三 幼児の生活指導

 

1 身体の発育

 

1、健康な生活を子供にさせるように努めよう。

 幼児を保育するに当たって、最もたいせつなことがらは、年齢相応に精いっぱいの発育をさせ、健康な生活をさせるようにする事である。そのためには、幼児の生活全体にわたって健康な生活ができるように考慮し、指導することが望ましい。よい環境をととのえ、十分な栄養を与え、適当な運動をさせ、十分な休養と睡眠とをとらせ、病気の予防に万全の措置をとり、健康のよい習慣をつけるように努力しなければならない。

2、病気の徴候を注意深く観察して、決定的処置をすぐにとるようにしなければならない。

 幼児は体力も免疫力もともに弱い。幼稚園や保育所はこのような幼児が集団生活を行うのであるから、不注意に過ごすと病気をうつし合う場所となるし、またこの時代の幼児にとっては、ちょっとした病気でも重大な影響のあることを忘れてはならない。入園のとき、幼児の病歴、ことにはしか・百日ぜき・耳下せん炎・ジフテリア・水痘について詳しい調査をしておくことが必要である。また病気は早期発見が最もたいせつであり、同時に、決定的な処置を直ちにとること、ことに伝染性の病気については早期の隔離が、絶対に必要である。

3、毎朝幼児の健康と清潔を調べよう。

 幼児が登園したら、まず第一に健康状態と清潔の状態とを調べよう。病気の早期発見と感染予防のためには朝の検査が最もたいせつである。検査では、元気・顔色・血色、皮膚の張り、動作、眼球の光沢と動き、のどのかげん、目やにの有無、せきの有無、皮膚の色つや等に気をつけ、のちに述べるような伝染病の早期徴候にもよく注意する。また衣服ことに下着や手ぬぐい・皮膚・頭髪・つめの清潔について調べる。着物の着せ過ぎにも気をつけて観察し、温度に応じて調節してやり、ことに厚着をさせないように注意する。そして異常を認めたら、すぐに適当な処置をとり、ことに伝染病の徴候を発見したときには、すぐ帰宅させて適当な処置をとらせるようにしなければならない。

4、けがに気をつけよう。

 片時もじっとしていないのが幼児の本質であるから、かすり傷・突き傷・きり傷などの絶えまがないのが普通であるが、まずよけいなけがをさせないように、遊具の故障や、庭や、砂場などにけがのもとになるガラスの破片などのないように気をつけなければならない。けがをしたら最初の手当てがたいせつである。どろその他の不潔なものがついていたら、オキシフルまたはほう酸水でよく洗い、ていねいにふきとって、その後にマキロクロームをつけておく。深い傷や大きい傷のときは、包帯をするが、浅い小さい傷のときはかえって包帯などしない方がよい。

 

2 知的発達  

1、すべて子供のすることには、子供なりの目的があることを念頭に置かなければならない。

 子供が一生懸命になって何かしているとき、おとなの目から見ると、一体何をやっているのかわからなかったり、まことにつまらないことをやっているように思えることが多い。それは何かするときのおとなのつもりと子供のつもりとが互に食い違っているからである。どろこねに夢中になっている子供を見て、おとなはつまらないことをやっていると思うかもしれない。子供が一生懸命になって作る土のだんごは、おとなの目から見るとなんだかえたいの知れないものであるために、なんだこんなものと思ったり、子供をからかったりすることがある。しかし、子供のしていることは子供にとっては真剣な仕事でありはっきりした目的を持っているのである。子供には子供としてのつもりがあり、目的がある。この子供の心に有る目的にそって、子供が自分の考えを発表するようにさせることが、子供の心を成長させる道である。大げさに言えば、計画的能力の発展であり、このような計画的能力こそ知的成長の最もたいせつな基礎である。このような意味でまず、子供には子供のつもりがあり、目的があるということを、何よりも先にはっきりと理解し、これを成長させるように子供を導いて行くべきである。

2、子供自身の中からわきおこってくる興味から出発した経験をさせるように、子供とともに考えよう。

 子供は興味にしたがって動く。興味のあることには夢中になって自分を打ちこんで遊ぶ。興味のないことに対しては動かない。絵の好きな子供は夢中になって絵を描き、積み木の好きな子供は一生懸命に積み木を積む。また同じ絵にしても、自動車の好きな子供はしじゅう自動車ばかり描いている。そして、興味のないことは見向きもしない。子供は自分を動かすことによって、自分で活動することによって成長するものであることを考えれば、子供たちの動きを引き出す原動力になる興味こそ、子供を成長させる最もたいせつな要素である。子供の遊びも活動も、すべてこのような子供の心から出る自然の興味から生まれ出るものであるから、それにしたがって、子供自身の発意を尊重し、子供とともに、遊びの計画をたてるようにしたいものである。しかし、一方から考えると、子供の興味はその向くところが非常に限られている。そのままにしておくと非常にかたよった心の子供ができてしまう。このことを避け、いろいろなものに興味を持つことのできるような、調和のとれた子供を作るためには、子供がいろいろなものに対する興味を持ち、またその興味をひきおこすことができるように、子供の環境を豊かにととのえることが望ましい。

3、おのおのの子供が教師の言うことや話し合いをよく聞き、よく理解するようにしなければならない。

 教師や親は、子供に話しかけるとき、自分の言っていることや話し合っていることを、子供がよく聞いているか、ほんとにわかっているかどうかを、確かめなければならない。五歳の子供でなければわからないようなことを三歳の子供に言っても、理解されないであろう。またわからないから、いゝかげんにきくようになるものである。また子供が何かほかのことに夢中になっていて、こちらの言うことに十分注意を向けて聞く態度ができていないのに話しはじめても、理解されないのは当然であろう。いつでも教師や親は、自分の言いたいこと、話し合いたいことの趣旨が子供に徹底するように話すという注意を怠ってはならない。ひとりのみこみや、早合点は正しい知識にならない。また全然わかっていないことがらが知識にならないことはいうまでもない。聞く態度と正しい受け取り方ができるように子供をしむけることは、正しい知的成長の必要条件である。

 また、これと同じことはおとなの側にも要求される。子供の言うこと話すことに対しては、おとなもそれをよく聞いてやる態度をとることがたいせつである。おとなの方で早合点をしたり、いいかげんな聞き方をしたりすると、子供もやはり、早合点したり、いいかげんな聞き方をするようになるものである。

4、子供が自立の習慣を身につけるようにしてやらなければならない。

 どんなことでも自分自身でやることが、子供の身についた力となる。ひとにたよって、ひとにしてもらうことは、ひとに考えてもらうことであって、子供が考えることにならないから、子供自身の成長のかてにならない。自分でするということは自分で考えることである。自分で考えることによってはじめて子供の心は成長する。積み木をして遊んでいる子供は自分で積むことをしなければならない。自分で最後まであとかたづけをすることによって、きちんとすることを学ぶのである。

 遊びにも生活にも、すべてのことを最後まで自分ひとりでやりとげるという自立の習慣を養うべきである。自立の習慣は、自分の世界を自分で作る習慣であって、子供の知的成長にとって重要なことがらである。今までの幼児保育、ことに家庭教育をふり返ってみると、子供を盲愛して、いつまでも赤ん坊扱いをしていたことを反省しなければならない。

 しかし、この場合子供の発達の程度を考慮して、かれらの能力以上のことを要求してはならない。子供の年齢とかれらの能力の限界をはっきり認識することがたいせつである。

5、どの子供もみんないっせいに同じことをするというのは望ましいことではない。

 子供はみなめいめいの個性を持っている。知的能力についてもそれぞれ特徴がある。絵の得意な子供もあれば、粘土細工の得意な子供もある。絵本を喜ぶ子供もあれば、歌の好きな子供もある。運動の得意な子供もあれば、談話を楽しむ子供もいる。子供めいめいの興味を生かし、その特徴を最大限に伸ばしてやる点から考えれば、多くの子供たちに同じことをするようにしいる保育のやり方は、反省されなければならない。このような保育は、せっかく持っている個性を無理に一つのわくにはめこむことになり、各自の特徴を伸ばすことができないからである。個性に応じて、おのおのの子供の持っている知的能力を十分に発達させるために、それぞれの興味に最もよくかなった自由な活動が許される機会が与えられなければならない。

6、どんな小さい子供でも、機会さえ与えられれば、自分で考える力を持っていることを認識しよう。

 どんな子供でも、自分がどうにかしなければならない立場に置かれ、またしたいと心から欲する立場に置かれれば、おのずからおとなを驚かせるような思考力を発揮するものである。高い所に乗っているお菓子をとりたいと思うときには、三歳の子供でも踏み台を持って来ることを知っている。遊具の乏しい環境にある幼児たちは、有り合わせの木片や石ころを利用して、いろいろと遊び方をくふうする。積み木で門を作ろうとしている三歳の子供は、はじめのうちは二本の柱の上に平らに積み木を渡すことがなかなかできないが、やがてくふうして門を作り上げる。自分で考え、自分で考えを発展させて行く機会を与えるような環境を作ってやる必要がある。それが子供の知的発達にとって最も望ましいことである。機会さえ与えられれば、子供は十分考える力を持っていることをわれわれは認識しよう。

7、子供に責任を持たせよう。

 生活の責任を持つということは自分で始末し、自分で処理できる世界を持つということである。子供の能力はこのように自分の力で切り開いていく世界の中で、はじめて発達することができる。食事のことも、排便のことも、すべて自分できちんと始末するだけの責任を持たせよう。おもちゃのあとかたづけも、着物の始末も、帽子やはきものの始末も、自分で責任を持つようにさせよう。三歳の子供なりに、四歳の子供は四歳の子供なりに、子供の発達に応じて、すべての生活の責任を持つようにさせよう。どんなに簡単なことであっても、子供自身の責任の範囲を定めて、生活の責任を持たせるように、親も教師も考えなければならない。

 

3 情緒的発達  

1、安定感が何よりもたいせつである。

 情緒の発達から考えて最も望ましいのは、円満な、調和的な情緒を持った子供を育てることである。このような情緒は、幼児が自分の環境に安住していられるとき、すなわち安定感が十分にあるときにはじめてつちかわれる。乳児は、母のひざ上にいるとき最大の安定感を持ち、家庭のふんい気が落ち着いたものであれば、家庭にあるとき最大の安全感を持つ。幼稚園や保育所にある子供の口からおのずから歌がもれて来るならば、それは安定感のあるしるしであろう。そしてこの意味からいって、教師も親も子供の環境の一部として、最大の安定感として与えられることが必要である。そのためには、教師や親は、不安のない、確固たる自信を持った円満な教育者でなけれほならない。子供は周囲の者の感情的動揺に実に敏感だからである。

2、ほんとうに必要な場合に必要な同情。

 同情心は、入が困っているときか、自分より小さい弱いものに対するときに起きる。いいかえれば自分より低い状態にあるものに対して起る情緒である。自分が非常に困っているときとか、どうしたらいいかわからないようなときには、幼児は周囲の人に同情を求める。しかし、泣けばすぐに手を貸してやるというような安易な同情心はほんとうに必要な同情心とはいえない。泣いている子供、困っている子供があったら、泣いている原因、困っている原因をよくつきとめて、心からの同情をもってその困難を克服してやる。そうしてその場合には十分の同情心を示してやらなければならない。同情心は幼児の心に同情心をつちかい育てるものとなるのである。

3、健全な愛情。

 母親であっても教師であっても、幼児を育てるものは、愛情を持っていなければならない。愛情を持たない者は母としても教師としても資格がない。しかし、この愛情は決して単なる甘やかしや盲目的な愛であってはならない。おもちゃがほしいといって泣いている子供に、かわいいからといって、すぐにおもちゃをとってやるというのは甘やかしである。子供の置かれている状態と子供の心の動きとを考え合わせて、そこに表わされる愛情には健全な量が必要である。甘やかしや盲目的な愛は、育てる側のおとなの自己満足であって、幼児の情操の健全な発達には、かえって大きな妨げになることがある。そこには真に子供のためを考える理性が伴なう必要がある。

4、忍耐と冷静の必要。

 幼児の理解力はおそく、またその行動もにぶい。おとなや大きい子供の心持をもって対するときには、とかく性急になりやすい。幼児の場合、まっすぐに近道を通って行けないことが多い。しばしばまわり道が必要である。ゆっくりと、落ちついた気持が何よりもたいせつである。一生懸命に自分でボタンをかけようとしている子供ののろさを我慢しきれないでせきたてては、子供はいらいらしてしまう。忍耐と冷静をもって指導することは、子供の情緒の健全な発達のための基礎条件の一つである

5、むずかしいことが起ったとき、感情的な態度をとってはならない。

 何か事件が起って、思う通りにいかないとき、子供は困惑し、恐れ、心配し、かんしゃくを起し、泣く。このようなとき、もしそばにいるおとながあわてたり、怒ったり、心配したりして、感情的に興奮してしまうならば、子供もまた同じように興奮してしまって、始末におえなくなる。子供は周囲のおとなの感情にそのまま支配されてしまう。おとながあわてると子供もあわてる。おとなが恐れると子供も恐れる。おとなが怒ると子供も怒る。そういうことは静かに子供を指導してゆくことができない。子供に接するときには、感情的態度をとらないように努めなければならない。

6、幼児は常にやわらかいふんい気の中に置かれなければならない。

 幼児は、被暗示性に富むから、周囲の感情的ふんい気に同化されやすい。周囲のふんい気が、いらいらした、とげとげしいものであると、幼児は円満な調和的な感情の持主には決してなれない。両親も教師も、いつもなごやかな心持とやさしい行動とを持つように心がけなければならない。やわらかい親しみのある調子の話し方、物腰やさしい行動が望ましい。家族の間が不和でとげとげしかったり、絶えず緊迫したふんい気の中で育つ子供は、感情的調和を養われ得ない。

7、性急で無理な要求を押しつけてはならない。

 幼児が何かしているとき、幼児には幼児の立場がある。外から見てはわからない原因でおこっていることもあろう。またおとなから見ればなんでもないことに困って泣いていることもあろう。しかし、幼児にはそれぞれ理由があり、立場があるはずである。教師がその場面のもつれの原因を捜し出して、その障害となっている原因をとりのぞいてやることがたいせつである。

 幼児には、その幼児の置かれている立場のもつれを、ゆっくり丹念にほぐしてやる心持で対さなければならない。おとなの考えで押しつけがましく、無理な要求をすることは、ときには反抗心を助長し、ときにはかんしゃくを誘発し、またときにはいじけた心を作り上げるであろう。

8、遊びや活動を途中でさえぎり、じゃますることは心して避けなけれはならない。

 積み木を積むにも、砂遊びをするにも、子供はそのことに精いっぱい自分を打ちこんでいる。子供は自分の興味の向かうものに自分を打ちこむのである。ところがこのようなときに、おとなはとかく自分の都合から、子供の遊びや活動をさえぎってやめさせたがる傾きがある。このようなことは、子供の心とからだの全活動をさえぎり、押さえつけてしまうことであって、決して子供の心を完全に発達させることは望めない。せっかく伸びようとしている子供の心が、探求の芽が、自発的な活動が、みな途中で打ちくだかれてしまうのである。せっかく周囲の世界に対して芽ばえかけている興味をへし折られてしまうのである。もしこのようなことがくり返されるならば、何を見ても興味の動かない子供、何も熱心にしようとしない子供になってしまう。心の成長はゆがめられてしまうのである。但し、子供の一日の生活の中で規則として定められたこと、たとえば食事というようなことに対しては、その規則にしたがって遊びをやめるようにしなければならない。その場合は、子供の興味が最高潮に達しないうちに、あらかじめ心構えをつくらせておいてやめさせるようにすることが必要である。

9、子供の生活指導には一貫性が必要である。そのときどきの感情にそこなわれたり、自分の教育方針に対する自信の不足や、他の人からの干渉のために自分の方針を一貫し得ないときには、子供の情緒の発達に好ましからぬ影響が現われてくる。一度いけないといったことであっても、子供が泣きわめくからといって子供の言う通りにしてしまうと、それはかんしゃくの原因になる。いけないといったことが、教師や親のそのときどきの気分によって違うと、子供は言うことを聞かなくなる。また、甲の先生と乙の先生とでの言うことが違っているというようなこともよくない。子供は自分に都合のいい人の言うことだけを聞くようになる。すべて抵抗の弱い所へおもむくのが子供の動きである。やわらかい、やさしさとともに、一貫性の強さのあることは子供の情操の健全な発達の上に最もたいせつなことである。

 

 

1、子供に接する者の生活態度は絶対に公明であり正直でなければならない。

 子供は自分のまわりにいる者の生活態度をそのまま反映する。そして民主的社会生活の基礎はお互の生活と行動が公明であり正直であるところにある。だからこの基礎的な社会的生活の態度を子供に養うには、ただ子供に公明であれ、正直であれと口で言うのみではいけない。親も教師も、自分自身の生活態度において、また子供に対する態度において、絶対にごまかしのない、公明正直な態度を持たなければならない。不公明、不明朗、不正直な生活態度は、子供にもまた不公明、不明朗と不正直とを植えつけるであろう。

2、いつでも静かな快い調子で話をする。

 おだやかな明かるい快いふんい気の中で生活すると、子供は明かるく、気持のよい子供となる。社会生活をする上に、ことばは重要な用具である。お互の社会的交渉はことばでされ、ことに話しながら相互の意志を通じさせるのである。話し声、話す調子はその場のふんい気をかもし出すのに一番たいせつであるから、平和な静かな調子で話すことがたいせつである。

3、お互の権利と特権を尊重してやらなければならない。

 社会生活においては、お互の権利を尊重し、お互の立場を認め合うということが一番たいせつである。子供に対しても、その子供の立場、その子供の権利は十分に尊重してやりたい。子供の権利がいつでも押えつけられているということは、その子供から自己主張、自己表現の機会を奪う事に等しい。よき自己主張と自己表現とを身につけさせるために、親も教師も、子供たちの生活の中にでき上がっている子供たちの特権、たとえば先着者の特権、お当番の特権等々も十分尊重してやり、お互の立場を尊重するという社会生活の根本態度を、生活を通して身につけさせるようにしよう。

4、いつも肯定的な言い方をしたい。

 子供に対していろいろの注文を出し、命令を出すときには、できるだけ肯定的な言い方をしたい。あれもいけません、これもいけません、だめですよというように、いつも否定的命令のみで囲まれている子供は、どうしても消極的な、いじけた子供になりやすい。悪いところを捜し出して、これを押えつけるというよりも、よい所を見つけて、これを積極的に伸ばすことを考える方が、子供の生活を明かるくし、成長させることができる。明かるく積極的に成長することによって、悪い方面は自然に消滅する。

5、日常生活の日課においては、早く完全に自立させるようにしよう。

 身のまわりの始末を自分できちんとし、いつまでもまわりのおとなにたよらない生活を、できるだけ早くさせるように子供たちにしむけよう。いつまでも身のまわりのことでおとなをわずらわしている子供は、それだけ依頼心が強い。自分の生活をおとなにたよっているからである。独立した、自分の生活を自分でやって行く自立的生活態度は、まず身のまわりの始末の訓練を通じて養うことができることを考え、なるべく早く自立の習慣を養うように心がけたい。

6、できる限り子供が自分で選択をするようにさせよう。

 遊びでも、生活でも、すべてでき得る限り、子供が先に立って自分で選択をするようにさせたい。自分で選んだことは、その結果がよくても悪くても、すべて自分の責任である。自分で選ぶことはこの意味で、最も自立的な生活態度の一つの要素である。まず自ら選ぶこと、そしてその結果を自分で切実に体験すること、この自主的生活態度を身につけさせるために、あらゆる可能な機会に自分で選択するようにさせよう。

7、子供が泣いたり、かんしゃくを起したりすることでわがままを通すことのないように気をつけたい。

 思うようにならないからといって泣き、かんしゃくを起してわめいたり、ひっくり返ったりする癖の子供が多い。このようにさわぐ子供に、さわぐからといって、わがままを通させるとそれは癖になってかんしゃく持になる。子供の言い分を通してはいけないことがらは、どのように子供がさわいでも、そのわがままを通させないように、気をつけなければならない。かんしゃくの癖を起さないようにすることは、自制力を身につける第一歩である。

8、めいめいの子供をよく知り、その子供に最も効果的な扱い方をしよう。

 子供はめいめい違う個性を持っている。甲の子供を扱うのと、乙の子供を扱うのとでは扱い方が違わなければならない。甲の子供によかった方法でも、乙の子供にはきき目がないかもしれない。否、きき目がないというより害があるかもしれない。明かるい性格の子供を扱うのと同じ方法で弱い性格の子供を扱うと、いじけてしまうであろう。めいめいの子供に最も効果的な方法をとって、ひとりひとりの子供をよくするように心がけよう。

9、子供がまちがったことをしているのを直してやるときにはできるだけ、それがあやまった結果であることを子供にわからせるようにしよう。

 まちがったことをしたら、その結果悪いことが起るから、私どもは子供の行動を訂正してやらなければならないわけである。だから、せっかく子供の行動を直してやっても、なんのためにそうされるのかが、子供にわからなかったら、私どもの訂正はきき目がないことになる。そこでこのきき目を最も十分ならしめるためには、子供の行為の結果、悪いことが起ることを子供に十分わからせるように、まちがいの結果をはっきり子供の目の前に示すことがたいせつである。

10、まちがいを直してやることが必要な場合には、できるだけ早く直してやらなければならない。

 子供がまちがったことをしていたら、できるだけ早くそれを直してやらなければならない。まちがいがまちがいのまま固まって、しじゅうまちがいをくり返すという結果になるのを避けることがその第一の理由である。そして第二には、子供のやったこととその結果であるまちがいの訂正との間に時がたってしまうと、その訂正がなんのためになされたのかがわからなくなり、結果と原因との結びつきが子供に十分意識されなくなるからである。訂正の効果を適確にするためには、できる限り早く訂正を加えてやることがたいせつである。

11、子供に何かさせようとする時には、そのことの必要さを確かにしなければならない。

 どうでもいいことを子供に要求してはならない。何かさせる時には、そのことが十分必要であることを自分も確かにつかんでおり、またその必要さを子供に十分納得させなければならない。どうでもいいことでは行われない。行われない要求をしじゅう出していたら、命令や要求の意味がなくなり、だんだんこれを軽んじて、ついにはいっこういうことをきかなくなるであろう。要求や命令は必ず必要のあることを出し、その必要さのはっきりしたものでなければ出さないようにしたいものである。

12、子供に接する者は、いつも子供のほんとうの友だちになるように努めるよう。

 子供に接するものは、いつも子供のいる所まで降りて行って、子供の世界にはいりこめる者であってほしい。子供のほんとうの友だちになって、はじめて子供とともに、子供を引っぱって行くことができるからである。