第五章 指導結果の考査と活用

 

 今までの数学教育では,指導結果の考査は主として計算力について行われた。計算力が数学教育において占める位置は重要である。しかし,数学教育の目標を考えれば,計算力だけで,数学教育の効果を評価することのできないことは、明らかである。

 数学教育は,日常のいろいろな現象に即して,これな考察処理していく能力を養うことをねらってている。計算力が貧弱であると,思考過程において精神的な抵抗を感じ,その処理に全力を注ぐことかできない。しかし,処理の過程において計算力が用いられるといっても,計算力がそこで用いられる全能力でないことはたしかである。そこには,計算力を使って処理していくもとになる能力がなければならない。この能力を見ぬく力ということにする。見ぬく力こそ数学教育がねらっている能力である。しかし,これは能力表にあげた能力や,計算力等,より高次のもので,いわばそれらが有機体となったものであるといえる。見ぬく力は,人間が科学的な生活をしていく基になるもので,人間が環境にはたらきかけて,自分の生活をのばしていくもとになる力であり,いわば,人間の生活力であるといってよい。即ち,見ぬく力は能力表にある各能力によって形作られていく,有機的な能力である。各能力は,また見ぬく力に対して,ちょうど年輪のように,その成長を刻んでいくものであるともみられる。各能力が身につくことによって,見ぬく力という有機体は伸びていく。

 

① 見ぬく力に対する評価

 見ぬく力が実際に現われたものが,子供の数学的なはたらきであるといえる。したがって,この見ぬく力の評価は単なる形式的な考査によって達成されるものではない。教師の継続的な観察によるのほかないものである。あるいは考査の結果を単に形式的に評価せずに,そのよってくるところを子供に聞きただすなどして,判断されるものである。

 見ぬく力は子供の思考過程を調べて,はじめて評価されるものである。表現された形式からのみ評価されるものではなく,表現が示す方向から思考過程を察知して,評価されるものである。

 たとえば,右の図にある黒い丸の個数を問題にした場合について考えよう。

    (一) これを一つずつ丹念に数えて,黒丸の数を知る

    (二) 一つの円周上にある黒丸の数がみな同じで,一つの円周の上に8つあるとし,8の3倍として24を得る。

    (三) 一直線上に6つずつあることを基にし,直線が4本あることから6×4として24を得る。

 この他にもいろいろな考え方があるだろう。結果はいずれも24となるであろうが,その子供の能力には大きな相違のあることがわかる。即ち,子供のもつ見ぬく力に大きな違いがあることが認められるのである。

 したがって,このようなことを考査する場合には,能力表にある幾つかの能力でいろいろに解くことのできる問題が適当である。一通りにしか解決できない問題は,見ぬく力を考査するには不適当であるといえる。

 このような問題は,組織的に計画しておくことが大切である。これは一つの題材を導入し終えて,すぐに行われるものではなく,能力を達成するに必要な形式的なものができたところで行わるべきものである。学習効果が,見ぬく力にまで高められたかどうかをためすものであるから,考査の対象になることがらは,相当以前に学習したものでなくてはならない。ただ知識が使えるかどうかの段階,即ち,意識的に能力を使う段階にあったのでは,まだ子供の能力は見ぬく力にまで高まっていない。その能力が無意識に,あたかも我々の手足か意のままに動くように使われる段階において,始めてその能力が見ぬく力となって現われるのである。

 計算力についても同様なことがいえる。たどえば,46×0.25のような計算でも,この仕方にはいろいろなものが考えられる。

 以上のように同じ計算でも,いろいろな仕方が考えられる。したがって,単なる計算力を考査する場合でも,子供の見ぬく力によって,その計算過程にいちじるしい相違のあることを考えなければならない。こうしたことからも,計算力の判断をしなければならない。

 

② 普通の能力に対する評価

一、授業を終えた後に行われる考査について考えよう。この考査はその時間における授業が適切であったかどうかを調べるのに用いられる。

 抽象的なことがらを教えるのに,子供の環境内にある具体的なことがらを素材として用いるのが普通である。その素材が適当であったかどうかも調べなければならない。そのいずれを考査するにしても,子供の表現を通してみた教育の効果によって,測るより他に方法がない。これは,いろいろな方法で学級をかえて教え,その教育の効果を比較することによって達せられる。

 そこで,教育の効果を知るために行われる考査について考えてみる必要がある。これはその時間に教授したことがらが,どの程度に理解されたかを測るために行われるものである。これにはその時間に目的とした能力を,教師自身が明確に分析して意識し,その各要素に適当する考査の問題が提出されなければならない、もしも,数時間にわたって教授した事項を含むことになると,その考査した結果は,目的にそわないことになる。また,その考査は授業の直後に行われなければならない。相当時間経過してから行うならば,その教室における状態に他の条件が附け加わることになり,考査の目的を達成することができなくなる。なお,このような考査を行う場合に,次のような点に留意しなければならない。

 以上の考査は,次の教授を始める前に,子供がどれ位のことをどの程度にわかっているかを考査するという意味においても大切である。これは教授を始めるに当って,如何なる素材を如何にして教えるかを定めるために必要なものであって,これなしに教授を進めてはならない。

二、次に相当長期にわたって行われた教育の効果を,形式的にみる考査もある。これは普通に用いられる考査で,筆答による場合が多い。しかし,これはその教育されたものの全般にわたることができないから,子供の能力を評価する一つの方法ではあるが,完全なものであるとはいえない。これによってのみ子供の成績を評価することは危険なことである。

 以上の評価の対象となった能力は,その各々が子供のすでに習得している能力と一体となり,見ぬく力として現われて,始めて意義のあるものである。したがって,その評価においても,各能力の評価それ自身だけでは不完全なもので,大して意味を持たない。見ぬく力を評価するという裏づけをもっているものとして,始めて意義のあるものとなる。

 要するに,子供の能力は見ぬく力を主体として評価されなければならない。しかも,その評価は一人々々に対する継続的な計画的な観察によるのが最も理想的である。子供を素直な,しかもたくましい生活力のある人間に育てていく教育においては,正しい評価が必要である。その正しい評価は,教師のたゆまない熱意と努力によって生れるものである。