第四章 学習指導法の一般
一 学習指導は何を目ざすか
学習指導とは,これまで,教授とか授業とかいって来たのと同じ意味のことばである。このことばを聞いて,その意味をごく常識的に考えると,知識や技能を教師が児童や青年に伝えることだと解するかも知れない。しかし,教育の目標としていることがどんなことであるかを考えてみれば,ただ知識や技能を伝えて,それを児童や青年のうちに積み重ねさえすればよいのだとはいえない。学習の指導は,もちろん,それによって人類が過去幾千年かの努力で作りあげて来た知識や技能を,わからせることが一つの課題であるにしても,それだけでその目的を達したとはいわれない。児童や青年は,現在ならびに将来の生活に起る,いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が,またここで養われなくてはならないのである。それでなければ,教育の目標は達せられたとは言われない。
このような学習指導の目ざすところを考えてみると,児童や青年は,現在並びに将来の生活に力になるようなことを,力になるように学ばなくてはならない。そこで,われわれは,その指導にあたって,このような生活についてよく考えた教材を用意して,これを将来の力になるように学ぶよう指導しなくてはならないのである。
では,このような学習の指導を適切にするには,どうしたらよいだろうか。この問に対して第一に答えなくてはならないのは,このような教材をこのような学び方で学んで行くように指導するには,まず「学ぶのは児童だ」ということを,頭の底にしっかりおくことがたいせつだということである。教師が独りよがりにしゃべりたてればそれでよろしいと考えたり,教師が教えさえすればそれが指導だと考えるような,教師中心の考え方は,この際すっかり捨ててしまわなければなるまい。
次に,第二に答えなくてはならないのは,児童や青年をそういうふうに学ばせて行くには,かれらがほんとうに学んでいく道すじに従って,学習の指導をしなくてはならないということである。児童や青年がほんとうに学ぶには,一つの道すじがある。学習の指導はこの道すじに従って,その要点をとらえてなされなくてはならない。
このようなことを考えてみると,ほんとうの学習は,すらすら学ぶことのできるように,こしらえあげた事を記憶するようなことからは生まれて来ない。児童や青年は,まず,自分でみずからの目的をもって,そのやり口を計画し,それによって学習をみずからの力で進め,更に,その努力の結果を自分で反省してみるような,実際の経験を持たなくてはならない。だから,ほんとうの知識,ほんとうの技能は,児童や青年が自分でたてた目的から出た要求を満足させようとする活動からでなければ,できて来ないということを知って,そこから指導法を工夫しなくてはならないのである。
以上のような見方から,ここに学習指導の方法について述べてみたいと思う。この委員会の案は,いわば,一つの試案に過ぎないのであるが,これから,これを手がかりとして,実際家各位が実地の経験による協力をおしまないならば,やがて完全なものに近づくことができようと思う。
二 学習指導法を考えるにどんな問題があるか
以上述べたような立場から学習指導の方法を工夫しようとすると,われわれはいろいろな問題について考えてみなくてはならない。いま,これを簡単に,学習の進められる道筋,すなわち,学習の過程に従って述べてみよう。
1.学習の進められる実情を調べてみて,その発端になるものを求めると,それは目的が知られるということである。学習は,この目的を知ることと,同時にその目的に向かって進もうとする意欲を持つことからはじめられるのである。そして学習がほんとうに進められるには,この目的が児童や青年自身の目的として,学習のはじめから終りまで持ち続けられ,意欲が,また,しょっちゅう動力として働くのでなくてはならない。
2.こうして,学習の発端がつかまれると,児童や青年は,これによって自分の計画をたてて,これを試みるようになる。この場合,計画や試みは,かれらのすでに持っている経験や知識を基礎としてなされる。だから,この基礎になる経験や知識が正しく豊富であれば,学習はなめらかに進むが,そうでなければ進まない。ここに,学習の基礎となり素材になる児童青年の経験や知識の問題がある。
3.上に述べたような計画や試みは,児童や青年自身で営まなくては,真の学習とはいわれない。この計画や試みは,その思考活動によるのであるから,ここに,学習の指導を考える場合には,児童や青年の思考活動の本性の如何が問題となる。
4.児童や青年はこの試みによって正しい理解に達し,結局そこに一つの知識のまとまりなり,考え方なり,技術の形なりを形作るのであるが,学習は,これが更に習熟することによって,身についたときに,完成される。身につくに至らない場合は,その理解はくずれ,忘れられて,学習の効果はみとめられないことになる。ここに,学習の完成のために,練習ということのたいせつな意味がある。
いま次に,これらの問題からみて,指導の方法を考える上に必要と思われることを少しく述べてみよう。
(一)学習の目的と意欲
学習は,どんな場合でも,何かの目的をもっている。だから,児童や青年が学習を進めるには,この目標を知ることが,第一に,たいせつになる。ただしかしこの目標を知るということは,「これを学ぶのだ」と知りさえすればよいのではない。かれらは,その目標を自分の目標として,自分のものにしなければならないのである。そこで,学習の指導をするにあたっては,児童や青年が,ほんとうに,その目標を自分のものとして取り入れるような方法を考えて行かなければならない。そのために,われわれは,かれらがどんな場合にそれを自分の問題として活動を起すかを知って,それを考えあわせて,自分の学習の目的をほんとうに知ることのできる方法を工夫する必要がある。たとえば,音楽を学ばせる場合に,児童のこれから学ぼうとする音楽を,美しく奏したり,うたったりしてみせて,児童に,それを学ぶことが自分にとってどんなに楽しいことかを感じさせたり,粘土細工を学ばせるときに,りっぱにできたものを見せて,児童を刺げきすること,などがその一つで,これらは児童や青年が,その身のまわりに,実際のものを見たり,聞いたりすることで刺げきされて活動する事実を知れば,当然考えられる方法といってよいだろう。
このような事を考えると,それは当然,先にいった児童や青年が積極的な活動を起す動力になる学ぼうとする意欲の問題に関係して来る。つまり,かれらは学習の目的を知るだけでなく,それについての意欲を持たなければならない。この意欲は興味と関係し,そこに自発性が現れて来るのである。この自発性は,単に目的を自分のものとして学習を出発させる動力になるばかりでなく,学習のはじめから終りまで,学習進行の動力として,極めてたいせつな意味を持っている。もちろん,そうはいっても,学習の指導は興味の問題だけに左右されるのではなく,目的によっては,興味がなくても,これを進めなくてはならない場合もあるし,また,興味だけにひきずられて方向をあやまってはならない。ただ,ここでいうのは指導の方法を考える場合には,興味の問題,ひいては自発性の問題が極めて重要であるということを考えておきたいのである。
このような点から,学習の指導法を考える場含には,児童や青年の興味,ないし,自発性がどういうところにあるかを知ることは,極めてたいせつなことであるが,いま,その一般のことを次にあげてみよう。
1.まず,児童や青年がみずから進んで学ぼうとする自発性の源は,その一つをかれらが生まれつき持っているいろいろな活動の興味のうちに見出すことかできる。そこで,学習指導の方法を工夫する場合,このような活動に注意して行くことがたいせつになる。この児童や青年の興味による活動の最もよくあらわれているのは,その遊びの生活である。というのは,遊びとは一つの活動によって生まれるおもしろさが次の活動を誘い出すような形のものであるから,そこに,かれらがどんな事に興味を持って活動するかがよく示されているのである。われわれは,この意味から,児童や青年の遊びをよく見て,その活動を指導方法のうちに取り入れて行くようにすべきである。たとえば,児童がものを組み立てたり,作ったりするような,いわゆる,構成的な遊びをするのを見れば,このような作ったり,組み立てたりする活動を,指導方法として取り扱っていくといったふうにである。
2.次に,児童や青年の自発性の源として考えられるのは,その生活での必要性である。ことに,やや成長した児童または青年になると,必要ということがよく感ぜられるようになるので,このことはいっそう著しい。たとえば,遊びに必要なものを作る時の態度,必要なものをなくした時のそれをさがす態度といったものを見れば,このことがうなずかれるだろう。こういうことを見れば,われわれは,児童または青年がどんな生活の要求を持ち,その要求を満足させるためにどんな活動をするかをよく知って,そのような活動を,指導方法を考える時に,取り入れて行くように工夫することが大切である。たとえば,絵本にある絵を見た児童に,そこに書いてある文字を読みたいと強く感じさせて,児童の求める心持を起させ,そこで文字を学ぶようにするといった工夫が求められるのである。
3.児童や青年の自発性は,かれらがある困難にうちかって,それに成功した場合にもあらわれる。幼い児童が苦心して高いところにのぼった時の喜び,書き取りのできたときの児童の喜びは,次の活動を自発的に起す大きい力となるものであることは,だれでも知っているところである。この意味で,学習指導は児童や青年の能力の発達を考え合わせなくてはならないのであって,能力からとびはなれた指導法をとって,いつも失敗をくり返させるようでは,自発性は失われることになる。そこで,われわれは,児童または青年の精神や身体の発達について知り,その個人による違いに注意して,指導方法を工夫することがたいせつである。すなわち,教材はもちろん,方法の難易についても,その成長や能力にふさわしいものを選び,いつも努力すればうまく行くという心持が持てるように,工夫して行くべきで,かれらはこれによって,いっそう自発的に努力するようになるのである。
凡そ以上のようなことは,たがいに関係していることで,これを分けて考えることは,適当ではないとも思える。たとえば,成功の喜びは,遊びになって行く動機だといえるし,必要への努力は,遊びの中にみられるといえるのである。ここでは,ただ説明のために分けてみただけである。
こうして目的を自分のものとし,学習の全体が自発的に営まれる事情を見渡すと,どれを見ても,児童や青年の生活活動に注意しなくてはならないことがわかる。先にかかげた児童生活の特徴のあらましは,その意味で参考になると思うが,教師はただこの表だけにたよるようなことなく,その地城の児童,または,青年の生活をよく見て,そこに以上のような点から見て,指導方法としてねうちのある活動をたくさんに見出だすことにつとめることがたいせつである。
(二)児童青年の経験と知識
学習が進められるためには,その基礎になる知識経験を,児童や青年が持っていなくてはならない。というのは,結局学習は,この今までに持っている知識経験を基礎として,新しいものをつかんで行く働きだからである。たとえば,5+3を学ぶには,5や3の数観念,加えることの意味が児童にまえもってわかっていなければならない。これを無視して学ばせようとしても,学習は進まない。児童が学ぶのだということは,このような点に関係しても,考えられなくてはならないのである。
このようなことから,学習指導の方法を考える場合には,次のようなことに注意する必要がある。
1.児童や青年の生活経験について注意すること。
児童や青年の知識経験は,その生活から得られるものが多い。そこで,われわれはその地域の児童青年がどんな生活をしているか,そこでどんな知識や経験を得ているかを知って,それらに応じた指導をすることが必要である。たとヘば,理科の指導には,その地域で児童が経験する動植物や気象,あるいは機械などに,どんなものがあるかを見て,指導の内容や方法を考えなくてはならないし,交通機関について学ばせようとすれば,まず,児童の身ぢかな交通機関についての経験を基にしなくてはならない。鉄道のない地方では,自転車や,馬車や,牛車から出発して行く必要があるのである。
2.児童や青年のすでに持っている知識に注意すること。
上のように,児童や青年の経験世界に学習を出発させることは,いわゆる知識といわれないものをも含んでのことであるが,知識といわれるものについても,もちろんそのことが注意されなくてはならない。たとえば,新しく入学した児童に算数を指導しようとすれば,これらの児童の持っている数観念がどんなものかを確かめて,それで,指導をどんなふうにするかを考えなくてはならない。もし,そういう知識が弱い場合は,指導のはじめに,いろいろと方法を講じて,その知識を確かにしておくことも考えなくてはならない。たとえば,ぼんやりした知識をはっきりさせるために,お話しをしたり,絵を見せたり,また思ひ出すような刺げきを与えたりするようなのも,かような方法の一つだし,遠足や見学などをするのも,この意味で必要な場合があるわけである。
(三)児童青年の思考の性質
先に述べたように,児童がほんとうに学ぶには,自分でやり方の計画をたて,それをみずから試みて,それで理解するようにならなければならない。つまり,児童や青年が自分で考え,自分で試みて,一つの知識に達し,考え方に達し,技術に達しなくてはならない。このことは,学習の進められる中心の動きとして見のがしてはならないたいせつな点である。これまでの指導は,ともすると,この点を無視して,教師だけが活動して,児童や青年が自分で考え,試みるかどうかをかえりみないで,うわすべりでもなんでも,無理にもひっぱって行こうとし,そのために,かれらがほんとうには学ばないことが少なくなかった。われわれは,これからの学習指導において,この児童や青年が,みずからの活動によって学んで行くように注意することが特にたいせつである。
このようにして,児童や青年みずから考え,みずから試みて学習することが欠くことのできないことだとすると,この考えたり試みたりする働きは,その思考の性質によってきまって来るのだから,学習の指導には,どうしても,児童や青年の思考が,どんな働きをするかを考え合わせなくてはならないこととなる。しかし,また,かれらの思考の働き方は,その発達によって違っているから,われわれは,この思考の発達について知って,そこから,学習活動を導いて行く道を見つけ出すことが必要になる。このことは,児童や青年が,毎日の生活で,どんな活動をするかをよくみれば,自然にわかることだが,参考のために,その発達の概略と,それにもとづく指導法の工夫について,簡単に述べておくこととする。
1.一二年くらいまでの児童は,先に第二章で見たように,いわゆる自己中心的で,普通にいう論理をたどって考えることをしない。物事を知るのは,やってみて知る,つまり行動で認識するものだといってよい。しかも,この行動は児童の興味によって出て来るのである。だから,このころの児童は,興味を持って行うことで,はじめて学ぶことができる。児童はこのような活動で,その身のまわりと融け合った一つの世界を作りながら,自分というものを見出だし,また自分とその世界との関係がわかって来る。児童は,こうして,ほんとうに学ぶのである。たとえば,積み木に興味を持って,いろいろやっている児童は,積み木と自分との間に,なんのへだたりもない。それと一体になった一つの世界を作っている。しかも,自分の思うように行ったり行かなかったりするところで,問題がわかると同時に,そこにあるいろいろな関係がわかって来る。そこで,ほんとうに積み木について学ぶことができるのである。
こうしてみると,このころの児童の指導方法を考えるには,まず,なんといっても児童の興味に注意し,それから生まれて来る自発的な活動を見出だし,そこに児童の学習活動が営まれるように工夫することがたいせつである。
2.三年あるいは四年くらいの児童になると,自己中心的な傾向はやや脱けて来るので,簡単な論理のすじをとって考えることができるようにはなるが,なお行動によって物事を知ろうとする傾向は著しい。そこで,多少とも知的に考えるような指導方法もとり得るが,なお,興味によって生まれて来る行動によって学ぶことは,その学習の中心の動きとして考えて行く必要がある。したがって,ここでもなお自発的な行動に注意して,指導を工夫することがたいせつである。
3.五年以上では,その発達の上からみて,自己中心的な思考から離れ,論理的な考え方ができるようになるし,あながち,行動しなければわからないともいえなくなる。
このころから,児童の興味は多少とも知的なものに向かって来る。したがって,その活動も,単に行動的なものばかりではなくなって来るわけである。そこで,このころ以後では,行動によって学ぶといふ方法のほか,いわゆる知的な活動—たとえば,説明を聞くとか,調査をするとか,話し合い(討議)をするとかいうような—によって学んで行くことを,指導の方法に取り入れることができるようになる。そして,この傾向は,青年期が近づくに従って著しくなって行くのである。だから,中学校の生徒の指導方法としては,行動的な学習とともに,いわゆる知的な活動による学習が,いろいろ考えられることが当然なのである。
以上のようなことは,もちろん,発達に個人差があるので,ただ単純に年だけにたよって考えたのではこまるが,一応のことは,これらによってわかると思う。要は,児童や青年が,その発達に応じた自発的な活動によって,不自然でない学習をし,それによって,ほんとうに,みずからのものになる学習をするような指導方法を,工夫するようなことがたいせつなのである。
(四)練習
児童や青年は,上に述べて来たように,まず学習の目的を自分のものとして,それに到達しようとする意欲をもって,一つの自発的な活動を起し,それによって,試みを重ねて,理解に達するのであって,ここに,知識や考え方のまとまりができるのである。しかし,それをそのままに放っておくと,その理解はくずれて,再びわからなくなってしまう。ここに練習が必要になり,練習によって,これが身についたものになって来るのである。学習は,これではじめて,完成したということができ,習熟の域に達するのである。
このような練習には,そのことを,だだそのままくり返して行く形のもの—たとえば,書き取りの練習とか,計算の練習とかのように—もないわけではないが,単純なくり返しは,多くの場合,むしろ無駄な努力になりやすい。学んだことを,直接に,いろいろなことに,適用してみるようなことが効果が多いのである。たとえば,ことばを学んだら,そのことばを使って,いろいろな文章を作ってみるとか,一つの形の面積の計算法を学んだら,それを,いろいろな実物の形の面積の計算に適用してみるということが,真に練習の効果をあげる方法となる。いわゆる,応用こそ,練習のたいせつな方法なのである。これらについても,指導法を考える場合に,注意しなくてはならないものがあるのである。
このような練習の形を考えて,指導法を工夫するについては,なお,次のような注意が必要であろう。
1.同じことをくり返して練習する場合には,それを一時に長い時間練習するよりも,短時間長い時期にわたって練習する方が効果が多い。たとえば,運針の練習,計算の練習などをする場合には,できれば,毎日数分の練習を長く続けることが望ましい。
2.この種の練習を,長期にわたってする場合には,とかく,児童でも青年でも,興味を失いやすい。そこで,この興味を持ち続けるような工夫をすることが,たいせつである。たとえば,毎日の成績を記録して,その進歩を自分で知りながら,勇気づけられて練習を続けるといった工夫がいるのである。
3.応用的な練習も,種類によっては,できる限り少しずつ,長期にわたって練習をするように工夫することが望ましい。たとえば,一つの数理の理解についての応用問題を,時々課して,練習を重ねるようなのがそれである。しかし,この種の練習は一つの複雑な活動を工夫することによって,児童や青年の自発的な活動を促すとともに,深く身につくようにすることも,考えらるべきである。学習したことを劇化してみるとか,応用的な問題について話し合い(討議)をしてみるとかいうような方法がそれである。
三 具体的な指導法はどうして組み立てるべきか
以上のような学習指導のいろいろな問題を考えてみると,それらを通じて,具体的に指導法を組み立てて行く上に,考えておかなくてはならない幾つかの事がらが見出だされる。
1.学習の目的を自分の目的とするにも,学習についての意欲をよび起すにも,児童がみずから学んで行くにも,すべて,児童や青年の自学的な活動が求められる。だから,指導法の問題は,いかにして児童や青年の活動をその方向に起こさせ,また,それを続けさせるかが,その中心の問題となる。指導法とは,すなわち,このような方向を持つ自発活動を,どのように取り扱うかの工夫だといっても過言ではない。
2.しかし,この活動は,児童の発達によって異なったものが見られる。したがって,活動の取り扱い方は,児童の発達に即して考えられなくてはならない。
3.学習は一つの過程をとって進められる。そして,この過程の移り行きに従って,児童の動き方が違って来る。だから,児童の活動の取り扱い方も,学習の進行につれて,変わって来なければならない。
4.なお,学習には,児童のすでに持っている経験や,知識がたいせつな役割を持っているし,児童の活動も地域によって違うし,また,そういったことは,個人的の相違もあるから,以上のようなことを考えて行くにあたって,教師は直接に,自分の指導する児童について絶えず観察をし,その状態を確かめて行くことがたいせつである。
これらのことを基にして,ここに,いっそう具体的に,指導方法をどんなふうに系統づけて行くかについて,参考になることを述べておこう。
(一)児童や青年の自発活動を考える
先に述べたように,学習の指導は児童や青年の活動を,いかに取り扱うかが中心の問題になる。しかも,それは児童自身の積極的な,また学習の目的に合った活動を求めなくてはならない。すなはち,学習の目的に合った興味による自発活動を中心として,これを考えて行かなくてはならないのである。そこで,いまこの種の自発活動のおもなもの—特に生まれつき持っている活動—を考えてみると次のようなものがあげられる。
1.身体的な活動。
児童や青年には,筋肉的な活動を喜ぶ性質がある。駆けたり,なわとびをしたり,飛んだりすることをおもしろがり,また歌いながら踊ったり,歩いたりするような運動のリズムを楽しむことは誰でもよく知っている。こういったものは,特に競争の要素がはいっている場合は,それでいっそう興味を感ずるが,そうでなくても,運動やリズムを持った運動をおもしろがる性質は,十分に認められる。われわれは,児童や青年の自発活動を,ここに求めることができる。この意味から,あらゆる運動遊戯—走る,飛ぶ,踊る,投げるなどの—に注意して,そこにねうちのある活動を,学習の指導において取り扱うことが,たいせつである。
2.好奇心を満足させる活動。
児童や青年が,好奇心を満足させるために,懸命な活動をすることは,これまた,だれでもよく知っていることである。かくれているものをうかがってみる,物を分解してみる,不思議だと思うと手を出したり,質問したりする,といった活動がそれである。このような生活は,いわば,一つの求知心の動きであって,児童や青年の自発的な学習を動かして行く力として,極めてたいせつなものである。だから,学習指導の方法として,この種の活動を重んずべきことはいうまでもない。いわゆる,児童のいたずらと見られている,物にさわってみたり,つついてみたりするようなものから,いろいろな質問をするような動き,更には,児童の知的な発達に従って,調査すること,実験すること,書物を読むことなど,この種の活動として考えらるべき多くのものがある。これらは,いずれも,児童や青年が好奇心を起すことに根本があるので,学習の指導にあたっては,かれらを,そういう興味を起すような事情におくことがたいせつである。
3.社会的な活勧。
児童には,すでに,幼い時から,おたがいにいっしょになろうとし,また,おたがいにつながりを求めようとする動きがある。児童が独りでいることを嫌い,他を求め,いっしょに話し合ったり,遊んだりする強い要求をもっていることは,だれでも知っている。このような,社会的な動きは,先に児童の生活として述べたように,一般として,幼い児童では,極めて小さい集まり—二人または三人—に過ぎないし,またその関係も浅い。おたがいは,だだいっしょになるというだけで,そのつながりは,しっかりはしていないのである。しかし年をかさねるにつれてだんだん,そのなかまの数も増して,四年ごろになると,たがいのつながりがはっきりして来る。そして,五年ごろには学級という集団さえわかるようになって来るし,青年期になれば,この要求はますます強くなって来る。—ただ女児では,この傾きが少し違っていて,一般として,そのなかまが小さい—このような児童や青年の社会的な動きや,その男女による相違や,更に,年齢によっての相違は,児童や青年の遊びについて観察すれば,よく知られる。社会的な活動は,かれらの生活を通じてみて,極めて著しいものの一つだといってよい。だから,この種の活動に注意して,これによって,学習を進めることは,極めてたいせつである。話すこと,聞くこと,話し合ひ(討議)をすること,手紙を書くこと,共同の遊び,共同の仕事,共同の調査など,いずれもこの社会的な活動として,注意さるべきものである。この社会的な活動は,ただ児童や青年の自発的活動として,他の活動とともに,学習指導において,取り扱うべきだというばかりでなく,それが,一つには社会的な活動の訓練となり,民主的な精神を植えつけて行く上に,大きい意味を持っていることは,注意すべきだろう。すなわち,児童や青年は,このような活動によって,おたがいが他人の自由を尊重し,人格を重んずべきことを学び,また,みずからの社会における責任を自覚するようになって行くことができる。たとえば,ひとの話しをよく聞き,自分の考えをよく話し,たがいに意見をはっきり話し合って,譲るべきはゆずり,仕事をいっしょにする時には,自分の責任をしっかり果たしながら,他人と力を合わせるといったことは,このような活動の導きによって得られるところで,どれも民主的な国民のたいせつな態度だといわなくてはならないのである。
4.ものをもてあそんだり組み立てたりする活動。
児童には,好奇心から,眼の前にあるものに手を出してみたがる動きがあるが,同時にそれを手にしていじってみたり,形を変えてみたり,時には組み立てて何かを作ってみようとする動きがある。砂で山を作って,トンネルをあけたり,積み木に一生懸命になったりするのは,つねひごろ,われわれの見ている,児童の生活であるが,それがつまり,この種の活動なのである。これらの活動はまた児童や青年の自発的な活動として,学習を進めて行く上に,たいせつな働きを持つものである。しかも,これらは,児童や青年の思考を練り,工夫考案の能力をたかめ,手先の運動をたっしゃにするねうちを持っているのである。このいろいろなものを組み立てることや,また,いろいろなものを作ることなどは,この種の活動として,これまでも学習指導法のうちに取り入れられているが,これからも十分に注意して行くべきものということができる。
5.劇的な遊びの活動
児童は幼いときから,ままごとや人形遊びに興じ,長ずるに従って,いわゆる劇的な遊びをしたがるものであることは,これまた,だれもが知っているところである。この動きは児童の自発活動として,また学習活動として,大きなねうちを持つものである。対話のようなものから,室内劇,野外劇などにいたるまで,このような活動としてあげることができる。
6.表現の活動。
児童は,自分の見たことを絵にかいたり,感じたり考えたりしたことをしゃべったり,文章にしたり,時にはうたって見たりすることに興味を持っている。やや長ずれば,絵をかき,詩を作り,歌を作り,メロディを口ずさみ,論文を書くなど,さまざまな表現に,強い興味を持って動く。このような自発的な活勧は,児童や青年の学習に,大きい役割を持って働くことはいうまでもない。絵をかき,歌をうたい,曲を作り,装飾をし,詩や歌や文章を作るなどの美的な表現から,図をかき,表を作り,論文をかくような知的な色合いを持つものまで,学習指導の方法として,注意すべき活動がきわめて多いのである。
7.物を集める活動。
児童や青年が,いろいろなものを集めることに興味を持っていることは,これまたよく知られていることである。千代紙や,絵はがき,切手のようなものから,時には,石ころや,紙切れのようなものまで,はじめはただ数の多くを集めることを楽しむが,長ずるに従って,色や形の違ったものを集めたり,何かの系統によって集めることに興味を持つ。この種の活動も,また学習の活動として,たいせつな意味を持っている。すなはち,貝がらを集めたり,こん虫を集めたり,植物のおし葉をたくさん作ったり,新聞の記事を集めたりするような活動は,学習活動を形作るものとして,注意すべきものなのである。
以上述べたような,いろいろな種類の自発活動は,いわば児童に一般的に見られるものであって,これらは,ところどころでふれたように,もちろん,幼児から青年までの発達に従って,そのあらわれは異って見られる。たとえば,運動的な活動の一つとして,幼い児童はただボ−ルを投げて興ずるが,長ずれば投げたり受け取ったりして遊ぶだろうし,更に,青年期に近づくに従って,野球のような規則のむずかしい,しかも社会的なつながりの複雑な形の遊びになって行く。また,劇的な活動も,幼い時には,ままごとなどの形であらわれて来るが,長ずると,いわゆる劇としての形をもったり,実際の活動—炊事をするような—となって来る。積み木遊びも幼い時は,単純にただ積み重ねることに興味を持つが,やがて意味のあるものを作るようになり,更に長ずれば実際の小屋を建ててみるような,成人の実生活に近い営みをしようとするようになる。だから,これらの活動は,いうまでもなく,児童や青年の発達に従って,その学習活動としての形が違って来なくてはならない。われわれが,児童や青年の生活をよく見て,その自発的な活動に注意すれば,おのずから,どういう活動が注意さるべきであるかが,わかって来るに相違ない。上に述べたようなことは,ただその場合の参考であるに過ぎない。
(二)教具・設備・施設について。
さて,これらの活動は,児童や青年の自発的な動きであるから,「やれ」といって,期待する活動があらわれて来るのでもなければ,ただ「やめよ」といって止めさせることのできるものでもない。こういう活動が生まれて来るのは,環境がそういう状態にあるからであり,逆にそういう活動が出て来ないのは,環境がまたそういう活動の起らないような状態であるからである。そこで,われわれが期待するような望ましい活動を児童に求めるには,それに応ずる,よい環境を作って行かなくてはならない。環境がわるければ,期待しない,また望ましくもない方向に,活動が起って来ることになるのである。この環境を作るものとして,一番有力なものは,教師であるが,そのほかに,なお,いろいろな設備だとか,教具だとか,広くいって環境を作る物や社会がある。ここに,教具や設備,あるいは,施設などのたいせつな意味がある。
このような意味で,教具や設備,更に,環境のいろいろな自然や施設などのことを,ここに少しくふれておく必要があるが,これを以上のような活動の種類に関係づけてみると,
運動的な活動については,自由に運動する場所,種々な運動具,あるいは運動活動を刺激する教具,たとえば,運動している有様をかいた絵や写真,映画,運動をさそう音楽のための楽器など。
好奇心を満足させる活動については,観察できる植物や,動物類,遊び道具,器械,実験用具,映画,幻燈,紙芝居,写真,絵,児童図書室など。
社会活動については,共同遊戯や共同作業に必要な遊具,作業用具,話し合いに適した教室など。
もてあそんだり組み立てたりする活動については,いろいろな実物,砂箱,積み木,組み立て遊び道具,工作用具など。
劇的な活動については,それをするに適した設備のある教室,また適切な用具など。
表現活動のためには,ラジオ,映画,絵画,音盤,楽器,工作用具など。
物を集める活動のためには,児童の集めた実物,標本,スクラップ・ブックなど。
といったものが考えられる。もちろん,これからの教具や設備は,いろいろな場合に用いられるのであって,それは,それぞれの活動を,どうしたら一番自然に,しかも活発に引き出すことができるかを考えてみれば,よくわかることと思う。環境の自然や施設(たとえば郵便局,役場,農業会,購買組合,あるいは事業場,商店,工場,植物園,動物園などのような)なども,こうした考えのうちにいれてみれば,またその利用が考えられると思うし,新しい教具や設備なども考案される必要も出て来ると思う。要は,先にいったように,児童の自発的な活動を刺げきし,望ましい方向に発展させて行くために,児童の環境をどんなふうに作ったらよいかを考えて,それを実現すればこれらの問題が解決されるのである。(この種の教具としてたいせつな映画,フイルム,幻燈のスライドの現在わが国にあるものについては文部省社会教育局から発行されている教育映画等審査目録に注意されたい。)
(三)児童の発達を考える
さて,指導法を組み立てて行く場合,以上のような児童や青年の活動を,どう取り扱うかは,その中心の問題であるが,これらを取り扱うにあたって,児童の発達を考えなくてはならないことは,いうまでもないことだろう。低学年の児童の指導には,それにふさわしい活動があり,高学年の児童または青年の指導には,また,それにふさわしい活動がある。もし,この発達に相応しない活動を取り入れて指導しようとしても,その指導は失敗に終わらざるを得ない。そこで,指導の方法を工夫する場合,その学年の児童についてよく観察して,それらの児童にふさわしい活動を取り扱うことは,必ず考えなくてはならない。
(四)学習の進行にそうこと
こうして,それぞれの学年にふさわしい活動を考えるとしても,その活動は,また,学習の進行につれて違って行かなけれはなるまい。学習の進行,すなわち指導の進行は,次の目的を知り,次のおよそ三つの段階に分けてみることができる。
第一の段階は,目的を知り,その学習に必要な素材をそこに取り出してみるともいうような,一種の前提になる段階で,いわば,問題に近づく段階とも端緒の段階ともいってみることができる。
第二の段階は,みずから計画をたてて試み,それによって,一つの正しい考え方をまとめ,知識をまとめる段階で,これを組織の段階とも理解の段階ともいうことができる。
第三の段階は,練習や応用の段階で,いわば,終末の段階である。
指導の方法として取り入れる活動は,このような学習の進行につれて,それぞれ,それに適切なものが考えられなくてはならない。たとえば,第一の端緒の段階では,学習の目的を児童や青年が自分のものとし,—つまり問題を発見し—学習への意欲を呼び起し,更に,学習の基礎になる経験や知識をはっきりさせるような活動を起させることがたいせつである。そのためには,映画や,幻燈や,紙芝居などで求知心を刺げきしたり,話し合いで問題を発見したり,遠足や,旅行や,見学で経験を拡げたり,興味を刺げきされるような活動が,取り扱われることが求められる。
第二の理解の段階では,児童や青年がみずから計画し,みずから試み,考えることがたいせつであるから,この点から,実験をする—程度はさまざまであるが—とか,物を作ってみるとか,図や表を作るとか,調査や研究をするとか,意見を話し合ってみるとか,本を読んでみるとかいうような活動を,呼び起すようにしなくてはなるまい。児童や青年は,こういう活動で自分の計画なり,考えなりをたて,それを試みて訂正を加え,自分の力と教師の助力で理解に達するように導かれる必要がある。つまり,この段階で呼び起される活動は,それによって,児童や青年が,教師の助力もさることながら,自分で理解に到達するようなものであることがたいせつである。
応用練習の段階では,もし同じことをくり返さなくてはならないような時には,競技をするとか,自分の進歩を児童が記録するとかいった活動が,呼び起されるべきだが,応用的な練習については,絵をかく,図を作る,劇をする,詩や歌や文章を作るといった表現的な活動が多く考えられ得る。とにかく,これによって,学習したことが身につくことを目ざして,児童や青年がいろいろな活動を呼び起して行くことがたいせつである。
(五)学習目的を考えること
以上は指導法として,児童の活動をどんなふうに取り扱うかを,学習目標の別なしに考えてみたのであるが,指導法を更に具体的に考えるには,この学習目標の別を考えなくてはならない。
さてこの学習目標を広く考えて大別してみると
1.一つの考え方の理解にいたるもの(問題解決の学習)たとえば,理科や科学の原理や,算数の解法などを学ぶような。
2.与えられた知識を獲得するもの(記憶的学習)たとえば,社会生活の知識や,文字の読みや意味を学ぶような。
3.一つの知識を外物の観察によって得るもの(観察的学習)たとえば,自然の観察,実験による知識の獲得のような。
4.一つの技術にいたるもの(技術的学習)たとえば,体操や,図画や,習字の技法を学ぶような。
5.鑑賞力を養うもの,たとえば,音楽や絵画の鑑賞のような。
6.態度を養うもの,たとえば,健康の習慣や,礼儀ある態度を身につけるような。
ことをあげることができる。指導の方法が,これらの目的とするところによって,異ならなくてはならぬもののあることは,いうまでもないが,その相違は,また,取り扱う活動の相違でなくてはならない。たとえば,記憶的な学習では,まず,端緒の段階で,絵を見るとか,お話を聞くとか,見学をするとかいったような活動を呼び起して,学習事項について,周辺的な経験を与えたり,好奇心を刺げきしたりする必要があるが,理解の段階では,絵を見ながら話を聞くとか,紙芝居を見るとか,映画を見るとか,時には図をかいてみたり,調査をしてみたり,本を読んでみたりするような活動がなされ,応用の段階では,文章や歌を作ったり,劇をやったり,お話を作ったりするような活動が,呼び起されるが必要あるのである。
これらは,ここにくどくどしく説明しないでも,それぞれの学習の特色を考え,学習の進行段階を考えることで,それにふさわしい活動を取り扱うことができると思う。
以上は,ただ指導法の一般として,学習指導の方法が,どんなふうに考えられるべきかを概説したに過ぎない。いうまでもなく,これらの具体的なことは,学年により,児童により,教科により,教材に即して考えられなくてはならない。各教科の「指導要領」においては,その教科の指導法を説明し,更に,各学年の単元において,いっそう具体的に,児童や生徒の活動を考えてみた。教師各位は,現場の実情に応じて,これらを参考として,実際の指導法を工夫されたい。