が終ったら,どの程度に学習の効果をあげることができたか,また,どんなこどもの困難があるか,どのこどもが,どんなことに困難を感じているかを明らかにすることが必要である。これによって,指導計画を修正して,もう一度指導することになるかもしれない。また,しばらくたってから,もう一度指導してみることになるかもしれない。いずれにしても,次の指導の出発点を決める手がかりをうるためのものである。

 たとえば,かけ算で,繰上がりのある場合の計算を,たいした抵抗のないものとして考え,繰上がりのない場合の発展として,きわめて簡単に扱ったとする。さて,一応の指導が終ったところで,テストをしてみると,数名のこどもはわからないでいることが明らかにされたとする。そこで,教師は,これらの特定のこどもを集めて,色棒などを使って,ふたたび位取りや,かける操作を指導することになる。このようにして,繰上がりのあるかけ算のしかたが理解できたところで,他のこどもとともに,練習をするように計画を変更することもあろう。

 また,時には,基数に基数をかける簡単なものから,二位数に基数をかけて繰上がりのないもの,繰上がりのあるものと,一つずつ新しい要点のはいってくる問題からできている診断テストを用いて,進歩の遅れているこどもを調べることもあろう。

 このように,評価は,次の指導に生かされていくのである。これで,はじめて,着実な指導ができるのである。

 ただ,この場合に注意したいことは,評価の資料としてとりあげる成績物や作品は,教師の目の前でできたものを使うと言うことである。とかく,家庭作業などによって完成されたものには,両親や兄弟の手のはいっていることがあり,どれだけをこどもが実際にやったものであるかがわからないからである。

 (5) ある単元の終った後で進歩の内容を調べる

 ある単元の学習が終ったところで,教師は,この学習による進歩を明らかにつかまなければならない。

 たとえば,夏時刻をとりあげ,どのようにしたら,昨年よりもうまく夏時刻を生かすことができるかについて学習したとする。こどもが,生活設計を,合理的に立てることから時間についての計算を学習した。そのあとで,この計算の原理についての理解ができたかどうかを調べることが必要になるであろう。しかも,今までには,直接とけいを使ったり,とけいの絵を書いたりして計算していたのが,計算だけでできるようになったことを確かめる必要もあろう。このようにして,学習のしめくくりをして,計算ができるようになったこととか,計算ができない理由などを明らかにして,次の指導の機会や練習の機会をくふうするのである。

 前にも述べたように,計画の修正や,指導法の改善は,日々の学習指導をとおし,累積的にできるものである。これらをまとめて,導入に際して,こどものこんな生活をとりあげることが興味や必要に合っているとか,指導が手落ちなくできたかとかを明らかにして,来年度の指導計画をたてたり,また,これからの指導計画をたてるための重要な手がかりを手に入れるのである。

 また,教材・教具の適不適についても,くわしく反省してまとめておき,次年度の参考に供することもたいせつである。

 たとえば,よせ算やひき算の指導を,「お店ごっこ」をきっかけにして指導したとする。その反省として,とかくに教室内がざわつき,こどもに学習の目標をつかませることができず,こどもはよせ算やひき算についての理解もできず,また,その原理を実際に用いて計算してみる機会にも恵まれなかったとする。むしろ,こどもの興味の中心が,買うことや売ることだけに走りやすかった。それからみて,目標をしぼって,こどもに,はっきり学習のねらいを示すことが望ましいなど,問題のとりあげ方についての反省が出てくるであろう。繰上がりのある計算の原理を理解するには,色棒などの位取りの原理のはっきりわかるものを使うのが効果的であるなどの,教具についての反省も出てくるであろう。また,繰上がりのある加法や,繰下がりのある減法の指導は,むしろ二学期に扱うことが望ましいなどの,教材を指導する時期などについての反省もでてくるであろう。このような実践をとおしての反省を,次の年度の指導計画改善のために残しておくことは,実にたいせつなことである。

 教師は単元の指導が終ったら,この学習によって,こどもにどんな進歩が見られたかなどについて,学校長や父兄に報告することも必要であろう。これに関しては,第1節の評価のねらいのところで述べたことである。家庭にこどもの様子を報告して,家庭でも学校における学習が有効に用いられるように,また,有効に用いられる機会を利用してもらうなど,家庭の協力を求めるのである。また,学校の責任者である学校長に対しても同様に報告し,今後の学習指導に対する望ましい示唆をうけることがたいせつである。

 (6) 定期的なテストで,こどもの学習全般にわたって調べる

 ある時期を定め,できるだけ多くの評価の技術を使って,こどもたちの現在の様子を知ることが必要である。

 たとえば,低学年のこどもに,学校生活に関係したことを使って,とけいの読み方や時間や時刻についての初歩の指導をしたとする。その学習している間に,主として理解や能力についての指導ができても,とけいを使ってめいめいの生活を律しようとする態度は,むしろその学習の終ったあとでわかることであろう。しかも,このような傾向は,短期間の観察によってわかるものではない。このような意味からも,定期的な評価を必要とするのである。また,今までのように,念には念を入れて指導してきているのであるが,総合的に,どの程度に学習の成果をあげることができたかも,定期的な評価によって明らかにされるものであろう。

 この場合には,分祈された個々の事がらというよりも,総合的にこどもの思考や行為がどの程度に改善されたかをねらうのである。そのためには,必要に応じていろいろな方法を用いることが必要である。どんな方法があるかについては,第6節の評価の方法のところで,くわしく述べることにして,ここでは,主として用いられる評価の方法を述べておくことにする。

 この前の時期におけるこどもの様子と比べるために,筆記テストとして,プログレステストあるいはアチーブメントテストをあげることができる。これによって,主として,計算や書かれた問題などを処理する能力を調べることができるといえる。

 このほかに,測定などのように,ものの使い方を見るために,教師の作ったチエックリストを用いることが必要である。

 たとえば,ものさしの使い方を評価するのに,あらかじめ,教師が次のように観点を決めておく。

 こどもがものさしを使用する現場を見て,該当欄に印をつけていくのである。

 また,こどものめいめいの自己評価をねらうものとして,教師とこどもとが協力してチエックリストを作り,これを用いるのである。

 たとえば,暑さ寒さを表わす時に,数を使って何度と言えるようになったかとか,多くのものがある時に,この個数を言い表わすのに,ただたくさんあるなどと言わないで,数を使って,できるだけはっきり言えるようになったとかの項目をあげておき,それについてチエックするのである。

 このほか,こどもの学習したことが,どの程度に身についたかを調べるのに,家庭のこどもの様子を調べることも必要であろう。このために,両親に対して質問紙を送り,チエックしてもらうことが必要になろう。

 以上で,評価をする時期として目ぼしいものをあげてみたのである。要は,念には念を入れて評価し,こどもがいつも最善を尽して学習していけるように,こどもと教師がともどもに努力していくことが必要である。そのためには,教師は自分ひとりで考えるのでなく,必要な人に報告して援助を求めるがよい。

 

4.評価をする人
 
だれが評価するか

 ここでは,評価する人,評価の資料を提供してもらう人について,次の順序に述べることにする。

 人が違えば,それに応じて評価する立場もそれぞれに異なるものである。次にその点について明らかにしてみよう。

 (1) こどものする評価

 学習を進めていく場合に,こどもは,いつも自分の様子を知っているように,指導されなければならない。自分がいまどのように進歩しているか,学習の目標に対してどの程度近づいているか,自分がいま努めていることが,学習の目標に照して望ましい方向に向かっているか,どんな点に困難を感じているかについて,こども自身が関心をもつように指導することは,こどもが自主的に学習をしていくためにきわめてたいせつなことである。そのためには,こどもがみずから自分の学習について評価することができるようにしなければならない。

 こどもの自己評価は,それを継続的に行っていって,はじめて有意義に利用できるようになるものである。言い換えると,自己評価がうまくできるようにするには,いつも自分の学習に対して批判し,反省し,検討するように指導していき,これが習慣になるまで指導することが必要である。

 たとえば,こどもが計算をする。そうしたら必ず験算して結果を確かめるようにする。ついには,それが習慣になって,験算をしなければ気がすまないようになる。験算は,こども自身でできる評価のうちで最も基礎的で,しかも算数の目標から見て重要なものである。

 こどもが,自己評価をすることは,とりもなおさず,自分の学習に対して責任をもつことなのである。学習の見通しを教師に預けておき,自分のしごとの是非に対して教師の判定に待つということでは,とうていこの責任を果すことができない。

 こどもが,自己評価を継続的に行うためには,自己の進歩の状況が一覧できるように表を作っておき,それに記録し続けるようにするのが一つの有効な手段である。

 次の表は,3年の夏休みに,加法九々・減法九々を,カードによって練習したときの,あるこどもの加法九々についての成績を示したものである。

 召集日には,この表と九々のカードを学校にもってきて,教師の計時によって,この記録が信頼できるものであることを確かめ,その上で押印して認定した。

 計時の際は,こどもを二人組にして,一方が実施し,一方がそれを見ているようにした。

 こどもが,このように自己の進歩の様子を明らかにするために,自己を評価することは,学習の意味を高めるのに有効なものである。それは計画的に継続して行われることによって,ますます,その効果を大きくするものである。思いつきや,気まぐれで行き当りばったりに行われたのでは,あまり効果の上がらないものであることを,ここに改めて強調しておこう。

 

九々のれんしゅうせいせき
 
月 日
時 間
ま ち が い
一学期
 5分
  3だい
8 1
  2
  3
  4
  5
  6
  7

 

 (2) 教師の評価

 教師は,学校のこどもを指導するために計画をたてなければならない。そのためには,ひとりびとりのこどもの現在の能力や進歩の状況をはっきりつかんでおらなければならない。学習の計画をたてるに先だって行われる評価は,このようなねらいから生れてくるものである。

 また,学習が始まってからでも,こどもの実情を見て指導計画を修正したほうがよいと思うことがあり,また,この指導法ではこどもに適切でないと考えて改善するというようなことがしばしば起るものである。指導計画も指導法も事前に考えられたものであるかぎり,これに基いて実際に指導してみると,計画どおりに押しきってしまうことのできないことが起るのは当然のことである。評価は,当初の計画とこどもの反応との間のずれを調整して,こどもにぴったり適合する方向に修正していく必要を明らかに示すものであり,また,改善のための手がかりを与えてくれるものである。

 教師はまた,教材や教具について,自分の選定や活用方法が適切であったかどうかを検討し,もっと適切なものがないだろうか,もっと有効に活用できないものだろうかを評価することがある。このときに,適否を決定する尺度は,それを使うことによって,こどもに対してどれだけ有効な指導をすることができたかということである。

 たとえば,計算の方法を理解させるのに古いわりばしを使うことについては,

 というような観点から評価しなければならない。

 教師はまた,こどもの進歩を評価して,その結果を両親や校長に報告することがある。これは学習が一段階ついたところで行われるのが普通である。この報告は,単にこどものでき,ふできについて述べるだけでなく,そのでき,ふできの原因がどんな点にあるかも明らかにするように,評価を行うことがたいせつである。これなしには,校長からの指導をうけることができないからである。

 (3) 校長や指導主事のする評価

 校長や指導主事は,たとえば,あるクラスの成績(目標達成の程度)が,他の学級,他の学校のそれと比べてどうであるかなどを考えて評価するであろう。このようにして,教師に対して,指導計画や指導法の修正や改善についての必要な指導や助言を与えるのである。

 校長は,学校の監理者であり,こどもの指導に対しての全般的な責任者であるとみられる。したがって,校長は,こどもがいつも最善を尽して学習していけるようにするための責任者であるわけである。この責任を果すために,校長が評価するのであり,これをとおして指導計画や指導法を改善していこうとするのである。校長の評価・教師の評価は,ともどもに,こどもの幸福をねらっているという点では,同じであると言えるのである。校長の評価が,教師を対象として行われるのは,こどもの学習指導を担任の教師に任せているからである。教師に対する評価のねらいも,第1節で述べた評価のねらいと同じであることを書き添えておく。

 (4) 両親の協力

 こどもの教育は,学校と家庭で半々に受け持たなければならない。教師がこどもの進歩に関心をもつように,また,両親にも,こどもの進歩を知ってもらうことは,たいせつなことである。これがあって,はじめて,両親に協力してもらうことができるのである。

 家庭におけるこどもの生活は,きわめて自然であるから,評価に対しての貴重な資料を,家庭から手に入れることができる。

 両親から評価の資料を手に入れるには,そのための方法が,簡単で短時間に気軽にできるようでなくてはならない。

 たとえば,「毎週一度,土曜日には必ずこどものノートを見てやってください。」とお願いをする。そのときに,次の観点から見ていただくようにするのである。

 上の各項目を質問紙の形にして,時おり両親にまる○や×をつけてもらう程度の解答でも,家庭での様子を知ることができ,学習指導上有意義なものである。このような解答から,学習指導をするときに,とくに,ノートの使い方について,どんなことに留意したらよいかが明らかにされるのである。

 

5.評価の報告
 
だれに評価の結果を知らせたらよいか。

 ここでは,評価の結果をだれに知らせるかについて述べることにする。知らせる相手が異なるにつれて,知らせる内容が異なり,また,知らせる目的も変ってくるかもしれないが,しかし,いずれの場合においても,第1節の評価のねらいを達成するためのものであることには相違ない。

 (1) こどもに知らせる

 評価のねらいは,第1節で述べたように,こどもが最善を尽して学習することができ,学習の成果をいっそうあげることができるようにすることにある。この意味から,こどもに自分の進歩の様子を自覚させ,こどもがその自覚に基いて学習していくようにするこどがたいせつである。評価の結果を,こどもによく知らせないればならない理由は,ここにあるのである。

 こどもにみずから評価をさせたことは,それによって,直接に自分自身を見つめさせたのであるから,改めて知らせるまでもない。しかし,この場合にも,こどもがはっきりと自分自身を知る——進歩の程度や,困難や,困難を克服するまでの自分の努力について——ことができるようにしなければならない。

 これがもとになって,教師の評価を正当に聞き,今後もいっそう努力するようになるのである。

 教師が評価を行った場合に,これをこどもに知らせるのに,「あなたはここまでできた。」「ここがじゅうぶんではない。」「この点は初めは遅れていたけれども,努力してりっぱに取りもどすことができた。」などと,今後はこんな点に気をつけて学習すれば,いっそうよい成果をあげることができるなどと,具体的にわかりやすく話してやるなり書いて与えるなりするのである。

 とにかく,こどもたちに評価の結果を知らせるときに,それを聞いたこどもが「よし,それならばやろう。」という奮発心を起して,受け容れるようにしなければならない。

 その意味で,他のこどもと比べて,ほめたり,けなしたりすることは本旨でないことを,はっきり心得ておかなければならない。こどもは,現在の進歩の記録が,いままでのものと比べて,これだけ進歩しているとはっきりわかればよいのである。他のこどもを引合いに出して発奮させるという手段は,効果を収めることもあるかわりに,逆に自分よりも低い方を見て,自ら慰めて,学習意欲をそぐなどの逆効果を招くおそれもある。一般に,こどもは,他のこどもをほめて,自分がけなされると,それをしぶしぶ承認しながらも,しかし,その内心に「だって,だれそれはもっと悪い。」と考えやすいものである。

 まして,各こどもの現在の様子を,すべての者の前にはっきり示すことは,たとえ,それがよくできるこどもに及ぼす効果だけについて考えてみても,決して教育的であるとは言えない。

 要するに,めいめいのこどもの様子は,教師とこどもが知っておればよいものである。いわば,そのこどもの学習指導の貴任をもっていないものには,不必要なことである。評価の結果をこどもに知らせようとする場合に,このことは,念頭におかなければならないことである。

 (2) 両親に知らせる

 第1節で述べたように,評価の結果を両親に知らせて,こどもの学習指導に対して援助してもらうことが必要である。

 両親は,自分の子が,これからどんな点に努力しなければならないかについて,はっきり知らされる必要がある。その子のよいところも,未熟なところも,両親にわかってもらって,援助してもらうことができるからである。

 この場合に,算数の学習の一部,たとえば計算だけに限って報告すると,両親の算数についての考えがそれにつれて変ってしまう心配がある。このことについては注意しなければならない。つまり,いつも計算の評価についてだけ知らされていると,算数とは計算の勉強かというような,誤解を両親に植えつけてしまわないとも限らない。こどもが家庭においても,算数を用いてその生活を合理的に処理していこうとするところを,両親が観察してこれに援助してもらえるようにするには,算数についての学習のいろいろな領域の仕事について,両親に報告することが必要である。

 たとえば,2年でとけいの見方について学習したとする。教師はその学習の細かい内容とともに,そのこどもがダイヤルの文字に影響されて20分を40分と読むような誤りをしやすいとか,時間の概念がまだ未熱で,半時間と50分を混同しやすいとかいうように,具体的な事例を添えて知らせるようにする。それを見て,ただこどもをしかるのでなく,こどもの今後の発達に注意して協力してもらおうとしているのが,この報告の本旨であることも,忘れないでつけ加えておきたいものである。

 両親に対して行われる報告をもとにして,両親からも,これに関係のある資料を出してもらえると,その報告のねうちは,いっそう大きなものとなる。

 ここで,児童に知らせる場合と同様に,特に注意しておきたいことは,こどもについての報告は,よい場合でも悪い場合でも,そのこどもの両親に対してだけ,行われなければならないということである。こどもに対して教育上の責任をもっている以外の人と,そのこどもの様子について話し合うことは,まったく道義的でないことを深く心に留めておかねばならない。さらに,教師も両親もこの報告をとおして,互に善意をもって,こどもについて話し合えるように,報告の表現やその扱いに慎重を期することがたいせつである。善意の報告が,かえって思わざる誤解を招くこともまれにはありうることである。それでは,こどもの幸福を期待することができなくなるのである。

 (3) 校長に知らせる

 校長は,その学校全般の教育に関する責任者である。したがって,校長は,その学校の指導計画が適切であるかどうか,その運用がうまくいっているかどうかについて,常に関心をもっている人である。必要があれば,担任教師に対して指導や助言を行うだけの識見を備えているし,また,それを行う機会のあることを期待しているはずである。

 教師が,校長に対して学習評価の結果を報告することは,この意味から当然の処置といわなければならない。

 校長に対して,こどもの学習評価を報告すれば,教師が校長から指導力を評価されることになろう。しかし,そのために事実をまげて報告したり,教師自身にとってふつごうなことを隠して報告したりするのは,良心的であるとは言えない。なぜならば,その報告によって,指導計画が修正される必要があっても,これが見失われるからである。また,こどもにとって有益な指導や助言を得る道を,ことさらにふさいでしまうかもしれないからである。さらに,自分の指導法を改善して,いっそう大きな指導力をもち,教師自身の伸びていく芽をことさらに隠してしまうかもしれないからである。

 たとえば,2年の加法九々・減法九々で,こどもは1だけ多く,または少なく結果を誤りやすい。8+6に対して,13と誤るこどもと,15と誤るこどもとが,ほとんど同数に近く,全部の誤りの大半がこの種の誤りであることが多い。この事実に触れないで,単に学級の平均点が96点であった事実だけを報告したと仮定しよう。このような場合に,1だけ大きくあるいは小さく誤る原因は,だれが究明してくれるであろうか。もし,それが校長に報告されると,校長みずから解明するとか,教官会議で討議するとか,適当な指導者に解明してもらうとかの処置がとられるであろう。この意味からも,評価によってつかんだ事実を,ありのままに報告することは重要である。

 校長に対して報告した場合に,校長から与えられる指導や助言は,謙虚に聞き入れる態度が望ましいことは当然である。けれども,担任の教師には,学級のこどもの指導については,実践をとおした経験をもっているという強い立場があることを忘れてはならない。これをみずから放棄してはならないのである。実践を尊重することは,それによって得られた貴重な経験を,指導計画や指導法の改善に生かそうとして,はじめて意味のあることであって,偏見を固執し,それを実践の名において譲らない立場まで擁護しようとするものではない。

 有能な教師は,評価もその報告も,現在および将来のこどもの幸福を一途に祈念して行うことを,根本の信条とするであろう。

 

6.評価の方法
 
どんな方法で評価するか。

 過去における評価のねらいは,学習の成果を調べて,こどものでき・ふできをみたり,学習の成果を品等化し,成績を記入するための資料を手に入れようとして,テストすることがおもなものであった。

 このような資料を手に入れるためには,筆記テストやそれに類するものだけでじゅうぶんであったかもしれない。しかし,これが,評価のねらいからみて,一部分にすぎないことは,第1節で述べたところである。したがって,評価のねらいに合うようにするには,筆記テストだけでなく,必要に応じて,対象にふさわしい評価の方法をくふうしなければならない。

 たとえば,こどもの学習の習慣が,どんなによくなってきたか,必要があれば,いつでも算数を用いるようになったか,態度がだんだんによくなってきたかなどについて評価しようとすると,筆記テストだけでじゅうぶんではない。これからあとに述べるのは,このような対象に対しての具体的な方法である。評価の対象から見て,以下にあるものから選んだり,これらを組み合わせたり,また,新しい方法をくふうしたりすることが必要であろう。

 特に,ここで注意しておきたいのは,算数についての評価だからといって,その評価の機会を,算数の時間だけに限定してはならないということである。算数に関係のある活動のあるととろ,すべての機会を見のがさないで評価しなければならない。たとえば,学校だけでなく,家庭,こどもだけのグループにおける活動などである。

 

評価の方法の例

 まず,主要な評価の方法の例と,その特質について述べることにする。

 (1) 筆記テスト

 筆記テストは,書かれた事実問題を解決する能力,計算力および用語についての知識を評価するための最もよい方法である。これは,普通に用いらているものであるから,ここでくわしく説明する必要がないだろう。

 (2) 口頭テスト

 口頭テストも,筆記テストと同じように,問題を解決する能力,計算力および用語についての知識について評価するために,よい方法である。ただ、口頭テストは,文章を読解する苦労がなくてよいが,発問をよほどはっきり述べないと,こどもが,そのねらいをはっきり聞き取ることができなかったり,ゆっくり考えることができなかったり,また,おじ気がついたりするきらいがあることに注意したい。

 たとえば,2年生に

 ①これは何ですか。(マッチ箱です。)

 ②このマッチ箱のたいらなところは,いくつありますか。(六つです)

 ③たいらなところは,どんな形ですか。(長四角)

 ④このマッチ箱の中に,マッチが100本はいっています。今,この中から,8本とり出すと,あとに,何本のこっているでしょう。(92本)

 このようにして,問題を解決する能力,計算や用語について知識を評価するのである。口頭テストは,文章の読解に抵抗を感ずるこどもの,算数についての能力を割合に客観的に調べることができ,しかも,発問をこどもの情況に応じて変ることができるという点からみて有効な方法である。

 (3) 面接法

 面接法というのは,こどもや両親と面接して,いろいろな話合いをして,こどもの進歩の様子を評価する方法である。

 (a) こどもとの面接

 この方法は,理解,学習の習慣,態度,および校外において、算数をどのように使っているかを評価するのに役だつものである。また,この方法によって評価していると,こどもに自分の現在の様子をよくわかるようにすることができて,ことさらに,評価の結果を知らせる必要もないわけである。また,こどもの理解や傾向についての指導について反省し,次の指導の段階を計画したり,成長を評価したりするのに有効であろう。

 たとえば,重さの指導の直後において,次のようなことについて,こどもと話合いをしたとする。

 以上の面接における話合いからわかるように,こどもは重さについて,どの程度に関心や興味をもち,自主的に学習しているかがわかるであろう。また,このこどもは,さおばかりのはかり方に,どの程度に理解をもち,また,学校外の生活において,どの程度に利用しているかがわかるであろう。さらに,さおばかりは,まだ,じゅうぶんに使いこなすことができないことから,次の指導の段階を計画することが必要であろう。これは,こどもの面接によって評価する方法の一例を述べたのである。

 (b) 両親との面接

 これは,P.T.Aの集会や家庭訪問の機会に両親と面接をして,評価をする方法である。

 このような機会を通して,家庭や学校外におけるこどもの態度,算数の利用,親の要求や態度,こどもの成長を刺激したり,阻害したりする家庭事情を知ることができる。これは,学習指導の計画を修正するのに,有効な資料を提供してくれるものである。

 (4) 観察法

 観察法は,学習の過程におけるこどもの行動を観察する方法である。こどもの動作・表情・話合いなどから,こどもの理解,能力,算数を有効に利用しようとする傾向などを,全体的にとらえるのである。これは,そのようなねらいに最も適した方法であるといえよう。観察法は,筆記テストや口頭テストに比べて,主観的な要素がはいりやすいけれども,観察の要点をあらかじめ予定しておき,チェックしやすいようにしておき,しかも,継続的に観察していきさえすれば,この欠点を除くことができよう。

 たとえば,4年生の旅行の計画・実施・報告を聞いて,次のような観点からチェックする。

 このような観点からチェックした資料を用いて,指導計画をどんなに修正したらよいかとか,学校行事をどのように展開したらよいかについての見とおしと計画をたてることができるであろう。

 (5) 質問紙法

 質問紙法というのは,こどものいろいろな角度からの進歩に関する資料を,こどもや家庭の人々から手入れる方法である。

 これは,家庭および学校における算数の利用・態度・学習の習慣などに関して,こどもが全体として,どの程度に進歩したかについて,こどもや家庭の人々が周期的に記録しておき,これを資料として評価する方法である。

 たとえば,2年生にとけいの見方を教えたあとで,次のような質問を家庭に発したとしよう。
 
家のこどもは { (イ) 前からとけいの見方がわかっていましたか
(ロ) 近ごろ学校の指導で,わかるようになった
(ハ) まだ,よくわかっていないように思われる
家のこどもは { (イ) きっちり何時という場合だけ読める
(ロ) 何時半という場合も読める
(ハ) 9時45分(または10時に15分前)というように,5分きざみで読める
家のこどもは { (イ) とけいを見て,自分の生活を律することはほとんどない
(ロ) 時々,とけいを見て,今は何時だという程度である
(ハ) 登校や就寝・友達との約束の会合などの時は,とけいを見て行動を律するようになった
家のこどもは { (イ) きまりよい生活の程度は,前とあまり変らない
(ロ) 近ごろ,とけいの勉強をしてから,時刻を守ったり,きまりよい生活をするようになった
(ハ) とけいや時刻には無関心であって,一向に生活がひきしまらない

 このような質問を発することによって,家庭における算数の利用・態度・習慣などの評価をするための有効な資料を手に入れることができる。

 教師も,自分の担当しているこどもについて,次のような質問に対して,チェックして,こどもの発達を調べて,評価をするがよい。

 こどもの発達を全体として見るための教師に対する質問の例

 (6) こどもの仕事の批判的研究

 これは,こどもの仕事について,教師とこどもが,お互に批判し合うことによって,こどもの困難や,困難の原因を見つけて評価していく方法である。

 こどもの仕事といっても,それはこどもの書いた調査研究物や,一つの計画についての口頭発表,継続的な学習経験などをさすものである。

 たとえば,4年生のこどもが夏休みの研究として,毎日の気温を測定した仕事について考えてみよう。

 もし,夏休みの前であれば,その仕事の計画について,次のようなことを研究する。

 という批判的な研究が,指導計画を修正し改善していくのに必要であろう。

 もし,それが,夏休み後のことであれば,その調査研究物について,次のようなことを研究する。

 このような点について話し合う間に,こどもの困難や困難の原因を見いだし,これからの指導計画を修正したりする必要を知ることができるであろう。

 (7) 教師・両親・こども・指導主事などの記録

 こどもについての進歩は,担任教師以外の教師や,両親,こども,指導主事が記録しているかもしれない。このような今までの記録を手に入れることができれば,算数についての既往経験,今までの標準の結果,および,今までの算数についてのこどもの進歩を知ることができる。

 たとえば,教師は,前担任によって記録された事項を引きつぐとか,両親が家庭において,こどもの数量生活に関係した生活の記録したことを資料として見聞するとか,指導主事が参観した記録や感想を,教師に提示するなどは,これであろう。また,こどもが,自分の算数についての能力に関心をもち,標準テストをした継続的な記録の結果や,数量関係についての記録なども,これであろう。このようにして,次のよりよい指導法を見いだしたり,計画の修正をしたりするのである。

 (8) 非公式な話合い

 最後に,教師はいろいろな機会に,こどもたちと話し合うことがある。運動場や路上で何気なしに話し合うことなどは,この例である。

 このような話合いの間に,こどもの態度,理解および算数の利用などについて,評価することができる。この場合には,指導しているときの話合いのように,重苦しい感じがなく,気楽に話し合うことができる。したがって,教師が熱心でありさえすれば,これによって評価することができる。

 以上は,評価のいろいろな方法について,その長所や短所を述べてきたのである。実際の場において評価するときには,目的に応じ,適切にその長所を生かして評価することが必要である。ここで,特に注意しなければならないのは,おのおのの方法に,長所や短所があると言うことは,ごく一般的な立場から見て述べたにすぎないと言うことである。

 これらの方法の使い方によっては,長所と考えられたことをじゅうぶんに発揮できない場合もあれば,また,短所を適当に補正できることもしばしばある。たとえば,筆記テストは,客観的であり,観察法は,主観的であると言うようなことは,しばしば対比的に考えられている。しかし,筆記テストは,ある学習の断面を比較的容易に,客観的にとらえることができるという特質があるだけのことである。そのテストのときに,前日に家庭がいそがしかったとか,寝不足であったとかのために,成績の悪いこどもがあるだろう。また,長期欠席のために,できないこどももあるだろう。このような場合には,その成績に対して,適当な修正をする必要があろう。これで,はじめて,評価が適切なものとなるのである。

 つまり,筆記テストは,採点に主観がはいらないのが長所であるけれども,これに対して,こどもの観察に基き,正しく補正することが必要になると言えるのである。

 同じようなことは,主観的であるといわれる観察法についても言えることである。主観的になりやすいということは短所であるけれども,うまく使っていきさえすれば,これは,決して短所であるとは言えないのである。前にも述べたように,観察の観点を定めて,これをいくつかの段階にくぎり,そのいずれに該当するかをチェックしたり,また,継続的に観察していけば,観察法が主観的であるという欠点を少なくすることができるであろう。

 

評価の対象とその方法

 一般に,評価の方法は,評価のねらいとその対象によって定まるものである。ここに,主要な評価の対象をあげて,これについて評価の方法を述べてみよう。

 (1) 社会的目標についての理解や技能の評価

 社会的な目標についての理解や技能は,こどもの行為を観察したり,こどもと話し合ったりすることによって,評価することができる。次に掲げてあるのは,社会的目標とみられる理解や技能として,どんなものについて評価したらよいかを,例によって示したものである。

 以上はこどもの行為の観察や,話合いなどの方法によるものであったが,社会的な場で必要になる次のような知識を評価するには,筆記テストを用いることができる。  (2) 数学的な理解

 数学的な理解を評価するには,こどものしぐさを見たり,こどものやったことを聞いたり,テストをしたりする方法が有効である。

 たとえば,グループで収穫物を分けようとして,計算しているこどもに対して,次のような発問をしたとする。

 これに対するこどもの反応を見ると,こどもが除法の意味について,どの程度に理解をもっているかとか,どの程度に適用することができるかなどについて,評価することができる。次に数学的な理解を評価する場合に,対象として考えるものの例をあげておく。  (3) 傾 向

 傾向は,まったく個人個人について評価すべきもので,他のものに比べて,あいまいで,評価しにくいものである。しかし,教師は巧みにこどもの観察や話合い,また,家庭への質問などの方法を使って,継続的に計画的にしていけば,評価することができる。次に,傾向として評価したらよいと思われるものの例をあげておこう。

 

こ の 章 の ま と め

 この章は,算数についての学習をどのように評価したらよいかを主題として述べている。この章で述べたことは,次のようにまとめることができる。

1.評価のねらい

2.評価の対象 3.評価の時期 4.評価をする人 5.評価の報告 6.評価の方法