単元四 どのようにしてヨーロッパの人間精神は解放され,ヨーロッパ世界は拡大されたか。
要 旨
近世前期は大体16世紀初頭から18世紀までの時代をさす。歴史の時代区分は元来そう厳密にいえないから,地方により国によって,多少の差異が生じるが,近世史の序幕とされるイタリアの文芸復興について見れば,それは既に13世紀の末から始まっている。しかし文芸復興が歴史的に大きな作用を与え,人々にその意義をさとらせたのは,やはりそれから一世紀くらい,のちのことであるから大体からいって,さしつかえないと思われる。
近世人の最初の自覚は,文芸復興と宗教改革によって象徴される。この二つは二つとも本質的に精神の作業であり,古いものの再生による活動力の覚醒であるが,文芸復興がギリシア・ラテンの古典に還るのに対し,宗教改革は聖書に還る。しかしこれについて忘れてならぬことは,当時の人は,古いものに還ったといっても,それは単に,古代に還るために古代を採用したのではなくて,実際は長い間習慣のなかに埋もれていた人間性を自分のものにしようとして,古代の伝統に学んだのであった。最初は単なる古代研究であったヒューマニズムなる言葉が,のちに人間の正しい在り方をとる主義の意味に転じたのもそのためで,その精神は,近代のあらゆる知性や道徳の理想の源泉となって,科学の方法や社会主義や民主主義,人類愛などの理念を生むに至った。
近世初期に文芸復興の運動と並んで歴史に現われた著しい現象は地理上の発見と近代国家の成立である。
地理上の発見は一見東方貿易へ,ちか路を求めようとした人たちが,たまたまアメリカ大陸を発見したにすぎないように見えるが,実はこの偶然を生んだ試み自体が歴史の動きと深くつながっていたのである。即ち,時代の進むにつれて,狭いヨーロッパにも微弱ながら生産物の余剰が生じ,人々はしだいに販路を拡げようという希望を持った。それが十字軍の結果,東方への途を得たので,これによって利益を挙げようと考えた。ところが一度通商が開けると,地の利を持つイタリア商人が貿易を独占したので(ちなみにイタリアに文芸復興が一番早く起ったのは,都市がこの貿易によって繁栄し,封建制度から解放されて民主的な体制をとったことによるところも多い),他の諸国は別の途を考えなければならなかった。
そのため,イスパニア・ポルトガルは,しきりに船隊を派して,別の航路をさがしたが,その望みは15世紀末葉コロンブスと,ヴァスコ=ダ=ガマによってついに達せられた。以来二国は新大陸とインドから流入される銀と香料とによって急速に国力を富裕にし,一時は,世界の最大強国となって,海に陸に版図を拡げた。
こうして地理上の発見は,当時成立した中央集権国家の宿命と歩調を一つにして行われたが,その結果は,また逆にヨーロッパ諸国の社会・経済に大きな作用を与え,植民と同時に国内の生産を促進し,各国の盛衰を決するほどになった。近世において一番先に栄えたイタリア都市につづいて,ポルトガル・イスパニア・オランダ・イギリス・フランスの年代を追った隆盛は皆これによるところが多い。ドイツだけはなお小国家に分裂し,宗教改革後の政争に巻きこまれていたので,海外に発展する機会もなく,勢いも振るわなかった。
これらの国家は,しかし,いずれも中世の大領主から出た王によって,統一され,財政的に実力をもつ市民出の子弟によって,支持されていた。絶対主義といわれる名称は,その形体を一番端的に表現したものであるが,イギリスではエリザべス,フランスではルイ十四世の時代がまさにそれに相当する。そうして列国は互に国家の拡大を望み,折あれば,小国を配下に治めようとしていたので,ヨーロッパには戦乱が絶えず,しばしばその余波は海外にも及んだ。しかもかれらの政治は支配者の栄誉のためには,国民の不幸も,選ばなかったので,17世紀末葉イギリスの「名誉革命」のような事件が発生し,国民の自由と意志に基づいて,政治を律しようという国も起った。その典型は,アメリカ合衆国の独立にも示され,自由と正義のために戦った人民の勇気は近代民主主義運動の大きな指針となっている。
近世ヨーロッパの歴史にもう一つ忘れてならぬものは,資本主義の成立である。この傾向は,中世末期の都市の間から発し,地理上の発見による商業の異常な発展によって,更に助長されたが,特にイギリスにおいては,早く資本主義的な生産が起り産業革命の基礎を作った。資本が国内に蓄積されると共に,資本家の存在が,国家のなかで大きな地位を持つに至り,国家もまたその活動を助けることによって国力を増進することが,はじめて可能となった。しかし時代の進むにつれて,長く産業界を支配したギルドや問屋が資本主義的生産に圧迫を加えたので,かれらは,これと戦い大商人の独占から解放されようとして,しだいに支配階級に対抗するようになった。そうしてこの動きから自由主義の叫びに呼応する者も出て,18世紀には,政治運動の核心を形成するほどになった。フランスの旧制度が受けた試練はまさにこのような社会の転換に対応するもので,それは革命思想を誘導し,なおこれに相当するイギリスの立憲政治運動は,すでにこれより約100年前に起った「名誉革命」に至るまでの経過において見られたところのものである。
目 標
二.文芸復興の成果を通して近代精神の特徴を理解すること。
三.宗教改革が何故起ったかを明らかにし,信仰の問題が社会や政治にどのような影響を与えたかを認識すること。
四.地理上の発見とそれによって,促進された社会経済上の変化を理解し,それが近代の政治機構にどのような影響を与えたかを明らかにすること。
五.名誉革命の原因と経過を通して,近代民主義の方向を理解すること。
六.アメリカ独立戦争の精神的並びに政治的な性格を明らかにし,現代アメリカ人の理想を理解すること。
七.18世紀の啓蒙(けいもう)思潮がいかなる社会情勢のもとに生まれ,それがヨーロッパの国々にどのような影響を及ぼしたかを理解すること。
(注)この問題は簡単に解決されるものでなく,むしろ歴史を学習したのちに生徒の頭に浮かんだものを明確な言葉で表現させてみるべきである。われわれが,われわれの住む世界を近代世界と呼び,そこに住む人間を近代人という場合,それは明らかにわれわれが古代人や中世人とは異なる社会に住み,異なる生活条件を附与されていると考えるべきである。それ故考察は,当然この文明の進んだ,それだけに複雑な時代に生きる各人の思想とか感情といった,いわゆる人間の倫理と関連して来るわけである。そして「近代」という概念をいろいろ検証することにより,われわれは,それを生んだ歴史を通して現実の実体と人間の高貴な意志を示唆することが必要である。
教材の範囲
1.人文主義
(一)古代の復興
(二)ダンテの生がい
(三)イタリアの都市生活と芸術の開花
(四)西ヨーロッパの文芸復興(ドイツ・フランス・イスパニア)
(五)イギリスの文芸復興
2.地理上の発見
(一)コロンブスのアメリカ発見
(二)新大陸における植民と開発──イスパニア・ポルトガルの植民
(三)地埋上の発見がヨーロッパに与えた影響
3.宗教改革
(一)ルター (二)ドイツにおける宗教改革
(三)フランスの宗教改革 (四)イギリスの宗教改革
(五)ジェスイットの運動
4.科学主義の樹立
(一)自然への着眼 (二)文芸復興期における科学技術の進歩
(三)デカルトとべーコン──科学精神の哲学的探究
(四)科学精神と宗教
二.どのようにして近代国家は発達したか。
1.イスパニア・ポルトガル・オランダ
(一)イスパニア・ポルトガルの併合 (二)オランダの独立
(三)イスパニアとイギリス (四)三十年戦争 (五)オランダの隆盛
2.フランス・ルイ王朝の絶対主義
(一)ヘンリー四世の功業 (二)リシュリューとマザラン
(三)ルイ十四世の対外政策 (四)コルべールと重商主義
(五)宮廷生活と文化の円熟 (六)ルイ十四世時代の暗黒面
(七)イスパニア継承戦争
3.イギリスにおける立憲政治の成立
(一)エリザベス時代の繁栄 (二)内乱のぼっ発
(三)クロンウェルの独裁 (四)航海条例 (五)王政復古
(六)名誉革命
4.プロシアの興隆
(一)フリードリッヒ大王に至るまでのプロシアの状態
(二)オースリア継承戦争
(三)七年戦争 (四)フリードリッヒ大王の内政
5.ペーター大帝とロシア帝国の成立
(一)ロシアの国土と住民 (二)ヨーロッパ文明の輸入
(三)北方戦争 (四)カザリン二世とポーランド分割
三.どのような理想によって,アメリカ合衆国は建国されたか。
1.列強の植民地争奪戦とイギリスの制覇
(一)イギリスとオランダの関係
(二)イギリスとフランスの関係
2.アメリカ合衆国の建国
(一)本国と植民地 (二)独立戦争のぼっ発 (三)フランスの援助
(四)イギリス・フランスの海上における争い
(五)アメリカ合衆国の独立 (六)開拓者精神
四.18世紀に至り社会と思想はどのように変化したか。
1.社会の変動
(一)資本主義発生の原因
(二)資本主護の政治への影響 (三)市民階級の内部的変化
2.フランスの旧制度
(一)僧侶と貴族との関係 (二)市民 (三)農民
(四)王権の衰退と諸勢力の動き
3.フランスの啓蒙主義
(一)理性の尊重 (二)イギリス哲学の影響
(三)ヴォルテール・モンテスキュー・ルソー
学習活動の例
1.ルターの生がい 2.シェークスピアの戯曲 3.ワシントンの伝記
4.アメリカの開拓者精神と開発事業
5.クロンウェルの統治とその及ぼした影響
6.グスタフ=アドルフとヴァレンシュタイン(「シラー三十年戦史・ヴァレンシュタイン参照」)
7.ペーター大帝の計画と業績
8.チャールス十二世の活躍
9.フランシスコ=ザビエルの伝記
二.つぎのことがらについて研究し討論すること。
1.近代の意味と近代精神 2.宗教改革の原因とその影響
3.ルネサンスの世界に及ぼした影響
4.日本にはルネッサンスがあったかどうか,あるとすればいつごろか,またその根拠を論じること。
5.ヨーロッパが東洋へ関心を持つようになった理由
6.イギリスとフランスはどのようにして民主主義の方向へ進んだか。
7.アメリカの国民性 8.フリードリッヒ大王の政策
9.ペーター大帝の政策
10.イタリアはなぜ文芸復興のような近代の先駆となりながら,国力を維持し得なかったか。
三.つざの課題について各自作業を行うこと。
1.神聖ローマ帝国の地図を書いて分立していた主要な諸侯の領地を書き入れること。
2.三十年戦争終了当時のヨーロッパの列国の領土の略図を書くこと。
3.ヨーロッパの略図を書いてつぎの都市を記入し,また歴史的にその都市の果した役割と有名になった理由を述べること。
フィレンツェ ボロニャ アウグスブルク リスボン ペテルスブルク
ヴェニス パドワ ヴェルサイユ アムステルダム
4.マキアヴェリの「君主論」と「フィレンツェ史」を読み,かれの歴史観について考察すること。
5.文芸復興期における芸術家の作品を集めて,これを一室に展覧して鑑賞すること。
6.ルソーの「エミール」を読んでかれの教育思想について簡単にまとめて学級に報告すること
7.ルソーの「懺悔(ざんげ)録」を読んでかれの時代と人間及び思想について互に読後感を発表し合うこと。
8.つぎのことがらについてその内容と後世への影響について簡単に述べること。
デカメロン ドンキホーテ 法の精神 活版術
方法序説 神曲 地動説 失楽園
9.本単元の中で文明の発達に寄与した有名な人物少数を表にし,それを選んだ理由とかれらがどの方面に貢献したかを各自述べること。
10.耶蘇会(やそ)は日本においてどのような活動をしたかを,「耶蘇会士日本通」「西教史」などによって調べてみること。
11.ヨーロッパ人の海外における勢力争いが鎖国までの日本にどのような影響を与えているかを調べて報告書にしてみること。
参考書の例
ブルックハルト 伊太利文芸復興期の文化 上・下 岩波書店
村松・藤田訳 (岩波文庫)
大類 伸 イタリヤルネッサンス文化の研究 三省堂
シモンズ 文芸復興(改造文庫) 改造社
田部重冶訳
林 遠夫 文芸復興 小山書店
幸田成友 日欧通交史 岩波書店
高村象平 日葡交通史 国際交通文化協会
ゾンバルト 近世資本主義1,2 生活社
岡崎次郎訳
本位田祥男 近代欧州経済史 日本評論社
大塚久雄 欧州経済史序説 新潮社
藤原守胤 アメリカ建国史論 有斐閣
高木八尺 米国政治史序説 〃
箕作元八 十八世紀佛蘭西文化史
社会主義運動史 冨山房
テーヌ 大革命前の佛国(泰西名著歴史叢書) 国民図書株式会社
松本信廣訳
テーヌ 英国文学史(創元選書) 創元社
平岡 昇訳
ギゾー 欧洲文明史 三邦出版社
中田精一訳
成瀬 正一 佛蘭西文学研究 白水社
幸田成友 フランシスコ=ザビエル小伝
(日本文化名著選) 創元社
小説 その他
メレジュコフスキー 神々の復活(1〜4)(岩波文庫) 岩波書店
米川正夫訳
シェークスピア ヴェニスの商人(岩波文庫) 〃
中野好夫訳
デューマ 三銃士(1〜4)(岩波文庫) 〃
生島遼一訳
ラファイエット夫人 クレーヴの奥方(岩波文庫) 〃
生島遼一訳
メリメ シャルル九世年代記 河出書房
石川剛・石川登志夫訳
シラー 三十年戦史(岩波文庫) 岩波書店
渡邊格司訳
シラー ヴァレンシュタイン(岩波文庫) 岩波書店
鼓常 良訳
ダンテ 神曲 上・下(新潮文庫) 新潮社
生田長江訳
ルソー 懺悔録 上・中・下(岩波文庫) 岩波書店
石川戲庵訳
マキアヴェルリ 君主論(岩波文庫) 〃
黒田正利訳
ランケ フリードリッヒ大王 白水社
溝邊龍雄訳